
私は杜の都といわれた東北の都市、仙台で生まれた。
幼い頃の想い出として、我家には先祖が使用したと云う「紺糸威の大鎧」や「卬之花威の胴」「五色威の具足」
等を始め太刀や槍、薙刀、金蒔絵のいろいろな道具類、それに大きな厨子に納まって微笑んでいる日蓮大聖人
の御影、また日目上人が携えて来たと云う大大曼荼羅や本門灌頂幡、日蓮大聖人筆の『立正安国論』等々
奏しての「灌頂幡」を拡げて来客を相手に話しをしていた父の姿を懐かく思いだす。
幼い頃、こうした環境の中で成長し十一歳の時、父に連れられて勉学の為上京し伯父の許に一時預けられ、
足掛け二年程伯父のもとから通学しましたが、その間に父と伯父との間で財産問題から確執が生じ、十三歳の時、
豊田と云う人の処へ嫁いだ父妹の所へ預けられ暫くその叔母のもとで生活することになりました。
東京の日本橋に在った叔母の家に移った私の所へ仙台の父からトラック二台に山積した荷物が送られて来たの
はそれから間もなくでした。荷物をほどいてみるとその中の一つの荷に「日蓮大聖人」の御影像が納められていました。
その時、偶然に豊田の叔父の身内で築地で鮭問屋を営んでいる馬場さんが訪ねて来ました。
そして馬場さんは、その僧形の等身大の御影像を見て驚き豊田の叔父に大謗法とまくしたてたのであります。
そこで私が馬場さんに此の御影は日蓮大聖人野「正身の御影」と云れれるお像で、なぜ我が家にわっているのか
を説明しました。
日蓮正宗大石寺で第三祖と仰ぐ蓮蔵房日目上人が家から輩出したのを始めとして、その後嗣の日道上人・日行
上人・日時上人等の歴代大石寺上人は皆我が家の一族であった旨を話し、そのような事情で御影像や大曼荼羅が
伝えられていることを説明しましたが、馬場さんにはそのことを理解することが出来なかったようでした。
後で豊田の叔父から聞いてわかった事ですが、この馬場さ云う人は熱心な日蓮正宗創価学会の会員で当時築地
支部長を兼ね創価学会員の中では大変有名な人だったのであります。
馬場さんは私の話しを創価学会本部にもっていき戸田氏に話したようで私の父と当時創価学会会長の戸田城聖氏
が東京信濃町の創価学会本部で対論することになりました。
戸田氏は我家に伝えた大聖人の遺品を眞正なものとして認めた上で「猶、血脈相承の富士大石寺に存在していれば
だめだ、大石寺に返還して来れ、」との一点張り出、その結果はお互いに痼を残して終わりました。
それといのは私の父の主張は富士門の正嫡、日目上人の正統血脈の遠裔という歴史的立場にたっての主張で
あり戸田氏の方は日蓮正宗大石寺の歴史の思い込みを基本としての主張だったからであります。
この対論から暫く経って創価学会の機関誌『大白蓮華』に日目上人の出自に関した記事が相次いで発表される
ようになったのであります。
当たり前と云えばそれまででありますが、そこに発表された日目上人を中心とした小野寺家の歴史は創価学会に
都合よく歪曲され、私が幼い頃、父から聞かされていたそれは大変相違していました。
そしてその事が私をして我が家の歴史と日目上人及び大石寺について研究するきっかけと成ったのであります。
十六歳の時、叔母のもとより父のもとに帰り、それまでの文献による研究成果を『日目上人と耳引の法門』の表題の
もとに纏めました。
その原稿は創価学会某部が出版を検討するからと持帰り、その後、再三の請求にもかかわらず返還もなくいつし
か行方不明となってしまいました。
そこで私は再度より確かな正伝を執筆することを決意し、史跡検証のため日目上人の誕生の地といわれる伊豆の畑
毛地を訪問し、土地の人々が館跡と呼んでいる小高い丘訪ねました。
丘の上には中央に古いお堂が建ちその裏の方に一軒の隠居家と思われる家が在てその前庭に「日目上人日道上人
誕生之地」という小さな石碑が建っていました。
そしてその家の長押には雪山荘と云う額が掛られていました。
玄関で案内を乞うと、始めに中年の女性が出て来ました。
私は名を名乗り用件を伝えると奥から一人老人が出て来て「さあどうぞ、遠慮なくお上がり下さい。」としきりに進めて
下さるのであがらせていただき、堀上人の仏間と云う所へ通され、そこで話しをしている内に、その人が小説『日蓮大
聖人』の著者の湊邦三氏とわかりました。
湊氏の話しでは信仰上の理由から文壇と一切の交渉を断ち、この堀日亨師の遺跡「雪山荘」の管理を引受、ここに
引籠って富士興隆のためにペンを取っているとの事で富士門の歴史について種々にがはずみました。
その時の話しの中で「もう三、四年早く貴方がお訪ね下されば堀上人もさぞかし喜ぱれたのに、永くお待ちしていた
のですよ。」と云われたことが私には強く印象に残ったのであります。
凑氏が帰り際に申された「お山の方に、お話し致しておきますから是非一度、日達上人にお会いして見て下さい。」
という言葉を最後に私は雪山荘を辞去しました。
それから暫くして以前に『日目上人と耳引野法門』の出版を相談したことのあった、東京港区芝の「実業の世界社」
から電話があり『創価学会を折伏する』という本を発行するから編集に参加しないかというので、「実業の世界社」を
訪ね、原稿の内容を拝見したところ、その内容は創価学会似対する剥出の感情論で埋まっていたので、わたしの見
解を述べ、内容のレベルを高める事を要求しましたが無理ということなので、私の参加すベきものではないと判断して
辞退し、日目上人の御伝をより正確にするため我が家に伝えられている品の内「本門灌頂幡」と二、三の資料を携えて、
本門寺の名に引かれ始めに静岡県富士郡芝川町所在の西山本門寺を訪ねました。
当時の西山本門寺野住職は白蓮阿闍梨日興上人の産館の末裔といわれる由比日光師であり由比師はお体をこわさ
れ手いた様子でありましたが、突然の訪問に快くお会してくれました。
そこで訪問の目的を告げるとわざわざ近隣の檀家に連絡を取り三名程の人を呼び集められました。
そしてそれから私の質問に対して、西山に保在されている資料を取り出し、また西山に残された伝説等を話して下さ
いました。
私が我が家に伝わる「灌頂幡」にまつわる話しを始めたところ、日光師は急に真剣な顔になり「それで日蓮大聖人
の本当の大本尊は貴方がお持ちなのですか」と質されしばし黙考されました。
その時、私には由比師のその言葉の持つ意味を理解することはできず何のことやらわからないま、夜も更けたので謝
辞を述ベ西山を辝去しました。
そうして日を改めて今度家北山本門寺を訪問しました。本坊を訪ねると、「歴史的なことは搭中の早川師を訪ねて聞
いて下さい。」とのことで教学部長という早川達道師を紹介され早川師の坊で対談しましたが得るべきもの何もありま
せんでした。
それから富士下条の妙蓮寺や下之坊、小泉の久遠寺、京都の要法寺、日目上人の御正墓の所在地、京都鳥辺
野の実報寺、日目上人御入滅の処と伝える岐阜の垂井の日目庵、日蓮大聖人御真で日目上人授与の大曼荼羅を
伝固定る三重県桑名の寿量寺、小寺虎王磨与の大曼荼羅を伝える栃木の信行寺、仙台の仏眼寺、登米の本源寺
保田の妙本寺と日目上人に関係があると思われる寺院、史跡に足を運び調査を進めて行くうちに『日目上人正伝』
は、いつしか「富士門史」となりつつありました。
日蓮宗富士門流の概要を知り得、ようやく日目上人の事蹟の全貌に光が見え始めて来た頃、凑氏から電話連絡が
あったという事なので連絡して見ると「日逹上人にお話した処、大変喜ばれて是非御来山下さい。」という伝言があっ
たという連絡でした。
その伝言が在手暫くして埼玉県大宮の日蓮正宗因寺の矢島覚道師が私の留守中の目黒の私宅に尋ねてこられま
した。
矢島師は我が家の家系を当時病床に伏していた父から概略を聞き、我が家に残された歴史資料の一部を見て帰った
そうです。
その後、数日を経て大石寺より「是非一度お山にお越し下さいご案内いたします。」という連絡があり、迎えの人々と
共に大石寺に登しました。大石寺では大勢が山門に並んで出迎えて下さり、日達師の先導で大石寺「六壺」以下の
諸堂の内部を案内していただきました。
その後、私は『日目上人正伝』に使用するため最も相応しい資料の写真版を拝借すべく大石寺・内事部を訪ねたと
ころ各種の写真版は創価学会野方に保管されていて内事部には無いという返答でした。
そこで創価学会より写真版を借用すべく、故戸田城聖創価学会会長の甥に当たり知人でもある村上修氏にその
旨を話した処、村上氏は、「それでは和泉副会長を紹介しましょう。」
と.、いわれその場から電話で連絡を取り、翌々日、東京信濃町の創価学会本部に村上氏とともに和泉氏を訪ね用件
を話し協力方を依頼しました。
その時、和泉氏の返事は
「本の内容が総本山に直接関係することだから大石寺の教学部長である京都、平安寺の住職阿部信雄師を紹介
政しますから、阿部師と話し合ってみて下さい。」と言われ、阿部住職の都合を聞いて連絡すると云う事になりました。
暫く連絡を待ちましたが、いつまでも連絡がないので二、三度、私は創価学会本部へ電話連絡をし和泉をよんでもら
いました。
ところが電話口で確かに居たはずの和泉氏が私からの電話戸知ると突然に食事に出掛けたことになってしまったり
急用で突然行方不明になってしまったり、折り返し電話連絡を下さるという返事に一日中待っても連絡がなかったり
という状態に私も呆れ果ててしまい、紹介者の村上氏に状況を話し釈明を求めた処、すぐ調べて連絡するということ
になりました。
村上氏の報告では「貴方の親戚の伊達貞宗(仙台伊達家第十七代当主)さんが貴方の事を盛んに和泉氏に中傷
しているので和泉氏は貴方を警戒しているのだ。私から貴方と伊達の関係を誤解のないように良く説明しておいたか
ら連絡を取ってみて下さい。」という話しであったが、そうこうしている中に創価学会会長池田大作氏の板曼奈羅刻事
件と呼ばれる事件が発覚して大石寺対創価学会の関係も騒然となり、その機会を失ってしまい、その後、日達師も遷
化してしまわれたのであります。
その日は日達師画日蓮正宗の管長に就任されて始めての日蓮正宗大石寺の「本門戒壇之願主弥四郎国重」
板曼奈羅本尊御開扉の当日であったと記憶しています。
私が日達師に「日目上人野天奏と富士山本門寺の勅の問題」そうして「我が家日目上人」の関係、また現在に至る
経緯等を話し日達師の意見を伺いました。
それに対して日達師から種々の質問があり、そうしてその後に、私の主である「過去に富士に勅許を以って建立
された富士山本門寺が存在していた事実がある。」ということに、日達師も「現在、大石寺にはその問題に対して確固
とした証拠となるべき文献並びに資料は残されていないが個人的には私もその様に思う。」と述べられたのであります。
本堂の御開扉の予定時間が既に経過して役憎が度々日達師を迎えにこらえるので、私も本日の対談はこれまでと
いうことにして大石寺を辞去しました。
辞去の間際、日達師の管長就任のお祝いに私が福島県伊達君に所有する富士門有縁の寺跡を寄進する旨を伝
え寄進の実務を私の秘書的役目を担っていた者に一任しました。
ところが周知の如く当時、日蓮正宗総本山大石寺を取り巻く状況は混乱を極めていました。
後で聞き知った事でありますが、その土地の件で私の秘書と大石寺側に話しの行き違いが生じ、私の真意が日達師
に正しく伝わらず日達師は一方的に誤解されたようであります。
その頃、また別の人物から偶然「前総監の早瀬日慈師にお会いしてみませんか。」と話しがあり池袋の法道院に早瀬
師を訪ねてお会いしました。
最初に訪問した時は早瀬師は何事とか警戒ぎみでしたが、私と故日達師との関係や日達師との関わりを有りのまま
に話して行く内に胸襟を開かれ、
「お祖父さん(堀日亨師)が生きていたら、さぞかし喜ばれたのに残念なにことだ。自由に、是非いつでもお越し下
さい。」
といわれ、私はその言葉にあまえて度々法道院を訪ね、日瀬師に忌憚のない私の意見を申し述べさせていただき
ました。
当然、私の意見の中には日蓮正宗総本山大石寺で本門戒壇の大御本尊と称している願主弥四郎国重の「楠板彫
刻大曼荼羅」についてでもあり、このような経緯を経て昭和五十六年に『日目上人御正伝』の草稿はできあがったの
であります。明ければ日目上人の六百五十年遠忌に当る年となっていました。
『日目上人御正伝』の巻頭を飾るべき適当な資料を撮影すべく父から譲り受けた品々の全部を開いて見る事にし、
灌頂幡の蔵められている金唐革で覆われた「和櫃」や諸々の道具が収められている黒漆の「長持」「挟箱」を開いて
中に納められている一つ一つを取り出し最後にいくつかの嵩張る「屏風箱」の点検に入り、父から時が来る迄、目が
潰れるから絶対に開けてはならないと申し送りされた「屏風箱」を引き摺り出し蓋を開けて見ると、そこには
背絹がボロボロになった六曲二双の金屏風が納まっていました。
その屏風を取り出そうとしたところ、大変に重く屏風箱を横倒しにして
屏風を取り出して見ると、そこに金屏風の中を刳りぬいて「本因妙大
本尊」が隠し込められていたのであります。
昭和五十六年の夏「本因妙大本尊」を屏風箱の中の屏風をくり抜いた
中から発見した、時、初めの頃は、自分でいうのもおかしいのですが
半信信疑でした。
何故かというと以前に、(昭和三十八・九年頃)富士の芝川町に西山本
門寺を訪ねた折り、貫主の由比日光師が案内して下さった客殿の脇の
「尊霊殿」という近衞文麿氏の筆に成る金文字の額が掲げられていた
小堂の内陣に北朝の後水尾院や新広義門院、無上法院常子、明治
陛下並びに歴代徳川将軍、武田信玄や勝頼の霊牌とともにその中央
に「本因妙大本尊」と相貌が全く同じものが金箔置きの大きな唐獅子
の様な彫り物の上に蓮華台座が置かれ、その上に奉安されていた記
憶があったからであります。
由比師の安内で拝見た時、私は比の「大本尊」の裏に何か銘文でも彫り込まれていますかと尋ねたところ、由比師
は「ただ本因妙とのみ彫られている。」と答えられ、そして「これは当山の本尊でない。」と否定されたのであります。
私は、不思議に思い「では西山本門寺の御本尊様はいずこにあられ
るのですか」と問い質したところ、由比師は「客殿の正面の重要文化
財指定の『御宮殿』の後ろの方に掛けられているのがそうである」と、
いう答でした。
由比師の案内で客殿の裏に回り西山本門寺の大本尊を拝見しました
が回りが薄暗く、よく拝見出来なかったので由比師の承諸諾のもと
御客殿の須弥壇の上に登り蝋臅を近づけて全体を拝見してみたところ、
そこに掲げられていたのは日蓮大聖人が建治二年(一二七六)二月
五日お認めの大曼陀羅を板に写し刻んだものであり、それを西山本門寺
では「万年救護本尊」と呼んでいたのであります。
その板曼陀羅本尊には日興上人が大聖人御聖筆曼陀羅に「本門寺に懸け万年の重宝たるなり。」
と加筆したその文字も彫られていました。
即ち、西山本門寺では日興上人の「本門寺に懸け万年の重宝たるなり。」の添書きを以って「万年救護の本尊」と
称していたのであります。
そこで「本因妙大本尊」と同じ相貌をした本尊が他に存在していないかということの調査を行ったところ、同じ相貌の
ものが日蓮正宗総本山大石寺の大講堂、東京池袋の日蓮正宗常在寺、甲州身延山久遠寺奥院、伊豆の国分寺等
に存在していることを知りました。
また、日蓮大聖人が紙本にお認めになられたものが千葉県安房郡保田の日蓮正宗本山妙本寺に保存されていて、
妙本寺の紙本は国指定の重要文化財になっていることも知りました。
そこで、それぞれの寺院の記録から先ずその大本尊画勧請された時代と縁起を調べて見る事にして調査をしました。
池袋常在寺の板大本尊は元大石寺本門戒壇堂【現在は御影堂と称している)の常住本尊で日精師が「延宝七年
二月十三日造立」したものであることがわかりました。
また現在大石寺講堂に奉安されているものは「元文五年二月六日」に大石寺三十世の日忠師の造立に依るもので
あることがわかり、そしてその裏銘文に
一心欲見仏不自惜身命、 在在諸仏土常洪與倶生 大日本国駿河州
時我及衆僧倶出靈鷲山、 又聞成菩提師弟檀那、 大日蓮華山大石之精舎
後五百歳 廣宣流布、 異躰同心信心不退 第三十世
尾閻浮提 無令断絶 日忠在判
太才
我本立誓願欲令一切衆 囗元文第五
申戌
如我等無異 如我昔所願 二月中澣六日 惠了日比丘
今者己満足化一切衆生 奉彫之
皆令入仏道
と在る事を知得たのです。
幼い頃の想い出として、我家には先祖が使用したと云う「紺糸威の大鎧」や「卬之花威の胴」「五色威の具足」
等を始め太刀や槍、薙刀、金蒔絵のいろいろな道具類、それに大きな厨子に納まって微笑んでいる日蓮大聖人
の御影、また日目上人が携えて来たと云う大大曼荼羅や本門灌頂幡、日蓮大聖人筆の『立正安国論』等々
奏しての「灌頂幡」を拡げて来客を相手に話しをしていた父の姿を懐かく思いだす。
幼い頃、こうした環境の中で成長し十一歳の時、父に連れられて勉学の為上京し伯父の許に一時預けられ、
足掛け二年程伯父のもとから通学しましたが、その間に父と伯父との間で財産問題から確執が生じ、十三歳の時、
豊田と云う人の処へ嫁いだ父妹の所へ預けられ暫くその叔母のもとで生活することになりました。
東京の日本橋に在った叔母の家に移った私の所へ仙台の父からトラック二台に山積した荷物が送られて来たの
はそれから間もなくでした。荷物をほどいてみるとその中の一つの荷に「日蓮大聖人」の御影像が納められていました。
その時、偶然に豊田の叔父の身内で築地で鮭問屋を営んでいる馬場さんが訪ねて来ました。
そして馬場さんは、その僧形の等身大の御影像を見て驚き豊田の叔父に大謗法とまくしたてたのであります。
そこで私が馬場さんに此の御影は日蓮大聖人野「正身の御影」と云れれるお像で、なぜ我が家にわっているのか
を説明しました。
日蓮正宗大石寺で第三祖と仰ぐ蓮蔵房日目上人が家から輩出したのを始めとして、その後嗣の日道上人・日行
上人・日時上人等の歴代大石寺上人は皆我が家の一族であった旨を話し、そのような事情で御影像や大曼荼羅が
伝えられていることを説明しましたが、馬場さんにはそのことを理解することが出来なかったようでした。
後で豊田の叔父から聞いてわかった事ですが、この馬場さ云う人は熱心な日蓮正宗創価学会の会員で当時築地
支部長を兼ね創価学会員の中では大変有名な人だったのであります。
馬場さんは私の話しを創価学会本部にもっていき戸田氏に話したようで私の父と当時創価学会会長の戸田城聖氏
が東京信濃町の創価学会本部で対論することになりました。
戸田氏は我家に伝えた大聖人の遺品を眞正なものとして認めた上で「猶、血脈相承の富士大石寺に存在していれば
だめだ、大石寺に返還して来れ、」との一点張り出、その結果はお互いに痼を残して終わりました。
それといのは私の父の主張は富士門の正嫡、日目上人の正統血脈の遠裔という歴史的立場にたっての主張で
あり戸田氏の方は日蓮正宗大石寺の歴史の思い込みを基本としての主張だったからであります。
この対論から暫く経って創価学会の機関誌『大白蓮華』に日目上人の出自に関した記事が相次いで発表される
ようになったのであります。
当たり前と云えばそれまででありますが、そこに発表された日目上人を中心とした小野寺家の歴史は創価学会に
都合よく歪曲され、私が幼い頃、父から聞かされていたそれは大変相違していました。
そしてその事が私をして我が家の歴史と日目上人及び大石寺について研究するきっかけと成ったのであります。
十六歳の時、叔母のもとより父のもとに帰り、それまでの文献による研究成果を『日目上人と耳引の法門』の表題の
もとに纏めました。
その原稿は創価学会某部が出版を検討するからと持帰り、その後、再三の請求にもかかわらず返還もなくいつし
か行方不明となってしまいました。
そこで私は再度より確かな正伝を執筆することを決意し、史跡検証のため日目上人の誕生の地といわれる伊豆の畑
毛地を訪問し、土地の人々が館跡と呼んでいる小高い丘訪ねました。
丘の上には中央に古いお堂が建ちその裏の方に一軒の隠居家と思われる家が在てその前庭に「日目上人日道上人
誕生之地」という小さな石碑が建っていました。
そしてその家の長押には雪山荘と云う額が掛られていました。
玄関で案内を乞うと、始めに中年の女性が出て来ました。
私は名を名乗り用件を伝えると奥から一人老人が出て来て「さあどうぞ、遠慮なくお上がり下さい。」としきりに進めて
下さるのであがらせていただき、堀上人の仏間と云う所へ通され、そこで話しをしている内に、その人が小説『日蓮大
聖人』の著者の湊邦三氏とわかりました。
湊氏の話しでは信仰上の理由から文壇と一切の交渉を断ち、この堀日亨師の遺跡「雪山荘」の管理を引受、ここに
引籠って富士興隆のためにペンを取っているとの事で富士門の歴史について種々にがはずみました。
その時の話しの中で「もう三、四年早く貴方がお訪ね下されば堀上人もさぞかし喜ぱれたのに、永くお待ちしていた
のですよ。」と云われたことが私には強く印象に残ったのであります。
凑氏が帰り際に申された「お山の方に、お話し致しておきますから是非一度、日達上人にお会いして見て下さい。」
という言葉を最後に私は雪山荘を辞去しました。
それから暫くして以前に『日目上人と耳引野法門』の出版を相談したことのあった、東京港区芝の「実業の世界社」
から電話があり『創価学会を折伏する』という本を発行するから編集に参加しないかというので、「実業の世界社」を
訪ね、原稿の内容を拝見したところ、その内容は創価学会似対する剥出の感情論で埋まっていたので、わたしの見
解を述べ、内容のレベルを高める事を要求しましたが無理ということなので、私の参加すベきものではないと判断して
辞退し、日目上人の御伝をより正確にするため我が家に伝えられている品の内「本門灌頂幡」と二、三の資料を携えて、
本門寺の名に引かれ始めに静岡県富士郡芝川町所在の西山本門寺を訪ねました。
当時の西山本門寺野住職は白蓮阿闍梨日興上人の産館の末裔といわれる由比日光師であり由比師はお体をこわさ
れ手いた様子でありましたが、突然の訪問に快くお会してくれました。
そこで訪問の目的を告げるとわざわざ近隣の檀家に連絡を取り三名程の人を呼び集められました。
そしてそれから私の質問に対して、西山に保在されている資料を取り出し、また西山に残された伝説等を話して下さ
いました。
私が我が家に伝わる「灌頂幡」にまつわる話しを始めたところ、日光師は急に真剣な顔になり「それで日蓮大聖人
の本当の大本尊は貴方がお持ちなのですか」と質されしばし黙考されました。
その時、私には由比師のその言葉の持つ意味を理解することはできず何のことやらわからないま、夜も更けたので謝
辞を述ベ西山を辝去しました。
そうして日を改めて今度家北山本門寺を訪問しました。本坊を訪ねると、「歴史的なことは搭中の早川師を訪ねて聞
いて下さい。」とのことで教学部長という早川達道師を紹介され早川師の坊で対談しましたが得るべきもの何もありま
せんでした。
それから富士下条の妙蓮寺や下之坊、小泉の久遠寺、京都の要法寺、日目上人の御正墓の所在地、京都鳥辺
野の実報寺、日目上人御入滅の処と伝える岐阜の垂井の日目庵、日蓮大聖人御真で日目上人授与の大曼荼羅を
伝固定る三重県桑名の寿量寺、小寺虎王磨与の大曼荼羅を伝える栃木の信行寺、仙台の仏眼寺、登米の本源寺
保田の妙本寺と日目上人に関係があると思われる寺院、史跡に足を運び調査を進めて行くうちに『日目上人正伝』
は、いつしか「富士門史」となりつつありました。
日蓮宗富士門流の概要を知り得、ようやく日目上人の事蹟の全貌に光が見え始めて来た頃、凑氏から電話連絡が
あったという事なので連絡して見ると「日逹上人にお話した処、大変喜ばれて是非御来山下さい。」という伝言があっ
たという連絡でした。
その伝言が在手暫くして埼玉県大宮の日蓮正宗因寺の矢島覚道師が私の留守中の目黒の私宅に尋ねてこられま
した。
矢島師は我が家の家系を当時病床に伏していた父から概略を聞き、我が家に残された歴史資料の一部を見て帰った
そうです。
その後、数日を経て大石寺より「是非一度お山にお越し下さいご案内いたします。」という連絡があり、迎えの人々と
共に大石寺に登しました。大石寺では大勢が山門に並んで出迎えて下さり、日達師の先導で大石寺「六壺」以下の
諸堂の内部を案内していただきました。
その後、私は『日目上人正伝』に使用するため最も相応しい資料の写真版を拝借すべく大石寺・内事部を訪ねたと
ころ各種の写真版は創価学会野方に保管されていて内事部には無いという返答でした。
そこで創価学会より写真版を借用すべく、故戸田城聖創価学会会長の甥に当たり知人でもある村上修氏にその
旨を話した処、村上氏は、「それでは和泉副会長を紹介しましょう。」
と.、いわれその場から電話で連絡を取り、翌々日、東京信濃町の創価学会本部に村上氏とともに和泉氏を訪ね用件
を話し協力方を依頼しました。
その時、和泉氏の返事は
「本の内容が総本山に直接関係することだから大石寺の教学部長である京都、平安寺の住職阿部信雄師を紹介
政しますから、阿部師と話し合ってみて下さい。」と言われ、阿部住職の都合を聞いて連絡すると云う事になりました。
暫く連絡を待ちましたが、いつまでも連絡がないので二、三度、私は創価学会本部へ電話連絡をし和泉をよんでもら
いました。
ところが電話口で確かに居たはずの和泉氏が私からの電話戸知ると突然に食事に出掛けたことになってしまったり
急用で突然行方不明になってしまったり、折り返し電話連絡を下さるという返事に一日中待っても連絡がなかったり
という状態に私も呆れ果ててしまい、紹介者の村上氏に状況を話し釈明を求めた処、すぐ調べて連絡するということ
になりました。
村上氏の報告では「貴方の親戚の伊達貞宗(仙台伊達家第十七代当主)さんが貴方の事を盛んに和泉氏に中傷
しているので和泉氏は貴方を警戒しているのだ。私から貴方と伊達の関係を誤解のないように良く説明しておいたか
ら連絡を取ってみて下さい。」という話しであったが、そうこうしている中に創価学会会長池田大作氏の板曼奈羅刻事
件と呼ばれる事件が発覚して大石寺対創価学会の関係も騒然となり、その機会を失ってしまい、その後、日達師も遷
化してしまわれたのであります。
その日は日達師画日蓮正宗の管長に就任されて始めての日蓮正宗大石寺の「本門戒壇之願主弥四郎国重」
板曼奈羅本尊御開扉の当日であったと記憶しています。
私が日達師に「日目上人野天奏と富士山本門寺の勅の問題」そうして「我が家日目上人」の関係、また現在に至る
経緯等を話し日達師の意見を伺いました。
それに対して日達師から種々の質問があり、そうしてその後に、私の主である「過去に富士に勅許を以って建立
された富士山本門寺が存在していた事実がある。」ということに、日達師も「現在、大石寺にはその問題に対して確固
とした証拠となるべき文献並びに資料は残されていないが個人的には私もその様に思う。」と述べられたのであります。
本堂の御開扉の予定時間が既に経過して役憎が度々日達師を迎えにこらえるので、私も本日の対談はこれまでと
いうことにして大石寺を辞去しました。
辞去の間際、日達師の管長就任のお祝いに私が福島県伊達君に所有する富士門有縁の寺跡を寄進する旨を伝
え寄進の実務を私の秘書的役目を担っていた者に一任しました。
ところが周知の如く当時、日蓮正宗総本山大石寺を取り巻く状況は混乱を極めていました。
後で聞き知った事でありますが、その土地の件で私の秘書と大石寺側に話しの行き違いが生じ、私の真意が日達師
に正しく伝わらず日達師は一方的に誤解されたようであります。
その頃、また別の人物から偶然「前総監の早瀬日慈師にお会いしてみませんか。」と話しがあり池袋の法道院に早瀬
師を訪ねてお会いしました。
最初に訪問した時は早瀬師は何事とか警戒ぎみでしたが、私と故日達師との関係や日達師との関わりを有りのまま
に話して行く内に胸襟を開かれ、
「お祖父さん(堀日亨師)が生きていたら、さぞかし喜ばれたのに残念なにことだ。自由に、是非いつでもお越し下
さい。」
といわれ、私はその言葉にあまえて度々法道院を訪ね、日瀬師に忌憚のない私の意見を申し述べさせていただき
ました。
当然、私の意見の中には日蓮正宗総本山大石寺で本門戒壇の大御本尊と称している願主弥四郎国重の「楠板彫
刻大曼荼羅」についてでもあり、このような経緯を経て昭和五十六年に『日目上人御正伝』の草稿はできあがったの
であります。明ければ日目上人の六百五十年遠忌に当る年となっていました。
『日目上人御正伝』の巻頭を飾るべき適当な資料を撮影すべく父から譲り受けた品々の全部を開いて見る事にし、
灌頂幡の蔵められている金唐革で覆われた「和櫃」や諸々の道具が収められている黒漆の「長持」「挟箱」を開いて
中に納められている一つ一つを取り出し最後にいくつかの嵩張る「屏風箱」の点検に入り、父から時が来る迄、目が
潰れるから絶対に開けてはならないと申し送りされた「屏風箱」を引き摺り出し蓋を開けて見ると、そこには
背絹がボロボロになった六曲二双の金屏風が納まっていました。
その屏風を取り出そうとしたところ、大変に重く屏風箱を横倒しにして
屏風を取り出して見ると、そこに金屏風の中を刳りぬいて「本因妙大
本尊」が隠し込められていたのであります。
昭和五十六年の夏「本因妙大本尊」を屏風箱の中の屏風をくり抜いた
中から発見した、時、初めの頃は、自分でいうのもおかしいのですが
半信信疑でした。
何故かというと以前に、(昭和三十八・九年頃)富士の芝川町に西山本
門寺を訪ねた折り、貫主の由比日光師が案内して下さった客殿の脇の
「尊霊殿」という近衞文麿氏の筆に成る金文字の額が掲げられていた
小堂の内陣に北朝の後水尾院や新広義門院、無上法院常子、明治
陛下並びに歴代徳川将軍、武田信玄や勝頼の霊牌とともにその中央
に「本因妙大本尊」と相貌が全く同じものが金箔置きの大きな唐獅子
の様な彫り物の上に蓮華台座が置かれ、その上に奉安されていた記
憶があったからであります。
由比師の安内で拝見た時、私は比の「大本尊」の裏に何か銘文でも彫り込まれていますかと尋ねたところ、由比師
は「ただ本因妙とのみ彫られている。」と答えられ、そして「これは当山の本尊でない。」と否定されたのであります。
私は、不思議に思い「では西山本門寺の御本尊様はいずこにあられ
るのですか」と問い質したところ、由比師は「客殿の正面の重要文化
財指定の『御宮殿』の後ろの方に掛けられているのがそうである」と、
いう答でした。
由比師の案内で客殿の裏に回り西山本門寺の大本尊を拝見しました
が回りが薄暗く、よく拝見出来なかったので由比師の承諸諾のもと
御客殿の須弥壇の上に登り蝋臅を近づけて全体を拝見してみたところ、
そこに掲げられていたのは日蓮大聖人が建治二年(一二七六)二月
五日お認めの大曼陀羅を板に写し刻んだものであり、それを西山本門寺
では「万年救護本尊」と呼んでいたのであります。
その板曼陀羅本尊には日興上人が大聖人御聖筆曼陀羅に「本門寺に懸け万年の重宝たるなり。」
と加筆したその文字も彫られていました。
即ち、西山本門寺では日興上人の「本門寺に懸け万年の重宝たるなり。」の添書きを以って「万年救護の本尊」と
称していたのであります。
そこで「本因妙大本尊」と同じ相貌をした本尊が他に存在していないかということの調査を行ったところ、同じ相貌の
ものが日蓮正宗総本山大石寺の大講堂、東京池袋の日蓮正宗常在寺、甲州身延山久遠寺奥院、伊豆の国分寺等
に存在していることを知りました。
また、日蓮大聖人が紙本にお認めになられたものが千葉県安房郡保田の日蓮正宗本山妙本寺に保存されていて、
妙本寺の紙本は国指定の重要文化財になっていることも知りました。
そこで、それぞれの寺院の記録から先ずその大本尊画勧請された時代と縁起を調べて見る事にして調査をしました。
池袋常在寺の板大本尊は元大石寺本門戒壇堂【現在は御影堂と称している)の常住本尊で日精師が「延宝七年
二月十三日造立」したものであることがわかりました。
また現在大石寺講堂に奉安されているものは「元文五年二月六日」に大石寺三十世の日忠師の造立に依るもので
あることがわかり、そしてその裏銘文に
一心欲見仏不自惜身命、 在在諸仏土常洪與倶生 大日本国駿河州
時我及衆僧倶出靈鷲山、 又聞成菩提師弟檀那、 大日蓮華山大石之精舎
後五百歳 廣宣流布、 異躰同心信心不退 第三十世
尾閻浮提 無令断絶 日忠在判
太才
我本立誓願欲令一切衆 囗元文第五
申戌
如我等無異 如我昔所願 二月中澣六日 惠了日比丘
今者己満足化一切衆生 奉彫之
皆令入仏道
と在る事を知得たのです。