君と歩んできた道

いつかたどり着く未来に、全ての答えはきっと有る筈。

第十七章 旅路の果て 3

2016年07月22日 | 第十七章 旅路の果て
「陸」

 魔女は、もう一度声をかけた。しかし陸はピクリとも動かない。

 彼女は彼の肩に手を置いて、それを揺するようにしながら、もう一度声をかける。

「陸、起きなさい」

 その魔女の声は段々低く、分かり易く言えば苛立ちを含んだものになってきた。その証拠に、魔女の眉間には立派な皺が刻まれている。
 しかし陸は、相変わらず動く気配もなければ返事をする気配も皆無だ。死んだように動かない。

 でも死んでいるわけではない。死んだように眠っているだけだ。

 もう、仕方がない。

 魔女は大きく息を吸い込んだ。そして、それを体に溜める。その一瞬後。

「起きろー!!」

「うわっ!!? え!? え!?」

 陸はその大音量に、跳ねるように起き上がった。そしてキョロキョロと辺りを見回し、魔女の所で視線を止める。

「・・・え?」

 つり上がったその目に気圧されたのか、陸は僅かに身を引いた。

「な・・・ななな・・・?」

 状況把握は、無理もないが全く出来ないようだ。言葉すら満足に出てこない状態。

 しかし、ただ本能に従って、陸は逃げるように魔女と距離を取ろうとした。手を後ろにつき、じりじりと後退する。せいぜいベッド程度の大きさしかない、その台の上を。何だよ。どうなってるんだよ。多分、そんなことを考えながら。

「・・・」

 魔女は、それを冷めた目で見ている。無理もないと思いながら。そして、この後どうなるか分かっていながら言葉も掛けてやらずに、ただ見ていた。

 やがて。

「・・・わっ」

 という声を残して、陸は魔女の視界から消滅した。まるで魔法のような消えっぷり。

 しかし魔法で消えたわけではない。魔女は、何もしていない。
 一瞬後、鈍い音が辺りに響き渡った。この美しい場所には、不釣り合いともいえる鈍い音。

 魔女は頭を抱えた。そして大きなため息を付く。

「い・・・てててて・・・」

 陸は強くぶつけた腰に手を当てながら、台の向こうからもう一度姿を現した。





 日が沈むのが早い。まだ五時過ぎなのにもう日は暮れかけていた。

「・・・」

 空は一人、ベッドに座ったまま外の景色を窓越しに見ていた。部屋に明かりは点いていない。外からの段々弱くなる光りに、空はその視界を委ねていた。もうすぐ爺が来て、その窓をカーテンで塞いでしまうだろう。それまで外の景色に触れていたかった。

 空は、さっきからずっとそうしていた。一人きりになってから、ずっと。

「・・・?」

 不意に、空は何かに気付いたかのように瞬きをした。その、僅かな光を反射する物を見付けて。
 テーブルの上。何も置かれていない筈なのに、そこにある小さな何かが空を呼んでいる。

「・・・?」

 顎を上げて、それが何か確かめようとするが、空の位置からはハッキリと見えない。そのままにしておいても良かった筈なのに、何だか無性に気になって空は蹌踉けながらも立ち上がった。
 その瞬間、体が大きく揺れる。

「とと・・・」

 自分を支えて当たり前の筈の足は、まるで棒っきれの様に不自由で、不安定で、力が入らない。それでも空は躊躇うことなく一歩を踏み出した。

 ゆっくりとテーブルに向かって歩を進める。暗いことに目は慣れていた筈なのに、大分近付かなければ、それが何か分からなかった。

 ・・・あ・・・。

 空はテーブルに手を着いて、それを覗き込んで、やっとそれが何かを察した。その目が、驚きに大きく見開かれる。

「・・・」

 空は、そっとそれを手に取った。それを見る目に涙が溜まる。取り戻した記憶。思い出してしまった旅路。

 そこには、いつも彼がいた。大切な思い出の中には、いつも。
 ・・・いつも。

 唇が僅かに震える。彼の名前を。けれど、声を出すことは出来なかった。呟くことも出来ずに、空は泣いた。

 陸・・・。

 そう、心の中で彼の名を何度も呼びながら。
 そして祈るように思う。今まで抑えていた、努めて思わないようにしていた感情を強く感じてしまって。

 何も望まないから、早く帰ってきて・・・。

 元気な姿を見せて欲しい。一度だけで良いから名を呼んで、微笑んで欲しい。本当はそう思っていても、今はそんな願いすら我が儘な気がした。だから、それは胸の奥深くに押し込んだ。彼が、いつかそうしたように。

 無事だと分かると、どこまでも求めてしまう。それが分かっているから、空は自重した。
 陸が、いつかそうしたように。

 今、自分は満たされている。筈。だから、これ以上は望まない。

 望まない。
 そうしなきゃ陸が無事だという真実さえ、色褪せてしまいそうだった。それが怖かった。
 未だ不安定な精神の中。たった一人で出来ることは、何も望まないこと。これ以上望まないこと。

 せめて、彼の姿を見るまでは。
 いや。彼の姿を見れば、それだけで満たされる筈。そう思う。

 だから、その上には何も望むまい。きっと、それだけで十分。

 だから。

「あ・・・」

 手に持った物の上に涙が落ちる。それに気付いて、空は慌てて涙を拭った。

 そして小さなため息を付くと、じっとそれを見つめた。角度を変えると、最後の日の光に反射する。

「・・・」

 それが最後。空の表情が、僅かに変化した。泣き顔のまま、弱々しくも微笑む。彼の触れた物。彼の優しさがここにはある。どうして泣く必要など有るだろう?

 陸、あたし、元気だからね・・・。

 それに話しかけるように、空は思った。

 だから心配しないでね。あたしは・・・。

 祈りを捧げるように、手に持った赤い押し花の栞を額に近付けた。そして力を抜くように息を吐く。

 陸が無事だって分かっただけで、もう充分よ・・・。

 安心と不安定になる心が、空を弱くしていた。泣きそうになるのを、そこに誰もいないと分かっていながら、空は隠そうと顔を手で覆う。そしてそれを恥じるかのように、空は微笑んで、もう一度手に持った栞に語りかけた。

 もう充分よ・・・。

 天は夜を迎えるために、段々静かになっていく。空の影が、ゆっくりと暗闇に溶けていった。


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