「陸」
魔女は、もう一度声をかけた。しかし陸はピクリとも動かない。
彼女は彼の肩に手を置いて、それを揺するようにしながら、もう一度声をかける。
「陸、起きなさい」
その魔女の声は段々低く、分かり易く言えば苛立ちを含んだものになってきた。その証拠に、魔女の眉間には立派な皺が刻まれている。
しかし陸は、相変わらず動く気配もなければ返事をする気配も皆無だ。死んだように動かない。
でも死んでいるわけではない。死んだように眠っているだけだ。
もう、仕方がない。
魔女は大きく息を吸い込んだ。そして、それを体に溜める。その一瞬後。
「起きろー!!」
「うわっ!!? え!? え!?」
陸はその大音量に、跳ねるように起き上がった。そしてキョロキョロと辺りを見回し、魔女の所で視線を止める。
「・・・え?」
つり上がったその目に気圧されたのか、陸は僅かに身を引いた。
「な・・・ななな・・・?」
状況把握は、無理もないが全く出来ないようだ。言葉すら満足に出てこない状態。
しかし、ただ本能に従って、陸は逃げるように魔女と距離を取ろうとした。手を後ろにつき、じりじりと後退する。せいぜいベッド程度の大きさしかない、その台の上を。何だよ。どうなってるんだよ。多分、そんなことを考えながら。
「・・・」
魔女は、それを冷めた目で見ている。無理もないと思いながら。そして、この後どうなるか分かっていながら言葉も掛けてやらずに、ただ見ていた。
やがて。
「・・・わっ」
という声を残して、陸は魔女の視界から消滅した。まるで魔法のような消えっぷり。
しかし魔法で消えたわけではない。魔女は、何もしていない。
一瞬後、鈍い音が辺りに響き渡った。この美しい場所には、不釣り合いともいえる鈍い音。
魔女は頭を抱えた。そして大きなため息を付く。
「い・・・てててて・・・」
陸は強くぶつけた腰に手を当てながら、台の向こうからもう一度姿を現した。
日が沈むのが早い。まだ五時過ぎなのにもう日は暮れかけていた。
「・・・」
空は一人、ベッドに座ったまま外の景色を窓越しに見ていた。部屋に明かりは点いていない。外からの段々弱くなる光りに、空はその視界を委ねていた。もうすぐ爺が来て、その窓をカーテンで塞いでしまうだろう。それまで外の景色に触れていたかった。
空は、さっきからずっとそうしていた。一人きりになってから、ずっと。
「・・・?」
不意に、空は何かに気付いたかのように瞬きをした。その、僅かな光を反射する物を見付けて。
テーブルの上。何も置かれていない筈なのに、そこにある小さな何かが空を呼んでいる。
「・・・?」
顎を上げて、それが何か確かめようとするが、空の位置からはハッキリと見えない。そのままにしておいても良かった筈なのに、何だか無性に気になって空は蹌踉けながらも立ち上がった。
その瞬間、体が大きく揺れる。
「とと・・・」
自分を支えて当たり前の筈の足は、まるで棒っきれの様に不自由で、不安定で、力が入らない。それでも空は躊躇うことなく一歩を踏み出した。
ゆっくりとテーブルに向かって歩を進める。暗いことに目は慣れていた筈なのに、大分近付かなければ、それが何か分からなかった。
・・・あ・・・。
空はテーブルに手を着いて、それを覗き込んで、やっとそれが何かを察した。その目が、驚きに大きく見開かれる。
「・・・」
空は、そっとそれを手に取った。それを見る目に涙が溜まる。取り戻した記憶。思い出してしまった旅路。
そこには、いつも彼がいた。大切な思い出の中には、いつも。
・・・いつも。
唇が僅かに震える。彼の名前を。けれど、声を出すことは出来なかった。呟くことも出来ずに、空は泣いた。
陸・・・。
そう、心の中で彼の名を何度も呼びながら。
そして祈るように思う。今まで抑えていた、努めて思わないようにしていた感情を強く感じてしまって。
何も望まないから、早く帰ってきて・・・。
元気な姿を見せて欲しい。一度だけで良いから名を呼んで、微笑んで欲しい。本当はそう思っていても、今はそんな願いすら我が儘な気がした。だから、それは胸の奥深くに押し込んだ。彼が、いつかそうしたように。
無事だと分かると、どこまでも求めてしまう。それが分かっているから、空は自重した。
陸が、いつかそうしたように。
今、自分は満たされている。筈。だから、これ以上は望まない。
望まない。
そうしなきゃ陸が無事だという真実さえ、色褪せてしまいそうだった。それが怖かった。
未だ不安定な精神の中。たった一人で出来ることは、何も望まないこと。これ以上望まないこと。
せめて、彼の姿を見るまでは。
いや。彼の姿を見れば、それだけで満たされる筈。そう思う。
だから、その上には何も望むまい。きっと、それだけで十分。
だから。
「あ・・・」
手に持った物の上に涙が落ちる。それに気付いて、空は慌てて涙を拭った。
そして小さなため息を付くと、じっとそれを見つめた。角度を変えると、最後の日の光に反射する。
「・・・」
それが最後。空の表情が、僅かに変化した。泣き顔のまま、弱々しくも微笑む。彼の触れた物。彼の優しさがここにはある。どうして泣く必要など有るだろう?
陸、あたし、元気だからね・・・。
それに話しかけるように、空は思った。
だから心配しないでね。あたしは・・・。
祈りを捧げるように、手に持った赤い押し花の栞を額に近付けた。そして力を抜くように息を吐く。
陸が無事だって分かっただけで、もう充分よ・・・。
安心と不安定になる心が、空を弱くしていた。泣きそうになるのを、そこに誰もいないと分かっていながら、空は隠そうと顔を手で覆う。そしてそれを恥じるかのように、空は微笑んで、もう一度手に持った栞に語りかけた。
もう充分よ・・・。
天は夜を迎えるために、段々静かになっていく。空の影が、ゆっくりと暗闇に溶けていった。
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魔女は、もう一度声をかけた。しかし陸はピクリとも動かない。
彼女は彼の肩に手を置いて、それを揺するようにしながら、もう一度声をかける。
「陸、起きなさい」
その魔女の声は段々低く、分かり易く言えば苛立ちを含んだものになってきた。その証拠に、魔女の眉間には立派な皺が刻まれている。
しかし陸は、相変わらず動く気配もなければ返事をする気配も皆無だ。死んだように動かない。
でも死んでいるわけではない。死んだように眠っているだけだ。
もう、仕方がない。
魔女は大きく息を吸い込んだ。そして、それを体に溜める。その一瞬後。
「起きろー!!」
「うわっ!!? え!? え!?」
陸はその大音量に、跳ねるように起き上がった。そしてキョロキョロと辺りを見回し、魔女の所で視線を止める。
「・・・え?」
つり上がったその目に気圧されたのか、陸は僅かに身を引いた。
「な・・・ななな・・・?」
状況把握は、無理もないが全く出来ないようだ。言葉すら満足に出てこない状態。
しかし、ただ本能に従って、陸は逃げるように魔女と距離を取ろうとした。手を後ろにつき、じりじりと後退する。せいぜいベッド程度の大きさしかない、その台の上を。何だよ。どうなってるんだよ。多分、そんなことを考えながら。
「・・・」
魔女は、それを冷めた目で見ている。無理もないと思いながら。そして、この後どうなるか分かっていながら言葉も掛けてやらずに、ただ見ていた。
やがて。
「・・・わっ」
という声を残して、陸は魔女の視界から消滅した。まるで魔法のような消えっぷり。
しかし魔法で消えたわけではない。魔女は、何もしていない。
一瞬後、鈍い音が辺りに響き渡った。この美しい場所には、不釣り合いともいえる鈍い音。
魔女は頭を抱えた。そして大きなため息を付く。
「い・・・てててて・・・」
陸は強くぶつけた腰に手を当てながら、台の向こうからもう一度姿を現した。
日が沈むのが早い。まだ五時過ぎなのにもう日は暮れかけていた。
「・・・」
空は一人、ベッドに座ったまま外の景色を窓越しに見ていた。部屋に明かりは点いていない。外からの段々弱くなる光りに、空はその視界を委ねていた。もうすぐ爺が来て、その窓をカーテンで塞いでしまうだろう。それまで外の景色に触れていたかった。
空は、さっきからずっとそうしていた。一人きりになってから、ずっと。
「・・・?」
不意に、空は何かに気付いたかのように瞬きをした。その、僅かな光を反射する物を見付けて。
テーブルの上。何も置かれていない筈なのに、そこにある小さな何かが空を呼んでいる。
「・・・?」
顎を上げて、それが何か確かめようとするが、空の位置からはハッキリと見えない。そのままにしておいても良かった筈なのに、何だか無性に気になって空は蹌踉けながらも立ち上がった。
その瞬間、体が大きく揺れる。
「とと・・・」
自分を支えて当たり前の筈の足は、まるで棒っきれの様に不自由で、不安定で、力が入らない。それでも空は躊躇うことなく一歩を踏み出した。
ゆっくりとテーブルに向かって歩を進める。暗いことに目は慣れていた筈なのに、大分近付かなければ、それが何か分からなかった。
・・・あ・・・。
空はテーブルに手を着いて、それを覗き込んで、やっとそれが何かを察した。その目が、驚きに大きく見開かれる。
「・・・」
空は、そっとそれを手に取った。それを見る目に涙が溜まる。取り戻した記憶。思い出してしまった旅路。
そこには、いつも彼がいた。大切な思い出の中には、いつも。
・・・いつも。
唇が僅かに震える。彼の名前を。けれど、声を出すことは出来なかった。呟くことも出来ずに、空は泣いた。
陸・・・。
そう、心の中で彼の名を何度も呼びながら。
そして祈るように思う。今まで抑えていた、努めて思わないようにしていた感情を強く感じてしまって。
何も望まないから、早く帰ってきて・・・。
元気な姿を見せて欲しい。一度だけで良いから名を呼んで、微笑んで欲しい。本当はそう思っていても、今はそんな願いすら我が儘な気がした。だから、それは胸の奥深くに押し込んだ。彼が、いつかそうしたように。
無事だと分かると、どこまでも求めてしまう。それが分かっているから、空は自重した。
陸が、いつかそうしたように。
今、自分は満たされている。筈。だから、これ以上は望まない。
望まない。
そうしなきゃ陸が無事だという真実さえ、色褪せてしまいそうだった。それが怖かった。
未だ不安定な精神の中。たった一人で出来ることは、何も望まないこと。これ以上望まないこと。
せめて、彼の姿を見るまでは。
いや。彼の姿を見れば、それだけで満たされる筈。そう思う。
だから、その上には何も望むまい。きっと、それだけで十分。
だから。
「あ・・・」
手に持った物の上に涙が落ちる。それに気付いて、空は慌てて涙を拭った。
そして小さなため息を付くと、じっとそれを見つめた。角度を変えると、最後の日の光に反射する。
「・・・」
それが最後。空の表情が、僅かに変化した。泣き顔のまま、弱々しくも微笑む。彼の触れた物。彼の優しさがここにはある。どうして泣く必要など有るだろう?
陸、あたし、元気だからね・・・。
それに話しかけるように、空は思った。
だから心配しないでね。あたしは・・・。
祈りを捧げるように、手に持った赤い押し花の栞を額に近付けた。そして力を抜くように息を吐く。
陸が無事だって分かっただけで、もう充分よ・・・。
安心と不安定になる心が、空を弱くしていた。泣きそうになるのを、そこに誰もいないと分かっていながら、空は隠そうと顔を手で覆う。そしてそれを恥じるかのように、空は微笑んで、もう一度手に持った栞に語りかけた。
もう充分よ・・・。
天は夜を迎えるために、段々静かになっていく。空の影が、ゆっくりと暗闇に溶けていった。
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