昨年5月、演出家のコンペで、三島由紀夫の葵上を上演した。
三島の言葉は、隙がない美しさで構築され、
生霊六条康子の滴るような長台詞は、たまらなく魅力的だった。
でも、この作品を演出しているとき、
わたしは最後まで『演出のみをやる』、ことに対する真のモチベーションを見つけられなかった。
“三島の葵上を自分なりに解釈し”、という意味自体を拡大解釈し、
思えば、三島の戯曲を借りて、自分の戯曲にしたがっていたのだろう。
なんて傲慢な、と今になって思う。
そしてこのとき、案外自分の言葉に拘ってしまっていることに気がついた。
脚本なんて戯曲なんて書く人生になるとは1ミクロンも思っていなかったのに。
向いてないかもしれないけど、書くことを続けよう、とは思った。
しかし、演出に至っては、それ以来、演出のみをする、という機会がなかったので、
脚本だけだったり、自分で書いて演出したり、をやりながら、
『演出(のみ)をする』ということ、演出家、であるということにピンとこないまま、1年が経った。
今、携わっている現場は、海外戯曲を演出する作品。
稽古を毎日見ながら、戯曲が何度も身体を通過した。
俳優が語る言葉と、演出家の言葉も、何度も何度も身体に染み込む。
言葉が沈殿する。
すると、最初に戯曲を読んだときは分からなかった、
作家が並べた言葉の奥の方にある、泉を、チロチロと這う面白い水脈を見つけた。
それを掬い取りたい、という欲が、ふつ、と自分の中に芽生えた瞬間があった。
きっとこれだ、と思った。
演出する欲。
いま、葵上をやったら、全然違うものになるんだろうな。
欲が増えるのはたのしい。
ふじわら