新・きものの基

絹や木綿、麻など素材から染織の歴史、技法、デザイン、そしてきものと暮らしの多様な関係までを紹介します!

「和服」という言葉②

2007-02-04 11:21:06 | きものの歴史

■公序良俗に反する軽薄なスタイル

女性の服装の洋風化は、政府高官婦人など上流階級に限られ、一般的には江戸時代のきものの暮らしでした。それでも男性には遅れながらも徐々に洋装が浸透し、和洋折衷の服装が流行しはじめました。いまでは卒業式の定番ともいえる袴スタイルは、この時代に生まれました。もともと男性のスタイルだった袴に編上げ靴に行灯袴(あんどんばかま・スカートのように筒状になっている袴。女袴とも。またズボンのように2つに分かれている袴を馬乗袴といいます)というスタイルは、「公序良俗に反する軽薄極まりない服装」とまでいわれましたが、その活動的なスタイルはハイカラな時代気分を表すファッションとして新鮮で、徐々に広まってゆき、明治31年、下田歌子(皇后陛下から歌子の名を賜るほど、詩歌の文才を認められた明治期の歌人。また女子教育の先駆者として、実践女子学園などを創立)が実践女学園(現・実践女子大)を創立し、袴姿を制服に採用してから、他の女学校でも制服、式服扱いするようになり、一般化しました。このように服装が和洋折衷から洋風化、徐々に洋服を着る人が増えてくるに従い、江戸時代まで衣服すべてを「きもの」と呼んできましたが、「洋服」(西洋風の衣服を西洋服と呼んだのを略した)といままでのきものを区別する必要に迫られ、洋服に対してきものを「和服」と呼ぶようになりました。

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