goo

2011注染(7)そして江戸の技にー注染

注染は手作業でありながら多彩な柄、小紋などの微妙なタッチや独特の色合いを出せます。また、ぼかし等の技法を活かすことで立体感を表現することにも優れています。表裏両面から染色するため、表も裏も同じ柄が同じ色合いで出るのも注染の特徴です。さらに注染のもう1つの特色は、多彩な染料、例えば直接染料、ナフトール染料、硫化染料、反応染料、スレン染料など、数種類の染料を一度に使うこともあり、染められた生地の発色は、「ゆらぎや、にじみ」など手仕事の味わい個性、特色ですが、同時にプリントなど染色技術が発達した今日、多少の色ぶれ、にじみを「欠点」と見ることも出来ます。また当然染料により何度も洗濯したときの色の抜け方、褪め方が異なります。これらは注染の長所でもあり短所でもあります。どんなモノでもそうですが、呉服店もお客様もお互いにしっかりとした正確な知識を持つ必要があります。

大阪で発明された注染ですが、その後、東京や浜松などにその技は広がってゆきましたが、各地の職人の気質や工夫が加えられ、色柄など各産地の特色、個性があります。例えば東京は長板中形の伝統を継いでいますから、細かい色柄を注染で染め出すため、東京では2枚付けで染めます。しかし、浜松は6枚、大阪は3枚付けと両産地でも一度に染め付ける枚数に違いがあります。

注染の特色

すべて手作業のため、1枚として同じものが出来ません。

すべて手作業のため、やさしさを感じる色合いや濃淡や、輪郭に、

にじみやゆらぎの独特の味わい、表情がでます。

染料を上から注ぎ下に抜き、さらに裏返して注ぎ下に抜きますので、表裏同一模様が同じ濃さで仕上げることができるため、仕立てる際に表裏どちらでも使えます。

染料を上から注ぎ下に抜くため、

糸を痛めず、生地の目をつぶさないため、通気性が良く、肌触りが良い。

使い込むほどに色が落ち着き、味わいが出てきます。

型紙1枚で何色も染めることが可能

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注染(6)大阪の技ー注染②

生地/ゆかたの注染の素材はコーマ、特岡、綿麻、紅梅、更に麻や刷毛目紬(奥州木綿)など様々で、最近は織加工を工夫した変わり生地や混紡も多くなってきています。しかしひと昔前は、ゆかた生地といえば平織の「特岡」がほとんどでした。「特岡」とは、栃木県真岡市で織られていた「真岡木綿」の略で、目が細かく詰まっていて、やわらかな肌触り、風合いがよく、染め上がりが鮮やかな良質な木綿のことでした。しかしいつのまにか産地ではなく、木綿の生地自体を表す名称になってきてしまい、いまでは真岡で織られていなくても、この糸番手の生地はみんな「特岡」といわれています。

主な生地としては、以下の通りです。

紅梅

太めの糸を部分的に使い、細かい格子を全体に織り出した透け感のある生地。格子の凹凸=勾配が転じて紅梅に。素材に綿紅梅、絹紅梅の2種類あり。

綿絽

細かい穴が連なるように透け感のある夏生地。糸本数により三本絽、五本絽、十本絽、乱絽など種類がある。

綿紬

紬のように糸を先染めしてから織った木綿地。黒や紺に多い。

綿縮

縮緬風のしぼのある生地。

しじら

綿麻は透け感がある。しぼ感が心地よく、人気。

平織、

コーマ地

最もポピュラーな発色のよい木綿地で地風の違いなど種類は多い。

刷毛目紬

ベージュ地の味わいのある生地。奥州紬(竺仙商標)の別名。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注染(5)大阪の技ー注染①

1-ゆかたの染め(2)注染

  注染の歴史

遠く天保年間(1832~1841年)に渋紙で手拭の模様型を作り、木綿の上にこの型紙を置き、土粒を練って型紙の上から竹ぺらで塗り付けて防染した後、藍瓶の中に浸漬(ひたしづけ)して染め上げる方法が注染の原型と云われています。明治初期、藍玉相場が暴騰した為、人造染料の輸入が盛んとなり、手拭染めもこの染料を使用する様になり、型紙や折り返し、糊置の繰り返しが開発された結果、染料を注ぎかけて染める様に改善され、浸染(しみぞめ)から注染に大きく変化し、その後、図柄も―色染めから多色染めになり、柄も次第に複雑化されるに伴い、糊料(こりょう)も糯粉(もちこ)を主とし、型紙も伊勢型紙が使用されるようになり、改良に改良を重ね時代と共に進展し、現在の加工工程の原形となりました。

明治中期に入り、東京で長板中形の浴衣が大流行し、これに対抗するため大阪の手拭加工業者がなんとかして注染(手拭式)の染法で浴衣を染色したいと種々研究の結果、1903年(明治36年)大阪西区立売堀のはり入染エ場(責任者 松井元次郎氏)が天王寺で開催された第5回内国勧業博貰会に注染浴衣の新製品を出品して入賞し、好評を博しました。以降、大阪の注染技術者は東京、静岡、名古屋、広島、九州へと招聘され、その技術指導により全国的に注染ゆかたが生産されるようになり、これにより生産量は増加し、一方で、長板中形を行う業者は多くが転業・廃業しました。

注染は日本独自の染色技法で、表裏全く同じ色に染色でき、染料のにじみや混合によるぼかしを活かして、雅趣豊かな深みのある多彩な染色ができる優れた染色法ですが、近年は安価なプリントゆかたの増加などに押され、注染のゆかた生産は減少の一途をたどり、発祥の地・大阪でも現在では10社、関東に9社、浜松に4社しかありません。

  注染の周辺―和晒、型紙、染め、生地

和晒し/和晒(わざらし)とは染色前の工程のことで、昔はアクを使った煮沸と天日干しによって仕上げられましたが、現在では化学的な漂白法でおこなわれています。堺の伝統産業である注染和晒は、天保年間に開発された技法だといわれています。明治期は手拭いの染色がおもに行われていましたが、大正期に入ってから染色技法が発展し、浴衣の注染本染も可能になりました。

この注染和晒の特徴は、表と裏を同時に染めることができる点と、長く使い込んでも非常に色褪せしにくい点です。注染和晒業が起こったのは堺市の毛穴(けな)と呼ばれる地域でした。その理由は、注染和晒に欠かせない干すための広大な土地、さらに石津川の上質な水に恵まれていたからです。また、木綿の産地として栄えた河内地域と大阪の問屋街に続く流通経路のちょうど真ん中あたりに位置していることも、注染和晒技術の発達を支えたといわれています。いずれにしても白工程がなければ染色業は成り立たず、注染と和晒は長い歴史の中で共に発展、成長してきました

型紙/注染の型紙を彫る人は、今は都内に4人しかいないそうですが、いずれも伊勢の白子の「伊勢型紙」の流れを継ぐ者で、小紋と同じように注染の型紙も「伊勢型紙」を使います。型紙は薄い和紙を重ね合わせたものに彫り込み、柿渋加工で強度を強め、さらに紗張りして補強します。最近はシルクスクリーンの型紙も出来てきましたが、職人さんは「線に伸びがない。力がない」という表現します。機械が均一にきれいに型を作るため、平面的な印象がどうしてもするのだと思います。注染の型紙と小紋の型紙との一番の違いは大きさで、注染の型紙は約1mあります。

染め/藍染めは中世から続く日本の伝統産業で、江戸時代は藍染めをする店を「紺屋(こうや)」と呼び、現在でも「紺屋町」という地名がある程、一つの町内に藍染屋が集中し、紺屋の白袴(しろばかま)」ということわざがあるくらい紺屋は多く、また多忙だったようです。藍は主に発色が容易で、美しい、木綿に染められました。藍染めの第一の効果は、その糸や布地を丈夫にすることで、藍染め布地は染めていないものと比べると5割増し、つまり1.5倍の強度があるといいます。酷使に耐えて長持ちし、さらに体温調節効果が抜群。寒いときはフワッとして温かく、暑いときはサラッとした着心地になり涼しく感じます。そして着れば着るほど、肌に馴染んでいく藍染めの着物は、数枚の着物しか持てない庶民にとって活には欠かせないものでした。さらに防虫効果もあり、藍染めを身につけていると蜂や蚊、田んぼにいるヒルなどが寄ってきません。また、もしそうした虫が衣服に止まっても、堅牢な生地にさえぎられて、刺されたり咬まれたりすることもないという木綿は、農業や林業など屋外で作業をする人たちにとっても藍染めの衣料は必需品でした。

明治、大正、昭和の初期まで浴衣と云えば、藍の1色染めが主流でしたが、注染が開発されてから多色の浴衣が増え、さらに腕に自慢の職人が夏場の仕事が少ないときに浴衣の染めに携わってきたため、摺り技法の更紗風の「風好染め」、「注射染め」「毛引き染め」「吹きつけ」など、今ではもう出来ませんが職人たちが腕をふるった様々な技法のゆかたもあったそうです。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注染(4)江戸の手仕事ー長板中形染

1-ゆかたの染め(1)長板中形染

江戸時代に、完全な外出着として人々が日常的に浴衣を着るようになると、その染めも高度なものになってゆきます。特筆すべきは、藍染の技法が生まれたことです。さらに江戸後期には、江戸小紋の文様を染める技術から、長板本藍染の技法が生まれました。この藍染は、絹に染めるのと同じ様な細かい文様を木綿に染める技法で、この藍染により浴衣は絹の着物に負けないほど優雅で美しいものになりました。長板本藍染めの手法は今では無形文化財に指定されていますが、現在のように細かい柄が多くなったのも江戸時代です。小紋は小柄ということで小紋、ゆかたは中柄ということで、別名「中形」という呼び方もします。ゆかたと呼ぶにはあまりにも精巧を極めた長板染めは、あっという間におしゃれな江戸っ子の心をつかみ、明治時代まではゆかたの染め方の本流を占めていました。

明治時代、ゆかたの染めは、長板中形染と呼ばれる藍単色染めが中心で、「東京ゆかた」と呼ばれ、隆盛を誇っていました。長板中形染は6mもある板場とよばれる台に生地を敷き、その上に和紙を重ね合わせて柿渋や膠で固めて柄を彫った伊勢型紙をあて、防染糊をヘラでおいていく。この糊置きは表裏を柄がズレないように置いていくために高度な技術が必要となります。また、表の柄を見易くするため表の糊には赤い染料を混ぜでわかりやすくします。また総柄であるため「型をおくり」ながら、その継ぎ目がピタリと合うようにしていかなければならない、高度な技術が求められ、現在では数人しか職人がいないため、今回協力頂いている三勝はじめ数社しか制作していません。

ゆかたといえば「長板中形染」でしたが、東京の流行に対抗しようと大正時代になると大阪で「注染中形」が開発され、それは東京の職人に衝撃をもたらせた画期的な染色技法でした。注染は、糊を置いて畳んだ生地に、熱した染料を文字通り“注いで染める”もので、それまでゆかたの染色技法の主流だった「長板中形染」をしのぐ合理的な染色技法で、長板が1日に15反なら、注染だと150反はいけるというもので、あっという間に大正期にはゆかた染めの主流となりました。

三勝(株)の専務・清水敬三郎氏は、「これは人の手で型付けされたものか」と精巧無比、繊細で上品な江戸好みの仕上がりが絶賛された「長板中形染」の人間国宝・清水幸太郎さんのご子息ですが、注染の普及により、お父さんから「これからは、長い経験と熟練が必要な長板中形染めの職人では、食ってゆけないから」といわれ、3人のご子息のうち2人を別の道に進ませ、末っ子の敬三郎氏だけを当時天野半七商店と言われていた、木綿、長板中形を専門にしていた現在の三勝㈱に入社させたそうです。

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注染(3)ゆかたの普及要因③④

3/度重なる倹約政策の施行

江戸時代、頻繁に贅沢禁止令や質素倹約令が出されます。なかでも吉宗の時代、享保の改革(1716年~1745年)では、一般町人は絹や絞りのような贅沢な物を着てはいけない。町人は木綿、しかも色も藍と決められました。これで発憤したのが、江戸の職人達と町人です。当時裃に染めていた、裃小紋(江戸小紋)のような細かい小紋を、木綿に染めて権力者の鼻をあかしてやろうと考え、そこで生まれたのが、木綿の長板本藍染めです。絹の小紋と違って、表と裏に同じ柄をつけるわけですから、更に技術は難しくなります。作る人も着る側も、お互いの心が一つになって権力者に知恵で勝ったのが、長板本藍染め。さらに天保の改革(1830年~1843年)では庶民が絹を着ることを禁じました。また武士も紋付小袖に限られていたものが、縞のきものや袴を着るようになり、庶民の間には立ち働くのに便利で、一反の反物で二枚できることから袖なし羽織が流行。また女性の普段着ばかりでなく外出のきものにも半襟をかけるようになったり、前垂れをかけるようになったりと服飾そのものも大きく変わりました。

 

4/歌舞伎人気

ゆかたが最も発達したのは江戸時代で、特に歌舞伎役者によって大いに広められました。当時の歌舞伎役者が、それぞれ楽屋で着るゆかたや贔屓筋に配る手拭いの柄はファンの宝でした。自分の贔屓の役者と同じ柄を着て町を歩くわけで、歌舞伎役者の考案する柄が、あっという間に流行するわけです。市川團十郎が考えた「三枡格子」「かまわぬ」、また三代目尾上菊五郎が考案した「キ」と「呂」の文字を図案化した「菊五郎格子」。四代目松本幸四郎の「高麗屋格子」、そして最も有名な佐野川市松が考案した「市松格子」など、数え上げたら歌舞伎役者柄にはきりがありません。歌舞伎役者と贔屓、ファンの間でゆかた柄が洗練され、一般に流行していったため、ゆかたには「粋さ」があるのかもしれません。 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注(2)ゆかたの普及要因①②

1/木綿の生産量の拡大

綿花はもともと日本には存在しない植物で、初めて日本に木綿が伝えられたのは799年(延暦18年)、三河の国に漂着した東南アジア人が木綿の種子を伝えたといわれ、その事が朝廷に伝わり、一時九州まで広く綿花の栽培がおこなわれましたが、気候が合わずに廃れてしまったといわれています。しかし木綿は貴族や僧侶に珍重され、貴重品扱いを受け、朝鮮、中国から輸入されていましたが、戦国時代に入ると南蛮から種子が輸入され、国内でも綿栽培が開始され、江戸初期にはわずかな生産レベルでしたが、江戸中~後期には商品として生産、晒しや染織の加工、流通システムが整い、白木綿(晒木綿)、縞木綿、絣木綿、綿縮、和更紗…など多様な木綿が次々と誕生しました。

インドやアメリカなどの木綿が1インチ(2.54cm)以上あるのに対し、日本の木綿は1インチ以下の短繊維で、又その直径も27ミクロンほど太く、かつ粗硬で、手紡ぎすると糸が太糸になるため、太物ともいわれます。また反物を巻いていると木綿の反物は絹物に比べて巻きが太いから太物という説もあります。

2/浮世風呂の普及

お風呂の歴史は、6世紀に仏教とともに中国から伝わってきたといわれます。仏教では「お風呂に入ることは七病を除き、七福が得られる」と説かれていたことから、お風呂に入る事は健康に良いと理解されていました。以来、寺院では「体を洗い浄める」という大切な業の一つとして浴堂が備えられるようになり、浴堂のない庶民にも入浴を施したことからお風呂に入るという習慣が始まったとされています。

江戸の銭湯は天正19年(1591)、伊勢与市というものが銭湯風呂を建てたのが最初で、慶長年間の終わり(17世紀初頭)には今風なたっぷりの湯に首までつかる「すえ風呂」ができ、一般庶民にも広まり江戸の「町ごとに風呂あり」といわれるほどに広まりました。

 

 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

2011注染(1)ゆかたの歴史

しばらく、と言うかかなり間が空いてしまいましたが、連載を再開します。復活最初のテーマは「注染」。以前にも取り上げていますが、ゆかたの歴史を俯瞰しながら、今回は新たな写真も加え、「注いで染める、注染」の染め工程にこだわり紹介してゆきます。ご購読頂ければ幸いです。取材に際し、ゆかたの三勝(株)、伊勢保染所にご協力頂きました。

1-ゆかたの歴史

ゆかたは、平安時代や鎌倉、室町時代の入浴時に貴族や武士階級が着ていた「 湯帷子」が起源とされています。帷子(かたびら)というのは、麻のきものをいい、当時の風呂は土で出来た蒸し風呂なので、火傷しやすく、そのため湯帷子を着て入りました。また一説には、寺院の浴堂では、大勢の人が入浴するため、風紀衛生上よくないという理由で、入浴者は仏典にしたがって、必ず明衣(あかは)という、白布の衣をまとって入浴していたそうです。その着物を湯帷子(ゆかたびら)と呼んでいたことから、湯帷(ゆかた)となり、浴衣、ゆかたと呼ぶようになったという説もあります。現在のような湯船に入る入浴方法が普及したのは、江戸時代後期に浮世風呂が考案されてからです。これによって入浴用に使われていた浴帷子は、麻から肌触りの良い木綿が風呂上がりに着る簡単なきものとして着られるようになり、さらには着心地の良さが好評で、ちょっとした外出着、夏場のきものへと変化してゆき、さらに秋から冬場には長襦袢代わりに重ね着として、さらに古くなると寝間着、おしめ、ぞうきんなどにフル活用され、江戸っ子の暮らしに欠かせないものとなりました。ゆかたが江戸時代後期に普及した要因としては、以下の4点があげられます。

1/木綿の生産量の拡大

2/浮世風呂の普及

3/度重なる倹約政策の施行

4/歌舞伎人気

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

きものの華・友禅染⑨

きものの華・友禅染⑨ 小袖雛形本(6)

光琳は、多くの借金に苦しむ中、なぜか雁金屋の家業であった衣装に携わることにどこか消極的だった様子が伺えます。それは実家が呉服商であっただけに、小袖の制作が完全分業で、染色に関して携われないことに光琳が目指す「作品作り」と相容れないものがあったためと思われます。そのため「描絵友禅」は手がけても、一般向けの小袖衣装は手がけなかったものと想像されています。しかし借金に追われ、ついに光琳も意を決して呉服商や出版業者に積極的に働きかけ、小袖意匠や小袖雛形を手がけたようです。また「東山衣装比べ」などで知名度抜群の光琳を友禅斎の次のスター、流行を作り出してゆこうと意図していた呉服商と出版業者の思惑がぴったりと合い、光琳の小袖雛形本が出版されたというのがいまでは通説です。そのため雛形本の光琳模様といわれる小袖意匠は、光琳の関わりは少なく、光琳自身の手によるものは少なく、染色関係者が主体になって作られます。そのため光琳なら作らないような全く新しい小袖模様が呉服商や出版関係者によって、次々とプロデュースされてゆきます。光琳の小袖雛形本は、元禄13年(1700年)に「当流七宝常盤ひいなかた」が刊行され、以後40年の間に約30冊の光琳文様の雛形本が刊行されますが、光琳死後により多く出版されているのも、生前は光琳に対する遠慮があったと思われます。。モチーフの細部を省略した大胆なデザインは、着る人にも作り出す染色関係者、呉服商にも江戸時代で最も人気があり、さらに多くの染織関係者や画家に光琳模様は受け継がれ、現在に至るまで呉服業界のみならず、日本の美術界、文化に大きな影響を与え続けています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

きものの華・友禅染⑧

きものの華・友禅染⑧ 小袖雛形本(5)

その輝くばかりの才能は、多くの人々から賞賛され、京の人気絵師として元禄14年(1701年)法橋という高い地位にまで上り詰めた尾形光琳。しかし、西鶴描く「好色一代男」の世之介よろしく、親から譲り受けた莫大な財産を無頼な暮らしで、やがて使い尽くし、借金に追われるように京から、江戸詰となった銀座役人・中村内蔵助を頼りに江戸に下りました。この時期に制作したのが、有名な豪商・冬木家の妻女のために誂えた冬木小袖といわれる「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」です。光琳が宝永年間(1701~1710年)に、実際に筆を執って手描きしたといわれる唯一の確実な作品です、しかしこの小袖は当時流行していた友禅模様の小袖とは構図や色彩、模様様式など大きくかけ離れたもので、雛形本に多く登場する光琳模様とはかけ離れた、墨濃淡と色と金を使って「きれいさび」と表現される優美な小袖です。有名な国宝「紅白梅図屏風(MOA美術館蔵)」も、この時期に津軽家のために光琳が描いたものです。

光琳の逸話で有名なのが「東山の衣装比べ」。行われた時期は、おそらく正徳三年(1713年)と推定されますが、中村内蔵助の妻女の衣装を制作、演出したのが光琳です。その模様は『翁草』に以下のように記されています。

皆皆あはやと彼内室の出立を詠れば、襲う帯付共に黒羽二重の両面に、下には雲の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩(つらつら)見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。 (「翁草」巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り から)

他の豪商の妻女が豪華絢爛な衣裳を着る中、内蔵助の妻は最上級の羽二重の黒の打ち掛けに白無垢という出で立ち。かわりに侍女たちには豪商の妻女にも劣らない豪華絢爛な衣装で、いっそう内蔵助の妻女を引き立てる演出をしたと「翁草」には書かれています。演出家としての光琳の面目躍如で、「東山の衣装競べ」は当時の大ニュースとしてあっという間に世間に広がり、現代の女性が有名ブランドを欲しがるように光琳描く小袖を着たい、という町方の女性はかなり多かったものと思われます。また実際呉服商にはそのような注文が殺到したものと思われます。

写真は通称「冬木小袖」。「白綾地秋草模様小袖(東京国立博物館蔵)」

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

きものの華・友禅染⑦

きものの華・友禅染⑦ 小袖雛形本(4)

「古風の賤しからぬをふくみて 今様の香車(華奢)なる物数奇にかなひ 上は日のめもしらぬ奥方、下は泥踏む女童まで此風流になれり」と当時の最先端の流行ファッションである小袖模様の雛形本「友禅ひいなかた」の序文で絶賛され、一世を風靡した友禅斎の友禅染模様ですが、それからわずか5年後の元禄5年(1692年)刊の「女重宝記」には「都の町風も自制にうつり かはりて時々のはやりそめも五年か八年の間に皆すたり 中此の吉良の小色染 ゆうぜんそめの丸づくし 上京八文字屋そめの山みちす崎 下京そめのうちだしかのこ いま見ればはや古めかしく初心なれ」と友禅斎の丸文様が飽きられてきた様子がうかがえます。扇の模様付けを土台として、丸文様やだ亀甲、団扇の型の中に草花や木々などを取りそろえる「尽くし」で構成しましたが、友禅斎もいずれは飽きられると読んで、2弾目のヒットを狙い、次を用意していました。それが「描絵友禅」といわれるもので、小袖に染料や顔料を直接筆で描くもので、染織の技法がなくても、小袖をキャンパスとしてより絵画的な意匠を表現したものを、ちょうど前述の「女重宝記」が出版された元禄5年(1692年)に「余情ひなかた」で丸文様の先を見越した「描絵友禅」の数々を発表しています。また享保から元禄にはかけ、「白上がり」という染織加工が工夫され、小袖に新たな表現を可能にし、もう1人のスーパースター・尾形光琳が登場してきます。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 前ページ