『デス博士の島その他の物語』をはじめて読んだのはいつだったか、
今では覚えていない。
その後『20世紀SF』に収録されたのを読んだが、感想としては
地味なファンタジーだな、というくらいでしかなかった。
一見して非常にわかり易く書かれているので、こちらとしては書いてあるとおり
「小説の人物が現実に現れ、ちょっとした大人の秘密を垣間見せる話」だと
受け取っていた。これだけでは、べつに驚くような話ではない。
小説がうまいとか、叙情的だとかいう部分は今ひとつ感じず、
けっこうそっけなくてあっさりした話にしか見えなかったのだ。
今回『ケルベロス』を読み、『アメリカの七夜』を読み、『ショウガパン』を読んで
中短編でのウルフの曲者ぶりを思い知らされた。
さらに若島氏の「デス博士ノート」の中で少し気になるところがあったので、
今回はこれを手がかりに、「デス博士の島」を再び廻って見ようと思う。
(以下、若島氏の記事に関しては「若島ノート」とする。)
若島ノートによれば、主人公タックマン・バブコックの「COCK」は
「子供」の意味を持つという。
またタックマンの母バーバラの愛称も「バブ」であるとのこと。
この点について言えば、Bubcockという姓は「バーバラの子供」の意味を内包しており、
さらに冒頭近くの「ミセス・バブコック」という記述により、この姓は
タックマンの父方のものであることがわかる。
つまり「バブコック」という名は、タックマンの出自を示す記号であり、
子供としての彼の立場を明らかにする証明でもあったわけだ。
冒頭で砂の署名が波に消されていくシーンは、それまでの自己が名前とともに
消失していく様子を表わしている。
母の再婚によって「バブコック」の姓を失うということは、タックマンにとって
「バーバラの子」でなくなることであり、同時に実父との唯一の繋がりをも失うことである。
父母との絆である姓を奪われることは、「子供」としての自我の終焉を意味し、
結果としてタックマンはひとりの「人間」として、世界に向き合うことを余儀なくされる。
これは獣から進化した「獣人」のイメージに重なる。タックマンはまだ「大人」ではないが、
もはや「子供」でもない。
そして、そのように仕向けたのはデス博士の鏡像であるブラック先生である。
彼は母を奪い、姓を奪うことで、タックマンの成長を「促進」させた。
ただし、タックマンの意志とは無関係に。
一方、母であるバーバラは、ブラック先生との関係によって母としての立場を捨てて
一人の女性としてふるまうようになり、さらにラスト近くでは怪しげな注射を受けている。
これはタラーがデス博士によって獣化処置を受けるシーンに対応しており、バーバラは
ブラック先生によって、人から獣へと変えられていっていると読むこともできる。
『デス博士の島』を読みはじめてから、タックマンはまずランサム船長と海岸で出会う。
ランサム船長は島へ漂着してくるのだが、この場面でタックマンは成長した姿に変容しており、
以後ランサムが出てくる場面では、彼はいつも大きくなっている。
外見上からランサムがジェイソンと結ばれているのは明らかだが、同時に彼は
タックマンとも深く結びついた存在であろう。
Tackは帆船における帆の開きの意があり、また針路の意味もある。帆の開きや針路を決めるのは
船長だから、タックマンとランサムの関係は明らかだ。
さらにRansomは語感として「孤独な」という意味のlonesomeに似ているが、
これはまさにタックマンの境遇そのものである。
一方、ジェイソンの名はアルゴ探検隊のリーダーであるイアソンに由来しており、外見以外にも
ランサムと結ばれた存在である。
イアソンは国を得るための条件として金羊毛皮をを要求され、これを盗んだ。
ジェイソンの場合はバーバラの好意を得るため、タックマンに盗んだペーパーバックを与え、
「おじさんがいいことしてくれたとママに話すように」促している。
そしてペーパーバックについては、ケバケバしい表紙が金羊毛皮を思わせ、書物という形態は
「羊皮紙」との関係も伺わせる。
タックマンにとってのランサムは、大人になった自分の姿を託された「男」であり、
一方では母を奪おうとする「男」としてのジェイソンにも重なっている。
そしてこの相反する2者を併せ持つ存在は、もうひとりの「男」であるデス博士にも当てはまる。
デス博士はブラック先生と結ばれているが、同時にタックマンの父の書斎にある胸像を思わせる
顔立ちをしており、また父のようにハンサムである。
ここで結ばれるもう一人の存在は、話の中に登場しないタックマンの父だ。
だからデス博士と会うとき、タックマンは大人にならない。
ここでのタックマンはあくまで子供であり、デス博士は父として彼を励まし、導く存在であり、
その鏡像であるブラック先生は、母を奪おうとする憎い存在である。
その一方で、デス博士はタックマンに母の「秘密」を見せ、結果的に母との別離を迎えさせる。
ここで注意したいのは、近所の人を呼びに行くことを決めたのはタックマン本人だということだ。
デス博士はブラックと違い、タックマンから母を奪い去ったわけではない。
なにをするか、ひとりで決める瞬間を与えただけである。結果が同じであっても、誰が何をしたかは
大きな違いなのだ。
バーバラについては、自らが「母」と「女」の側面を併せ持っているのが明らかで、
これをタラーの「巫女」と「野人」の姿に重ねるのは容易である。
若島ノートでは「タラー」の名は「岬産まれ」を意味しており、バーバラと
結ばれた存在であると指摘されていた。
しかし「バーバラ」の名もまた「野蛮、未開」を意味するbarbarを含んでおり、
その線で読めばバーバラ自身もタラーを象徴する存在であると考えられる。
タックマンと他のキャラクターとの親密さを計るものとして、彼に対する呼称があげられる。
登場順にあげてみよう。
ジェイソン…「ぼく」
ママ、おばさん…「タッキー」
ブラック先生…「坊や」
デス博士…「バブコックくん」「タックマン」「タッキー」
ブルノー…「ご主人様」
ランサム…「タック」
警官…「タックマン」
砕けた呼び方をするのは親族だけで、親密度が下がるにつれてあいまいな代名詞となってくる。
ジェイソンとブラック先生は、明らかにタックマンを疎んじている。もしくは人格のある個人と
見なしていない。
一方で特殊な呼び方をしているキャラクターもいる。特にデス博士はタックマンの全ての呼び名を
使っており、最後には親族と同様の「タッキー」になっている。
なおランサムは唯一「タック」という呼び方をしており、これには自分と同等の存在に対する
呼びかけといったニュアンスを感じる。
ここまで検証をすすめてみて、『デス博士の島その他の物語』という作品に対する感想が
はっきり変わった。
確かに、この物語はタックマンという少年の「心」の物語だ。ただし、この少年は明らかに
青年へと変わる入口に立っており、もうすぐ否応なくひとりで現実と向き合い、そして
やがては大人になっていく。これはその「少年期の終わり」のギリギリの一瞬を、選び抜いた
語彙と緊密な構成で描き出した、恐ろしく手の込んだ作品だったのだ。
デス博士たちはもともと、タックマンの「逃避としての幻想」かもしれない。
だが、彼らはタックマンを少年のままにはしておかない。
彼に自己の未来と今の現実を見せ、そして自分で決断させることによって、
自発的な成長の一歩を踏み出させようとする。現実の大人たちが彼を子供扱いし、
やっかいものと思っているのとは対称的に。
タックマンは自分の針路を進むために、この島を出ていくのだ。父と母を後にして。
一冊の書物、ひとつの物語が、ひとりの少年の父となり教師となる。
この「物語の力」を凝縮した作品が、いともあっさりとした語り口で
書かれているというすさまじさ。
読ませるための技法を超えたレベルで、自分が書こうとすることを
徹底して書き抜くことに全力を注ぐ作家の姿が、そこに垣間見える。
ウルフはやはり恐ろしく意地悪で、悪魔的で、読者に残酷だ。
『デスノート』と書いてみて、これが覚え書きの意味と同時に、『デス博士の島』へと
潜っていく探求者を指すようにも思えてきた。
ここに在るのは、ひとつの「デスノート」である。未読の方、あるいは再びこの物語へ
潜っていこうとする、新たな「Deathnaut」への指針となれば幸いだ。
この作品を旅して、あなたが金羊毛皮を見つけられますように。
今では覚えていない。
その後『20世紀SF』に収録されたのを読んだが、感想としては
地味なファンタジーだな、というくらいでしかなかった。
一見して非常にわかり易く書かれているので、こちらとしては書いてあるとおり
「小説の人物が現実に現れ、ちょっとした大人の秘密を垣間見せる話」だと
受け取っていた。これだけでは、べつに驚くような話ではない。
小説がうまいとか、叙情的だとかいう部分は今ひとつ感じず、
けっこうそっけなくてあっさりした話にしか見えなかったのだ。
今回『ケルベロス』を読み、『アメリカの七夜』を読み、『ショウガパン』を読んで
中短編でのウルフの曲者ぶりを思い知らされた。
さらに若島氏の「デス博士ノート」の中で少し気になるところがあったので、
今回はこれを手がかりに、「デス博士の島」を再び廻って見ようと思う。
(以下、若島氏の記事に関しては「若島ノート」とする。)
若島ノートによれば、主人公タックマン・バブコックの「COCK」は
「子供」の意味を持つという。
またタックマンの母バーバラの愛称も「バブ」であるとのこと。
この点について言えば、Bubcockという姓は「バーバラの子供」の意味を内包しており、
さらに冒頭近くの「ミセス・バブコック」という記述により、この姓は
タックマンの父方のものであることがわかる。
つまり「バブコック」という名は、タックマンの出自を示す記号であり、
子供としての彼の立場を明らかにする証明でもあったわけだ。
冒頭で砂の署名が波に消されていくシーンは、それまでの自己が名前とともに
消失していく様子を表わしている。
母の再婚によって「バブコック」の姓を失うということは、タックマンにとって
「バーバラの子」でなくなることであり、同時に実父との唯一の繋がりをも失うことである。
父母との絆である姓を奪われることは、「子供」としての自我の終焉を意味し、
結果としてタックマンはひとりの「人間」として、世界に向き合うことを余儀なくされる。
これは獣から進化した「獣人」のイメージに重なる。タックマンはまだ「大人」ではないが、
もはや「子供」でもない。
そして、そのように仕向けたのはデス博士の鏡像であるブラック先生である。
彼は母を奪い、姓を奪うことで、タックマンの成長を「促進」させた。
ただし、タックマンの意志とは無関係に。
一方、母であるバーバラは、ブラック先生との関係によって母としての立場を捨てて
一人の女性としてふるまうようになり、さらにラスト近くでは怪しげな注射を受けている。
これはタラーがデス博士によって獣化処置を受けるシーンに対応しており、バーバラは
ブラック先生によって、人から獣へと変えられていっていると読むこともできる。
『デス博士の島』を読みはじめてから、タックマンはまずランサム船長と海岸で出会う。
ランサム船長は島へ漂着してくるのだが、この場面でタックマンは成長した姿に変容しており、
以後ランサムが出てくる場面では、彼はいつも大きくなっている。
外見上からランサムがジェイソンと結ばれているのは明らかだが、同時に彼は
タックマンとも深く結びついた存在であろう。
Tackは帆船における帆の開きの意があり、また針路の意味もある。帆の開きや針路を決めるのは
船長だから、タックマンとランサムの関係は明らかだ。
さらにRansomは語感として「孤独な」という意味のlonesomeに似ているが、
これはまさにタックマンの境遇そのものである。
一方、ジェイソンの名はアルゴ探検隊のリーダーであるイアソンに由来しており、外見以外にも
ランサムと結ばれた存在である。
イアソンは国を得るための条件として金羊毛皮をを要求され、これを盗んだ。
ジェイソンの場合はバーバラの好意を得るため、タックマンに盗んだペーパーバックを与え、
「おじさんがいいことしてくれたとママに話すように」促している。
そしてペーパーバックについては、ケバケバしい表紙が金羊毛皮を思わせ、書物という形態は
「羊皮紙」との関係も伺わせる。
タックマンにとってのランサムは、大人になった自分の姿を託された「男」であり、
一方では母を奪おうとする「男」としてのジェイソンにも重なっている。
そしてこの相反する2者を併せ持つ存在は、もうひとりの「男」であるデス博士にも当てはまる。
デス博士はブラック先生と結ばれているが、同時にタックマンの父の書斎にある胸像を思わせる
顔立ちをしており、また父のようにハンサムである。
ここで結ばれるもう一人の存在は、話の中に登場しないタックマンの父だ。
だからデス博士と会うとき、タックマンは大人にならない。
ここでのタックマンはあくまで子供であり、デス博士は父として彼を励まし、導く存在であり、
その鏡像であるブラック先生は、母を奪おうとする憎い存在である。
その一方で、デス博士はタックマンに母の「秘密」を見せ、結果的に母との別離を迎えさせる。
ここで注意したいのは、近所の人を呼びに行くことを決めたのはタックマン本人だということだ。
デス博士はブラックと違い、タックマンから母を奪い去ったわけではない。
なにをするか、ひとりで決める瞬間を与えただけである。結果が同じであっても、誰が何をしたかは
大きな違いなのだ。
バーバラについては、自らが「母」と「女」の側面を併せ持っているのが明らかで、
これをタラーの「巫女」と「野人」の姿に重ねるのは容易である。
若島ノートでは「タラー」の名は「岬産まれ」を意味しており、バーバラと
結ばれた存在であると指摘されていた。
しかし「バーバラ」の名もまた「野蛮、未開」を意味するbarbarを含んでおり、
その線で読めばバーバラ自身もタラーを象徴する存在であると考えられる。
タックマンと他のキャラクターとの親密さを計るものとして、彼に対する呼称があげられる。
登場順にあげてみよう。
ジェイソン…「ぼく」
ママ、おばさん…「タッキー」
ブラック先生…「坊や」
デス博士…「バブコックくん」「タックマン」「タッキー」
ブルノー…「ご主人様」
ランサム…「タック」
警官…「タックマン」
砕けた呼び方をするのは親族だけで、親密度が下がるにつれてあいまいな代名詞となってくる。
ジェイソンとブラック先生は、明らかにタックマンを疎んじている。もしくは人格のある個人と
見なしていない。
一方で特殊な呼び方をしているキャラクターもいる。特にデス博士はタックマンの全ての呼び名を
使っており、最後には親族と同様の「タッキー」になっている。
なおランサムは唯一「タック」という呼び方をしており、これには自分と同等の存在に対する
呼びかけといったニュアンスを感じる。
ここまで検証をすすめてみて、『デス博士の島その他の物語』という作品に対する感想が
はっきり変わった。
確かに、この物語はタックマンという少年の「心」の物語だ。ただし、この少年は明らかに
青年へと変わる入口に立っており、もうすぐ否応なくひとりで現実と向き合い、そして
やがては大人になっていく。これはその「少年期の終わり」のギリギリの一瞬を、選び抜いた
語彙と緊密な構成で描き出した、恐ろしく手の込んだ作品だったのだ。
デス博士たちはもともと、タックマンの「逃避としての幻想」かもしれない。
だが、彼らはタックマンを少年のままにはしておかない。
彼に自己の未来と今の現実を見せ、そして自分で決断させることによって、
自発的な成長の一歩を踏み出させようとする。現実の大人たちが彼を子供扱いし、
やっかいものと思っているのとは対称的に。
タックマンは自分の針路を進むために、この島を出ていくのだ。父と母を後にして。
一冊の書物、ひとつの物語が、ひとりの少年の父となり教師となる。
この「物語の力」を凝縮した作品が、いともあっさりとした語り口で
書かれているというすさまじさ。
読ませるための技法を超えたレベルで、自分が書こうとすることを
徹底して書き抜くことに全力を注ぐ作家の姿が、そこに垣間見える。
ウルフはやはり恐ろしく意地悪で、悪魔的で、読者に残酷だ。
『デスノート』と書いてみて、これが覚え書きの意味と同時に、『デス博士の島』へと
潜っていく探求者を指すようにも思えてきた。
ここに在るのは、ひとつの「デスノート」である。未読の方、あるいは再びこの物語へ
潜っていこうとする、新たな「Deathnaut」への指針となれば幸いだ。
この作品を旅して、あなたが金羊毛皮を見つけられますように。
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