かつて福武書店から刊行されていた『エンジン・サマー』が、扶桑社より
文庫となって復刊された。
いまやファンタジーの巨匠となったジョン・クロウリーの名を知らしめた
異世界ファンタジー風SFであり、青春ロードノベルの傑作だ。
訳者あとがきによると、作者にとってはこれが最後のSF作品となった
そうだが、それがもったいないくらいの完成度を誇るメタSFでもある。
時は遥か未来、人類世界を壊滅させた「嵐」の後に生き残った人々が暮らす
「リトルベレア」という村で生まれた少年が、自らの生い立ちを語り始める。
かつては人は「天使」だったという。彼らは世界の全てを欲しがり、そして
全てを手に入れ、やがて全てを滅ぼした。
生き残った者は天使の遺物を隠し、あるいはそれらを破壊して故郷から去り、
やがて今のような人間となって「リトルベレア」を築いたと、少年は語る。
アメリカインディアンを思わせる村での暮らしぶり、ミステリアスな少女との
出会いと別れ、自分の未来に対して成された予言と、故郷からの旅立ち。
様々な人との出会いと別れを繰り返して遂に目指す土地へと至った少年は、
その長い道程を自らの言葉によって、再び辿ってゆく。
記憶と言葉の旅路の果てに待っているのは、どのような結末なのか。
さて、人はなぜ物語を必要とするのだろう。教養のためか、慰めのためか、
それとも全く違う理由からだろうか?
それはたぶん、人が人になって以来の疑問である、「我々はどこから来たか」に
発しているものだと思う。
人はいつでも、その時と場所にあわせた「はじまりの物語」を語ろうとする。
その物語が人を突き動かして探求の旅に向かわせ、それによって世界と物語は
新たに書き換えられる。旅人の名前は、好きに選んでもらっていいだろう。
たとえばアンディやラッシュやモンゴルフィエ、またはイエスやムハマドや
ゴータマや、あるいはこれを読んでいるあなた自身でもいい。
作中人物の一人、複収者のティープリーは天使が遺した錆びない鉄や腐らない
食物について「こういうものは最初から死んでいるものなんだ」と言う。
変化をしないものは不死ではない。それらは最初から死んだものなのだと。
しかし物語は、語られ、聞かれ、思い出され、そして忘れられることによって
何度も生まれ変わることができる。
我々が宗教や神話を必要とする限り、物語が死ぬことはない。
そして物語として生きるものだけが、不滅の生を生きることができるのだ。
結局のところ、それが「相対性」(relativity)ということになるのだろう。
大破壊後の世界を書いた作品だが、描かれる光景は決してディストピア的ではなく
むしろ廃墟の美とゆったりした時間の流れを感じられる穏やかさに満ちている。
しかし見方を変えれば、その穏やかさは人類という種が活力を失い、ゆるやかな
衰退の道を辿っていく兆しかもしれない。
「地球の長い午後」の最後の残照は、この世界を幻想的な色に染め上げている。
一方で主人公の語る物語の原型を辿ってみると、それらは極めてアメリカ的であったり、
神秘性や教訓とはかけ離れたものだということがわかってくる。
その事物の意味をずらすことで物語に奥行きや広がりや色を与えるのが、クロウリーの
マジックの秘密だろう。そして乖離ぶりが際立つほどに、物語は輝きを増していく。
表面的には隠されていた物の姿が見えてくるにつれて作品の見え方も変わってきて、
どこか南部のほら話などにも通じる口承文芸的な味わいが増してくるのも楽しいものだ。
ショーの舞台裏を見ると興が削がれるというなら、こんな話は忘れた方がいい。
それでも裏側を覗いてみたければ、まずグローブとボールと天使を探してみよう。
これらを検索エンジンに打ち込んでみれば、たぶん手がかりが見つかるはずだ。
ここからネットめぐりを始めてみると、この『エンジン・サマー』に込められたクロウリーの
遊び心と優れた文学的センス、そして自国の歴史と文化に対する深い愛着に改めて
舌を巻くことになると思う。
北欧神話や中世ヨーロッパの物語に寄りかからず、まさにアメリカを象徴する文化から
来るべき世界の神話を作り出したという事自体、実に画期的なことではないか。
それに加えて申し分のない美しさと重層性、そして普遍性まで備えているのだから
もはや文句のつけようがない。
訳者の大森氏もあとがきで触れているが、ウルフ好きなら必読必携の傑作である。
文庫となって復刊された。
いまやファンタジーの巨匠となったジョン・クロウリーの名を知らしめた
異世界ファンタジー風SFであり、青春ロードノベルの傑作だ。
訳者あとがきによると、作者にとってはこれが最後のSF作品となった
そうだが、それがもったいないくらいの完成度を誇るメタSFでもある。
時は遥か未来、人類世界を壊滅させた「嵐」の後に生き残った人々が暮らす
「リトルベレア」という村で生まれた少年が、自らの生い立ちを語り始める。
かつては人は「天使」だったという。彼らは世界の全てを欲しがり、そして
全てを手に入れ、やがて全てを滅ぼした。
生き残った者は天使の遺物を隠し、あるいはそれらを破壊して故郷から去り、
やがて今のような人間となって「リトルベレア」を築いたと、少年は語る。
アメリカインディアンを思わせる村での暮らしぶり、ミステリアスな少女との
出会いと別れ、自分の未来に対して成された予言と、故郷からの旅立ち。
様々な人との出会いと別れを繰り返して遂に目指す土地へと至った少年は、
その長い道程を自らの言葉によって、再び辿ってゆく。
記憶と言葉の旅路の果てに待っているのは、どのような結末なのか。
さて、人はなぜ物語を必要とするのだろう。教養のためか、慰めのためか、
それとも全く違う理由からだろうか?
それはたぶん、人が人になって以来の疑問である、「我々はどこから来たか」に
発しているものだと思う。
人はいつでも、その時と場所にあわせた「はじまりの物語」を語ろうとする。
その物語が人を突き動かして探求の旅に向かわせ、それによって世界と物語は
新たに書き換えられる。旅人の名前は、好きに選んでもらっていいだろう。
たとえばアンディやラッシュやモンゴルフィエ、またはイエスやムハマドや
ゴータマや、あるいはこれを読んでいるあなた自身でもいい。
作中人物の一人、複収者のティープリーは天使が遺した錆びない鉄や腐らない
食物について「こういうものは最初から死んでいるものなんだ」と言う。
変化をしないものは不死ではない。それらは最初から死んだものなのだと。
しかし物語は、語られ、聞かれ、思い出され、そして忘れられることによって
何度も生まれ変わることができる。
我々が宗教や神話を必要とする限り、物語が死ぬことはない。
そして物語として生きるものだけが、不滅の生を生きることができるのだ。
結局のところ、それが「相対性」(relativity)ということになるのだろう。
大破壊後の世界を書いた作品だが、描かれる光景は決してディストピア的ではなく
むしろ廃墟の美とゆったりした時間の流れを感じられる穏やかさに満ちている。
しかし見方を変えれば、その穏やかさは人類という種が活力を失い、ゆるやかな
衰退の道を辿っていく兆しかもしれない。
「地球の長い午後」の最後の残照は、この世界を幻想的な色に染め上げている。
一方で主人公の語る物語の原型を辿ってみると、それらは極めてアメリカ的であったり、
神秘性や教訓とはかけ離れたものだということがわかってくる。
その事物の意味をずらすことで物語に奥行きや広がりや色を与えるのが、クロウリーの
マジックの秘密だろう。そして乖離ぶりが際立つほどに、物語は輝きを増していく。
表面的には隠されていた物の姿が見えてくるにつれて作品の見え方も変わってきて、
どこか南部のほら話などにも通じる口承文芸的な味わいが増してくるのも楽しいものだ。
ショーの舞台裏を見ると興が削がれるというなら、こんな話は忘れた方がいい。
それでも裏側を覗いてみたければ、まずグローブとボールと天使を探してみよう。
これらを検索エンジンに打ち込んでみれば、たぶん手がかりが見つかるはずだ。
ここからネットめぐりを始めてみると、この『エンジン・サマー』に込められたクロウリーの
遊び心と優れた文学的センス、そして自国の歴史と文化に対する深い愛着に改めて
舌を巻くことになると思う。
北欧神話や中世ヨーロッパの物語に寄りかからず、まさにアメリカを象徴する文化から
来るべき世界の神話を作り出したという事自体、実に画期的なことではないか。
それに加えて申し分のない美しさと重層性、そして普遍性まで備えているのだから
もはや文句のつけようがない。
訳者の大森氏もあとがきで触れているが、ウルフ好きなら必読必携の傑作である。
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