熊は勘定に入れません-あるいは、消えたスタージョンの謎-

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ラファティ『子供たちの午後』

2007年01月23日 | SF
青心社からかつて出ていたSF叢書のうち、ラファティとヤングの作品が
同社からようやく復刊された。
『子供たちの午後』はその中の1つ、R・A・ラファティの短編集である。
国内で出たラファティ短編集の中でも早い時期に属し、しかも編集が
日本オリジナルという、なかなか特殊な性格を持つ本だ。

この本もかつて図書館で読んだことがあるのだけれど、ラファティにしては
比較的笑えない話が多い気がしたものである。
今読み返してみてもその感想は変わらないが、だからといってつまらないと
いうことではなく、むしろ他の本とは異なる読みどころが多い。
巻末の編者解説が長編への手引きとしてよくまとまっていることも含め、
ラファティのファンには必携の一冊である。
さらに今回は復刊にあたって編者の井上央氏が新たな解説を追加しており、
未訳長編の「Half a Sky」を題材に、キリスト教的な視点と語り部という役割に
注目した新たなラファティ分析を行っているので、旧版を持っている人も必読。

この短編集が他に比べて「笑えない」という理由のひとつに、ラファティお得意の
思考のダイナミズムが歴史や地理のダイナミズムへと直結していく、あの豪快さが
少ないことがあげられる。
「せまい谷」「つぎの岩につづく」「完全無欠な貴橄欖石」「レインバード」そして
「われらかくシャルルマーニュを悩ませり」などがこのパターンを代表する作品だが
『子供たちの午後』に収録されている作品でこれに合致するのは表題作くらい。
一方、収録作に目立つのは「ぺてん」をテーマとした作品が多いことである。
もともとラファティにはぺてんじみた話が多いが、この短編集の場合だと巻頭の
「アダムには三人の兄弟がいた」にはじまり、「パニの星」「子供たちの午後」
「プディブンディアの礼儀正しい人々」「マクグルダーの奇跡」と、全11話中
実に5話までが、人を騙すことそのものを扱った物語であり、その他の収録作も
どこかしらぺてんの要素が感じられるものばかりである。

また、物語の終わり方が哄笑よりも苦いつぶやきや涙で終わるものも目立つ。
この例の筆頭は「この世で一番忌まわしい世界」で、「氷河来たる」「究極の被造物」も
このグループに入るだろう。「子供たちの午後」や「彼岸の影」にしても、そのラストは
どこかゾッとさせる余韻を残して終わる。
平たく言えば、この短編集はラファティ作品の中でもペシミスティックな色が強く、しかも
「秘密の鰐について」(『どろぼう熊の惑星』所収)のラストのような救済の要素も薄い、
かなり重めの内容を持っている。
まあそのペシミスティックな諦観こそラファティの持ち味のひとつであり、この本に収録された
淡々として醒めた視線を感じさせる物語の数々は、作者の持つそんな一面を強く際立たせる
陰画のような味わいを持っていると思う。
ただしこの傾向の作品が続くと、バカ話を読んでいるのになんとなく気持ちが沈んでくるのが
どうにもすっきりしないところなのだが。

この短編集でもうひとつ顕著に感じるのは、ラファティの「子供」と「女性」に対する見方である。
これまた他の作品でくり返し取り上げられていることだが、彼にとって「子供」と「女性」こそは
もっとも身近なエイリアンであり、モンスターであったように感じられる。
「究極の被造物」「子供たちの午後」「この世で一番忌まわしい世界」が、この種の代表作だろう。
そして「子供」と「女性」はまた天性のぺてん師でもある、というのがラファティの持論のようだ。
「七日間の恐怖」や「日の当たるジニー」(『九百人のお祖母さん』所収)はその好例だし、
「トライ・トゥ・リメンバー」や「究極の被造物」でも、男は女にいいようにコントロールされている。
彼の作品に出てくる男性にはぺてんを生業としている者も多いが、そんな彼らでさえ子供と女性には
いいようにあしらわれてしまっている感がある。(「科学者」と称する連中は、その代表だ。)
特に「この世で一番忌まわしい世界」は「蛇が女に騙されて堕落させられる」物語であり、これは
明らかに創世記のイブと蛇の挿話の逆転を意味している。真のぺてん師はイブのほうなのだ。
男性キャラクターが子供と女性に対抗しえた数少ない例外は、ラファティ世界最強のトリックスターである
ウィリー・マッギリーの活躍する数作程度に限られるのである。

ラファティの作品には「男性・白人・アメリカ国民・カトリック」というアイデンティティが色濃く感じられ、
一方でそれと異なる存在はわけのわからない、得体の知れないものと捉えている節もある。
他方、それらは(欧米的な視点から見れば)「野蛮」であるゆえに、よりプリミティブな存在であり、
「文明人」と称する連中などと比べればよほど神に近い生物である、という見方もできるだろう。
だからこそラファティは執拗にそれらを書き続けたのかもしれないし、それらを書くための手段が
SFにしかなかった、ということなのかもしれない。
そしてその背後には、生涯を未婚で通し最後は老人ホームでその人生を終えたラファティが
内心に抱いていた孤独や寂しさというものが、透けて見えるような気もするのだ。
本短編集中だと「この世で一番忌まわしい世界」が、そんな傾向を代表する作品であろう。
本書でもっとも暗く救いの無い物語であるが、ラファティの内面がもっともストレートに吐露されている
作品のようにも思えるのである。
決して大好きな話ではないが、私にとってこの作品はラファティの短編中でもとりわけ強い印象を残す
忘れがたい作品のひとつである。

本書が刊行された当時と異なり、今は長編も含めてラファティ作品を読める状況が整ってきた。
それでも、ラファティをより深く知りたいという人にとって、本書の価値は少しも薄れていない。
むしろラファティを数多く読める今だからこそ、本書の意義がより高まったともいえるだろう。
サイズもコンパクトなので、ラファティ好きなら資料としても常に座右においておきたいところだ。
再び絶版とならないうちに入手しておくことをお勧めする。

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