水川青話 by Yuko Kato

時事ネタやエンタテインメントなどの話題を。タイトルは勝海舟の「氷川清話」のもじりです。

・国連はウルトラ警備隊じゃない (対リビア安保理決議などについて追記あり)

2011-02-23 20:00:32 | ニュースあれこれ
大学生がリビアについて、「なんで国連は市民への攻撃をやめさせないんですか?」と質問してきた。国連や国際法の勉強はしたことがないというから、やむを得ない疑問かと思ったので、私なりに説明してみた。そもそもね、から初めて。

・そもそも、人間社会が自然状態から社会契約によって成り立ったものと仮定するなら、国際社会というのは社会契約で成立した「国家」を一義的な当事者としている。これが古典的な考え方だ。国家とは(色々な定義の仕方があるが)、領土と国民と主権と政体によって成り立つ。主権が誰に属するかは国家の形態によって違うが、国家の主権(state sovereignty)は絶対である――これが古典的な国際社会に対する考え方。

・それに対して、社会契約思想が成立した啓蒙主義の時代になると、「普遍的価値」や「普遍的人権」というものが世の中にはあり、君主がそれを侵害すれば社会契約は破綻し、君主は主権行使の正当な権限を失う――という考えがブームになった。これが、英米仏の革命を経て18世紀末以降にポピュラーとなった「革命」の思想だ。

・以来、国家主権vs普遍的人権のせめぎ合いが、現代国際社会における大テーマとなった。つまりは、普遍的人権を保護する為なら国家主権の侵害は正当化されるのだろうか、という命題だ。

・1945年までは一般的に、その答えはノーだった。国家主権>普遍的人権だった。人権とは、国家が社会契約に則り国民に保障するものだった。しかしニュルンベルク裁判などを通じてホロコーストの実態が明らかになり、それではダメだということになった。

・余談。たまに誤解されているのだが、第二次世界大戦において連合軍はホロコーストの被害を食い止めるためにドイツを攻撃したのではない。ナチス・ドイツの領土拡張・侵略を食い止める為に反撃したのであって、ドイツ占領地域を解放してみて初めて、強制収容所の実態を知ることになった。ユダヤ人をはじめ、ナチスが迫害する人々を強制移住させ虐殺しているという情報を連合軍は得ていたし、ユダヤ人民族絶滅計画の情報も得ていて、非難声明も出していたが、実態が本格的に明らかになったのは戦後の話。

・この経験を経て、国際社会は国家の枠を超えた普遍的人権を守るのだ、人権に対する最大の侵害は戦争である、よって国際社会は戦争の再発と人権侵害を防止しなくてはならないと、国際連合と世界人権宣言が作られた。

・けれども、理念は別として、国際連合(United Nations)は主権国家(sovereign state)の集合体だ。というかむしろ、主権国家のフォーラムだ。加盟国(=主権国家)の多数意見に反したことを国連事務総長や国連職員が勝手に決めて遂行できるような、そんな超国家的機関ではない

・そこに国連のジレンマがある。国家主権の枠を超えた普遍的人権の保護をミッションとしているが、主権国家の委任がなければ動くことはできない。そして国家主権を侵害することも、よほどの特例がない限り、できない。というか、ほとんどできない。

・その特例のひとつが、国連平和維持活動(PKO)だが、これも別に国連事務総長が「あの国に侵攻してその国民を守りなさい」と命令して動かすものではない。国連安保理や国連総会において、必要な数の加盟国の合意を必要とする。国連PKOというのは実は国連憲章に明確な規定がなく、国連憲章の「6章半」と呼ばれる(これを説明しているとさらに長くなるので、検索されたし)。明確な規定がないので運用や解釈も時代によって変化してきたが、大まかに言えば、国家間の紛争後の和平維持や、内戦調停後の平和維持に派遣される。内戦の真っただ中でどちらかの側にPKOが味方してドンパチやるわけでは、ない。そしてリビアの場合のように、まだ国際的に「政府」として認められているものが存在している状態で、PKOがその国の領内に侵攻していって国民を保護したり、政府を倒したりすることは、今の国連憲章では認められていない。国際法も、国際機関がそんなことをするとは想定していない。そして今更だが、「国連軍」などという、ウルトラ警備隊的なものは存在しない。PKO部隊とは加盟国が提供する部隊の寄せ集めだ。

・(この項追記)ちなみに国連憲章第7章第42条が 、「非軍事的措置」を尽くした後の「軍事的措置」を規定していて、安保理は「国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、海軍または陸軍の行動をとることができる」と書いてある。これがいわゆる「国連軍」の論拠とされるものだが、朝鮮戦争の合法性を確認した以外は、発動されたことはない。そしてしつこいが、国連事務総長をトップにして加盟国の意思とは無関係に独自行動ができる独立した「国連軍」なんてものは、どこにも規定がない。

・今の国際社会と国際法で、一国の国家主権を侵害して領土に押し入りその国民を保護する、なんて行為ができるのは、同じく「国家主権」をもつ「主権国家」だけだ。国家が他国の主権を武力で侵害すること、それはすなわち戦争だ。国家が国家に戦争を仕掛ける権利は、国家にとっての自然権のようなものだ(生命・自由・財産などが人間にとっての自然権であるように)。そもそも国際法とは、国同士が戦争の法を定める過程で整備されていったものだ。

・しかし現実主義(realpolitik)で動く世界では、国家が自国兵士の生命や納税者の血税を使って、他国に侵攻しその国の国民を保護するからには、相当の理由が必要だ。「普遍的人権」という道義的理由だけで、兵士の命と巨額の軍事費を使って他国に戦争を仕掛けてもいいと国民合意が得られる民主国家は、現実にはそうはない。むしろ、独裁者を追放するために戦争したせいで民主国家の指導者が次の選挙で権力の座を追われたりする。なので、「大量破壊兵器の開発を防ぐため」「自分たちへのテロを防ぐため」「地域の安定を図るため」など、道義的なもの以外の実利的な大義名分が必要となるのだ。

・それとは別に、国際社会が承認する実体ある統一政府がもう存在しない状態での介入がある。これは古典的な国際法でいうと「戦争」にはならない。「戦争」とは古典的にはあくまでも国家vs国家のものだからだ(余談だが、「対テロ戦争(war against terror)」という抽象的なものに対する「戦争」とは本当なら、「war against hunger(飢餓に対する戦争)」とか「war against crime (犯罪に対する戦争)」などと同じレトリックや政策スローガンだったはず。なのに、「war against terror」に法的概念としての実体を与えようとしたのがチェイニーだったのだが、それを話すと長くなるので、よければ本を読んでください。なんてな)。

・たとえばユーゴスラビア内戦におけるボスニア紛争やコソボ紛争では、主権国家同士の軍事同盟機構=NATOが、周辺勢力に侵攻を重ねるセルビア勢力を空爆・介入したわけだが、そのとき旧ユーゴスラビアは完全な分裂状態にあり、国際社会が認める「政府」は存在しなかった(さっさと独立を宣言したり、NATOの介入なくセルビアを撃退した国もあるが、ここでは介入を要した紛争当事者のセルビア、ボスニア、コソボに話を限定)。ゆえにこれはNATOによる軍事介入であって、同盟国の集団であるNATOが「主権国家」相手に(国際法的な意味での)「戦争」をしたわけではない。

・主権国家に対して戦争を仕掛けるのと、主権国家がもう正統に存在しない状態の地域に軍事介入するのとでは、その行為の重みがまったく違う。何より、自国民にとっての、そして国際社会においての、イメージが違う。イメージなんて、と思うかもしれないが、国内政治や国際政治において「perception(どういうイメージで見られているか)」は実はすごく大事なことなのだ。イメージの善し悪しが、正統性を決めたりするのだから。それからイメージの問題として、軍事介入というのは数日や数週間で終わるというイメージがあるが、「戦争」となると(6日間戦争とかは別にして)短くても数カ月、下手をすると数年かかるというイメージがある。民主国家において、国民に「戦争」を受け入れさせるには、上記したように相当の大義名分と準備が必要となる。「限定的な介入」と言えば、まだ議会の合意を得易い。民主国家とはそういうものだ。

・となるとリビアの場合、国際社会の大多数がカダフィ政権の正統性を認めず、かつカダフィ政権の代わりになれる対抗勢力がまとまった形で台頭しなければ、つまりリビアは内戦状態にあってその主権は一時的に消失していると認定されなければ、軍事介入は難しいということになる。ぐるりと話を戻せば、一国の主権というのは国際社会においてかくも強固な、尊重されるものなのだ。

・では、カダフィ政権が正統な政府であり続ける間、国際社会がその主権を侵害せずに何ができるか。それは残念ながら、制裁くらいしかない。禁輸とか、海外資産の凍結とか(飛行禁止空域の設定が議論されているとの情報もあるが、これは主権侵害にあたると思う。イラクに対しては第一次湾岸戦争後の武装解除を順守させるために実施したのであって、リビアに対してはそもそもの法的根拠がないのではないか?)。

・「responsibility to protect(守る責任)」の議論もある。つまり国家には国民の身体生命人権を保護する責任あるのだから、それを脅かす国家に対して、国連をはじめ国際社会は人道上の理由から介入し、人々を守る責任があるという考え方だ。集団虐殺、戦争犯罪、民族浄化、人道に対する罪――がその対象となる。カダフィ政権による反体制派虐殺は「人道に対する罪 (crimes against humanity)」に相当すると私は思う。アナン前国連事務総長が提唱し、05年に国連総会が宣言し、06年に国連安保理が支持し、09年に総会決議となって採択されたが、実施例はまだなく、定説になっているかは疑問。もしかしたらリビアが、初の明確な適用事例になるのかどうか。

・集団虐殺、戦争犯罪、人道に対する罪を国境を越えて裁く機関として2002年に設置されたのが、国際刑事裁判所(ICC)だ。しかし国家の主権を超えて、そうした行為を裁くことはできない。設置条約の締約国でない国に、ICCの司法管轄は及ばない。そして、はいそうです。リビアはもちろん、締約国ではないのだ。(27日追記。リビアについて国連安保理が全会一致で制裁決議案を採択。武器禁輸、カダフィ一族・政権幹部の海外渡航禁止、海外資産凍結、そして、「人道に対する罪」と指摘される行為について調査を国際司法裁判所(ICC)に付託。ICCの設置条約であるローマ条約の締約国でないリビアの人道に対する罪を審理するひとつの手段が、安保理による付託だった。リビアの主権を大きく侵害する行為だけに、合意形成の難航が予想された。これを全会一致で採択したのは、国連として、そして国際法上、大きな意義がある。ただし何度でも繰り返すが、国連や国際法に強制力はない。ICCの判決に非締約国を従わせるのは非常に困難。かつて国連戦争犯罪法廷がミロセビッチに対してしたように人道に対する罪を指示した責任で起訴したとして、カダフィがミロセビッチのようにハーグの法廷に立つには、まずどこかで誰かが拘束し、その身柄をICCに引き渡さなくてはならない。起訴するのかどうかもそうだが、この「どこで誰が」拘束するのかが今後の焦点。ちなみにイラクのサダム・フセインの時は、米軍が拘束→暫定政権に引き渡し→イラク政府が裁判・処刑、という流れで国連は介入しなかった)。

・くどくどと書いてきたが私が今思うに、国際社会がリビアに軍事的に手を出す為には、カダフィ政権はもはや政府としての機能(=統治能力)を失った、リビアは内戦状態にある、ないしは無政府状態にあると宣言する必要がある。ただしそうした時に、いったいどの国が主導してあの国に軍事介入しようとするだろうか。アメリカやイギリスが、今一度ムスリム国家に軍事介入したがるだろうか。まさか。したくても、状況的にできるはずもない。ムスリム国家に軍事的に手出しできるのは、同じムスリム国家しかないと思う。しかし同じように国内に反政府デモを抱える長期独裁政権の国々が、いったいどんな大義名分でリビアに介入できるのか。国境の安定化とか地域の安定化しか思いつかない訳だが、となると今までだったらエジプトしかない。そのエジプトに今、そんな余裕はないはずだ。とすると国際社会には、(いつもの)非軍事的な手段しかない。

・なので国際社会が国連を舞台に、非難声明とか経済制裁を検討している間に、リビア国内の戦いは続く。

・もちろん、非軍事的手段→軍事的手段と段階的にエスカレートしていくのが外交の常識なのだから、いきなり軍事介入があるはずもなく。とはいえ、であるがゆえに、今そこにある虐殺に対して、国際社会は常に無力だ。

・誤解のないように。私は「さっさと軍事介入しろ」と言ってるわけじゃない。「なんで国連はさっさと国連軍を派遣して虐殺を止めさせないんだ」という声や不満に対して、「いや、あのね」と言いたい訳だ。他国の国家主権を否定するなら、自国のを否定され侵攻されても文句は言えないのだし。

・ところで内戦といえば(私にとっては)日本の幕末なわけだが、あの時はイギリスが明確に薩長革命勢力を支援し、フランスが(あまり役に立たなかったが)幕府を支援した。よってその結果、イギリス大使館は皇居の目の前にあり、フランス大使館は(当時は江戸の外で、別にオシャレな街ではなかった)広尾にある。カダフィを支える外国勢力はどこか。そして欧米各国は今、後押しするべき対抗勢力を見定めるのに、必死なのだろうと思う。