時の栞

何を見て、何を思い、どう表現したのか。
私の欠片であるコトバで綴った、私自身の栞です。

“奇跡の一本松”1億5千万円のモニュメントに思う

2013-03-22 15:37:17 | ナニゲな日々

3月20日(水)午後6時10分~45分、

NHKで“岩手陸前高田奇跡の一本松を追って”

▽修復作業を密着取材、とある番組を見ました。

 

本年3月11日前後の震災後の番組をいくつか見て、

何か違うなあという気持ちが生じてたので、

10日ほど前、岩手県陸前高田市で

奇跡の一本松のモニュメントが

枝の向きが違っているということで、作業のやりなおし、

3月22日の記念式典を延期、

というニュースを見てなければ、

見なかった番組だと思います。

 

何か違うなあと思ったのは、

復興が進まない現実に不満はないかと、

被災者を煽る番組ばっかりだったこと。

 

仮設住宅が狭い、知り合いと離れ孤立、

仕事が無いなど、

不満なんて言い出したらキリがないと思うので、

ではどうしたら復興が進むのか、

そういう切り口の番組を期待したのに、

あまり有益とは思えない番組ばかりでした。

 

そのとき見たのが、

一本松のモニュメントを手直しするというニュース。

記念式典なんてものまでやるつもりだったらしい。

 

そもそも一本松のモニュメントを作るという

プロジェクトの存在を知らなかったので、

そうなの?と思ったのだけれど、

これがまた金にあかせて作らせているらしく

とても良く出来たサイボーグ松。

 

根の部分にはコンクリート基礎をほどこし、

幹をくりぬき樹脂で作った心棒を通し、

枝葉は切り分けた松から型取りし

FRP(強化プラスチック)で作られたレプリカ。

これにかかる費用は1億5千万だというからビックリ。

 

もっとビックリなのは、

このサイボーグ松を作るにあたり、

保存作業を請け負った乃村工藝社の

経営企画本部チーフの山崎純二さんは

「店の内装や商業施設の展示物を主に扱うが、自然の木を再現するのは初めて。

海の側で風が強い状況で最低でも10年は保つようなものとして制作にあたった」

と話していること。

 

えぇっ?最低でも、じ、10年?

1億5千万円もかけて?

 

確かに番組で流れた設置作業は、

画面からはあまり伝わって来なかったけれど、

台になる部分にかぶせる作業など

風がものすごく強いらしく設置できずにいました。

ボルトを通して固定してたんですが、

うーん、10年…大丈夫なんでしょうか?

最大風速をどの程度に設定してるのか、

明らかにはしてませんが、

想定外という事態にはなりませんように。

  

とにかく、なんだかもうスゴイ話で、

かかる費用の全ては、

まだ全額集まってもいない寄付で賄われるとのこと。

もし集まらなかったら、

費用はどこが、ダレが出すのやら。

 

これ、陸前高田の人たちに復興のシンボルとして、

何をさておいても、

どうしても欲しいものなのかと聞いてみたい。

 

一本松のモニュメントを設置するのは

復興が進んでからでも遅くないと私は思うし、

それよりも、震災前に高田松原の松ぼっくりを拾ってた人が、

タネから育てている松の苗を、元のように海岸に植える、

そっちを応援したいなと思っています。

 

この話を聞いて思い出したのが、長崎の平和祈念像。

一本松のように像は寄付で、台座は長崎市が負担したものです。

 

この像が出来た時、

両親と長姉が爆死、自らも被曝した、

福田須磨子さんは「ひとりごと」という詩を詠いました。

像よりも他に…と切実に詠んでいるのが、

私には一本松のモニュメントと重なります。

今、そのモニュメントを作る資金と労力があるのなら、

もっと被災者を助けられるのではないだろうかと。

 

自費で刷った「原子野」に収録され、

朝日新聞にも掲載された詩です。

*のちに汐文社から1989年04月に発売

 

「ひとりごと」は「瓦礫の中の群像」とともに、

「ふるさと文学館 第四九巻」にも収録されています。

 

「瓦礫の中の群像」

 

彼女の直接的な叫びは、

圧倒的な臨場感とともに長崎の惨状を伝え、

心の奥まで響いてきます。

 

  

復興のシンボル、災害の記念碑、

そういうものの設置は良いのか悪いのか、

一概に答えの出せないことだとは思いますが、

やらなければならない順番、

優先順位を間違えないでほしいです。

 

~*~*~*~*~*~*~*~*~*~

 

福田須磨子さんは被曝後10年、紅斑症を発病しました。

被曝後23年、体験記「われなお生きてあり」を発表し、

第9回 田村俊子賞を受賞しました。

原爆への恨みもありますが、

心から平和を望み、原爆症と戦い続けた体験記。

福田さんのほとばしる思い溢れる筆致には、

魂が揺さぶられました。

 

昭和49年4月2日、52歳で亡くなった後、

松山町平和公園祈りのゾーンに詩碑が建てられています。

「生命を愛しむ」

撰文は医師の秋月辰一郎氏

 

 

貧困と原爆症に苦しみながら、

生き抜いた自分を「奇蹟の思い」で振りかえり、

魂で叫ぶ、「吾尚生きてあり」と。

 

福島第一原発事故で放射能漏れを知らされた時、

ただちに健康に影響は無い、と言われ、

そうなのかと納得させられたけれど、

ただちにも、これからも、

誰一人、影響が出ないことを祈ってやみません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿