美里町の探検日記GP

津市美里町(旧美里村)に住んでいるコレクターです。コレクション自慢(?)のほか、津のこと、美里のことも書いていきます。

外山古墳1号(五百野)

2010-10-06 18:24:33 | 津のこと


美里町五百野、外山(とやま)集落東の、
標高100mの山の上にある古墳です。
古墳は2つあり「外山古墳1号」「外山古墳2号」という名が付いています。
合わせて「外山古墳群」と言います。

ここでご紹介するのは、外山古墳1号です。

石垣のように見えているのは、石室の一部で、
当初はこの上からお椀状に土を盛った「円墳」であったようですが、
盛り土が流失してしまって巨石が露出しています。

画像は、古墳の北西側の斜面です。
石を並べた角にあたる部分が。90度の直角になっています。
非常に高い技術で(しかも標高100mの山の上に!)
石が積まれたことが分かります。



最初の画像を、右のほうに進むと、このような状態になっています。
中央の男性と比べてみると、
非常に高く積まれているのがわかります。



積まれた石の一部です。
石の大きさにも驚きますが、自然石を隙間なく積んでいることに驚きます。



同じく、石垣の一部ですが、
木の棒が入るくらいの穴が穿(うが)たれています。
これは、建設当時に、石を運ぶために開けたものでしょうか。



こちらは古墳の南側の斜面です。
ここは、お椀型の盛り土が残っていて、当時の状況に近いと思われます。



頂上で、落ち葉に埋もれている石です。
厚さ15cmくらいの平たい石です。
石室の天井の一部でしょうか。



同じく、頂上にあった祠の跡です。
画像では分かりにくいのですが、玉石を正方形に並べてあります。
ここに祠があったそうですが、
40年ほど前に、吹上の坂の南の山中へ移したそうです。

ということで、ざっと現地の状況をお伝えしました。



この外山古墳のほか、足坂や家所にも古墳があるようですが、
いずれも規模が小さく、古墳時代後期のものと思われます。
それは何を意味するかと言うと、
豪族が権力を振りかざして造った墓ではなく、
この地に住んでいた人々が、自分たち一族の墓として造ったもの、
ということです。
石室は横穴式で、出入りすることが可能で、
一族に死者が出る度に、ここに埋葬していたものと思われます。

そのようなことで、
考古学的には、それほど珍しいものではないのですが、
盛り土が露出しているので、
大きな石を積んだ様子とかを見ることができるのと、
美里町の五百野、足坂、家所より西には
このような古墳は存在しないので、
美里の古墳時代を知るには、適当な例であると言えます。

地元の外山集落には、
ここが城跡であるという伝承があります。
それは、この巨石が城の石垣のように見えたからだ思われますが、
中世城館で石垣を高く積む例は、この地域には少ないので、
この石垣は城の石垣ではありません。
これの南の外山古墳2号がある山には、
室町時代に外山城があったと伝えられています。
(外山城については、別の項で紹介する予定です)

また、
戦時中に、この周囲の山に軍隊が「監視哨」、
つまり敵機がやってくるのを見張る施設を置いていたので、
この古墳のある山にも、兵隊がよく出入りしていたそうです。
それから、これも戦時中のエピソードですが、
お酒の生産、販売が制限されていたので、
上から2枚目の画像の場所で、集落の男性がどぶろくを密造していたそうです。
「子どもは危ないで、山に登ってきたらあかん」と
言われていたのですが、
「登ってみたら、ここからええ匂いがしとったなあ」と
その男性は笑って言っていました。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 赤い羽根共同募金の記念ピン... | トップ | 福祉体験教室~車椅子バスケ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

津のこと」カテゴリの最新記事