与謝野鉄幹・晶子夫妻と加治木:性応寺

2009年03月19日 21時32分53秒 | Weblog
今日、明日と鹿児島県加治木市・性応寺さま彼岸会。実は8年前お約束するとき「中日を最終日とする四日間で」とお願いされていて、今年の中日を21日と早合点してしまっていた私は18日~21日とスケジュール表に記帳していた。
しかし今年1月末に頂戴した性応寺さまよりの法座出講確認の書状に17日~20日と・・・(驚・焦・汗)。既に17日までは教区内の寺と約束を入れてしまっている・・・(汗)

急遽、性応寺さまに事情をお話し副住職を代講に立てることをお許し下さるようお願い。幸い副住職もこの5月付けで布教使に任用されることになっており、またS応寺さまの若院さんと大学時代同級生で友人。せっかく遠路を参上するのだからという手前勝手な理由を付け、一日ではなく二日間お世話にならせてもらう。大層可愛がられ次回は単独でと約束まで頂戴したとのこと、私の無礼を申し訳なく思う中に、性応寺さまのご厚情をまことにありがたく思う。

さて、ここ性応寺さまは、元々紀伊の国(現在の和歌山市和歌浦)に所在し本願寺の中本山として百数十か寺の末寺を抱える寺院であった(そのころの筆頭門徒に雑賀某・鉄砲隊を抱え石山戦争の時、本願寺のために力を払ったという歴史がある)。
やがて宗門改革により全ての寺院の一般寺院化が図られ、中本山制度もなくなり、それによって性応寺さまの直門徒は僅か7戸というものになってしまった。ちょうどその時期念仏禁制をされていた薩摩の地が解禁され、本願寺は薩摩開教に力を入れており、それに応じて性応寺さまはここ加治木・鹿児島別院説教所の地を移転先とし移ってこられた経緯がある。

移転に際し和歌山にあった本堂は鹿児島別院の本堂として移築されたのだが、やがて別院本堂の建て替えの時、元々性応寺本堂であったので、それを再び移築したのが現在の性応寺本堂となっている。従って現本堂は二度海を渡って移動したことになる。

                    
                     【右奥が「たぶの木」と手前が歌碑】
           

その説教所時代に歌人・与謝野鉄幹の父上(滋賀教区出身:現・財務大臣与謝野肇氏の曾祖父)が明治14年本願寺鹿児島別院の加治木説教所(現在の性応寺)の僧侶として赴任している。9歳の鉄幹も父上に従い1年余りを加治木で過ごし、その頃、黒川沿の山から「たぶ」の木をとって鉄幹が植えたそうだが、それが現在では巨木となり本堂裏にあたる境内の西側に樹っている。そのタブの木の近くに夫妻の歌碑が建立されているのは知っていたが詳しく見たことはなかった。

                  

今回初めて散歩がてら境内を出て国道沿いにある歌碑を見学に行くと、表に昭和四年、加治木を訪れ自分の植えた「たぶ」の木と再会し詠った
「老の身の 相見て嬉し をさなくて 加治木の寺に 植ゑしたぶの木」
と、 妻 与謝野晶子の
「加治木なる 五つの峰の波形の 女めくこそ あはれなりけり」
との加治木の五老峰をうたった二首が刻み込んであった。

また碑の裏面には
「加治木へは 来るにあらず 帰るなり 父と住みける 思い出のため」
と鉄幹の心の原風景を思わせる歌も発見した。 

まことに親元へは「帰る」もの。鉄幹のこの歌を読みながら、親さまの彼岸のお浄土を想う。

岐阜:S山君の【住職雑記】
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昨日連絡のあった岐阜のS山君が自身の入院顛末記をアップしているとメールが来た。状態はよいようで安心。

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1 コメント

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リンク報告 (カミタク(川内まごころ文学館訪問記))
2009-09-15 23:23:55
はじめまして。私はカミタクと申します。

私が運営するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「川内まごころ文学館訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANAE.HTM
から貴記事にリンクを張りましたので、その旨報告申し上げます。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。
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