3月5日(土)
今日はブラ~っと三浦市に行って来ました。
目的地は「新井城址」で、その周辺を肉付けしてプランを立ててて…行くのは別に今日じゃなくても良かったんだけど、京急の中吊り広告で「第14回 三浦海岸桜まつり」ってのが13日まで開催されてるの知ってさ、それで今日決行したというワケ。
コレが今日のルートだよ。(レッドライン=京急線、ブルーライン=京急バス、グリーンライン=徒歩)
家を8:20に出て、8:34「横須賀中央」駅発の列車に乗って、8:53「三浦海岸」駅で降りました。
「三浦海岸桜まつり」は2月13日から開催されています。
駅名標?も「桜まつり」仕様のピンクになってるね。
駅前の「河津桜」もチョット葉が目立ってきてるな…知るの遅かったかなぁ?
まだ開店前のテントが多いけど…特産でも売るのかな?
「三浦大根」太いね~
駅チカには馬頭観音とか福徳円満夫婦延命地蔵尊がありました。
これから「①小松ヶ池」まで約1Km歩きます。
駅から300mくらい歩いた辺りから「河津桜」が見えてきました。
「河津桜」のピンクと「菜の花」のイエローが春っぽくてイイね。
「河津桜」は早咲きで知られ、花の色が「ソメイヨシノ」よりも桃色が濃く、花期が1ヶ月間と長いのが特長なんだって。
ちょうど京急来たね。
小松ヶ池公園に着きました。
「小松ヶ池」に行ってみます。
あぶない「かめ」がいます…って、カミツキガメでもいるの?
この鳥は周りにいた人が「鵜」って言ってたよ…「カワセミ」もいるんだってさ。
俺、今回この周辺を調べてて思い出したんだ…ココに来たかは覚えていないけど、小学5年の臨海学校が三浦方面で「小松ヶ池」の伝説?を聞いたことがあったよ。
むかし、この池のあたりがまだ、いくつかの小さな田に分かれていた頃、お松という働き者の嫁が一人、田植えに励んでいました。
お松は、意地悪な姑に一人ではとても無理なほどの田植えを言いつけられたのです。
すでに太陽は西山にかくれようとしているのに田植えが終わらず、困り果てたお松は天を仰いで「あと半刻あれば田植えを終わるものを」と嘆き悲しみました。
すると不思議なことに、西山に沈もうとした太陽がにわかに数尺も高く東ヘ戻り、おかげでお松は無事に田植えを終えることができました。
しかしその時、あたり一面は深い沼田と変わり、お松は水に呑まれてしまいました。
それからというもの、雨の多い年が続いてやがてこの一帯はごらんのような大沼になったといわれています。
もう35年近くも前だもんな…臨海学校どこの海だったっけなぁ?
小松ヶ池は古来より当組合専用にかかる農業用灌漑池にして、組合員等が共同して堤塘、水門、水路等水利施設の設置維持管理改修に当たり、かつ配水の統制、管理を行い現在に至りました。
小松ヶ池は面積約1.5haあり、野鳥、昆虫、植物などの自然生態を観察することができる公園として整備されています。
また元の道に戻り…三崎口駅まで800mくらい?歩きます。
三浦海岸の河津桜の数は1,000本で、本場、河津川(静岡県)川沿いの800本よりも多いんだぞ~
河津桜と同じピンクの家だね。
この先は「三崎口」駅があるんだけど…この高架を京急が走ってるんだよ。
9:50ごろ「三崎口」駅に着きました。
次はバスに乗るんだけど…俺、10時台しか調べてなかったわ。
だけど「油壺」方面は本数あるんだね…9:53発のバスに乗って「三崎警察署前」で降りました。
左側の二尊づつ並んで立つ地蔵は「夫婦地蔵」と呼ばれています。
「三浦(道寸)義同」と「北条早雲」との合戦の折、引橋の近くに老夫婦の出す茶店がありました。
三浦と北条が戦乱に明け暮れて行くころ、北条氏の間者が行きずりの百姓に化けてこの茶店に立ち寄り、いろいろ話すうちに三浦方の様子を聞くので、人の良い老夫婦は笑顔をほころばせながら、自慢げに新井城のことをすっかり話してしまいました。
その後、この百姓に化けた間者は三浦方の追っ手に捕らわれ、これが敵の間者と知れたとき、老夫婦はひどく驚き、良心の呵責に耐えかね「三浦のお殿様に申し訳ないことをした」と、愚かな己を嘆き悲しみ、その罪の償いに心中してしまったと伝えられています。
のちになってこの老夫婦の非業の最期を知った里人は至極不憫に思い、霊を慰めるため茶店の跡に「夫婦地蔵」を祀り、ねんごろに供養したといいます。
「②義士塚」を目指し、地図アプリ見ながら進んで行くと…キャベツ畑だよ。
その先にモッコリした丘があるね。
この高山と呼ばれる高台には「新井城」を眼前に見下ろす北条方の軍勢が陣を張っていました。(さっきのキャベツ畑の写真見ると高台なのがよく分かるでしょ)
対する新井城では、食糧は尽き、矢は折れ、兵士の士気は下がる一方で、もはや戦どころの話ではなくなりつつありました。
「もはやこれまで」そう覚悟を決め、新井城から敵陣に切り込んだ1人の男がいました…その名は「三浦(荒次郎)義意」。
「三浦義同」の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸(今にして2m27cm…って、アンドレ並やん)八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりでした。
その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない…北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかありません。
ですが、その中でも豪勇の誉れ高い若武者4人が先陣を切り荒次郎義意に立ち向かって行きました。
しかし北条の中でも豪勇で知られた4人ですら倒され、荒次郎義意の刃はこの4人に向けられます…すっかり覚悟を決めた4人でしたが「その武者ぶり、まことに天晴れなり。今ここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しみ、許したと言われています。
この時、この4人はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったのでしたが…それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き斬って自害します。
「三浦義同」率いる三浦一族はそろって切り合い、城の崖下の湾に身を投げ…入り江の海水は血と油で真っ赤に染まり「油壺」の名の由来となる程でした。
4人の武者は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と道寸父子の後を追い自刃してしまいました。
この哀話を聞いた村人達は、4人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者4人をねんごろに弔ったと言われています…って、塚は1つしか無さそうだね。
それから「なもた坂」に着きました…三浦一族の最後の砦となった新井城は三方を海に囲まれ、つながる陸地ですら堀や柵で幾重にも囲まれ、敵を寄せ付けない名城でした。
さすがの「北条早雲」も攻めあぐね、城を取り囲んで食糧を絶つ「兵糧攻め」に取り掛かると、さすがの新井城もこれには敵わず…3年間立て籠もったものの武士たちの食べる物はおろか、矢や衣服、暖を取る燃料など全てに事欠くようになっていきました。
それでも三浦の血を絶やしてはならぬとの思いから、命からがら脱出した義同(道寸)の妻はわずかばかりの従者を連れ、身重な体を引きずりながら戦火の中をぬうようにして逃げ惑いました。
ある時、現在の「真光院」という寺の脇に急な下り坂を見つけ、この坂の下にある沢水を求めて転がるようにして下って行きました。
この坂を下りた奥深い渓谷には水が流れ、やっと水を得た義同の妻でしたが、それまでの無理がたたり、あろう事かその場で死産してしまいました。
妻は大いに悲しみ、川のたもとに我が子を埋めてねんごろに葬ると、若き生涯をこの淋しげな小川で自害して果ててしまいました。
後世になり、もし妊婦がこの小川の脇を通れば必ず同じお産の苦しみを味わい、また産後に亡くなった女性はあの世でも同じ苦しみに遭うという俗説が広まる事となりました。
「なもた坂」からスグ近くにある「③真光院」です。
永正年間(1501~21)に三浦義同父子の信仰を受け、一族の隆盛を祈願した三浦氏ゆかりのお寺です。
本堂脇の観音堂には聖観音立像があり…コレは幕末に浦賀奉行所与力「中島三郎助」が函館五稜郭に向かう折り、部下の「佐々倉松太郎」に頼んで御浜御殿からココに移したものといわれています。
コレは小網代湾です。
ココは「シーボニアマリーナ」です。
ココの海はキレイだよ~
この住宅はプライベートビーチに下りれるのね…って、岩場じゃんか。
コレは「シーボニア クラブハウス レストラン」です。
俺が好きな「鈴木英人」の作品みたいな景色だね。
サザエ、アワビ、ナマコが生きてるの売ってるみたいよ。
11:05「京急油壺マリンパーク」に着きました。
マリンパーク右脇の駐車場奥に…
「三浦(荒次郎)義意」の供養塔があります。
戻って近くの小道を下って行くと…
小さな岬に…
「三浦(道寸)義同」の供養塔があります…弟「三浦道香」の墓は先週、逗子市でハントしたね。
「三浦義同」は平安時代から続いた相模三浦氏の事実上最後の当主で、娘婿は太田道灌の子「太田資康」で、資康も義同の援軍として北条軍と戦い、討死しています。
この義同は扇谷上杉家から実父「上杉高救」が新井城主「三浦時高」の養子に入りますが、時高に子(高教)ができたため不和になり、三浦氏は両派に分裂してしまいます。
明応3年(1494年)義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職を手に入れましたが…結局は三浦氏は鎌倉時代の「宝治合戦」と同じく北条氏によって滅ぼされることとなりました。
その近くにあった小さな墓は誰の?
ココにありました。
さらに下ると砂浜に出ます。
この辺りはホント水がキレイだよ。
この先も行こうと思えば行けるみたいだけど…
俺の脚には悪いので戻ります…
チラホラ釣りをしてる人がいたけど…このキレイな海ならイイ魚釣れそうな気がしちゃうな。
またマリンパーク前に戻り、ハイキングコースに入ってみると…「東京大学地震研究所 油壺地殻変動観測所」がありました。
「油壺湾」の石碑です。
この湾が三浦一族の血と油で真っ赤に染まり、「油壺」の名の由来となったのです。
さらに先に行くと崖に「千駄やぐら」があり…3年間に及ぶ籠城に耐えられたのは、そこに蓄えられた兵糧等によるお蔭だといわれています。(行かずに引き返しました)
これも土塁や曲輪の跡なのかなぁ?この内側が新井城址なんだけど「東京大学地震研究所」の敷地なんで入れません。
その後も歩き続け…
ココは諸磯湾の「油壺京急マリーナ」です。
諸磯の先端の方まで来ちゃいました。
ココは「諸磯神明社」です。(番号付け忘れちゃった)
コッチの鳥居の先は、もう海だよ。
ココの龍も角の無いサザエ持ってるね。
拝殿の左脇には…
「小桜神社(若宮神社)」がありますが…化粧品が納められているんだよ。
この神社には「北条早雲」に滅ぼされ、その悲しみのうち亡くなった「三浦(荒次郎)義意」の妻「小桜姫」が祀られています。
拝殿の右脇の石碑など。
コレ何だろ? 蔵?
チョット寄り道したんで戻って歩き続けると「海の学校」なんてありました。
ココは「ベイサイド三浦浄苑」です。
先に見えるのは「海の学校」だね。
「ベイサイド三浦浄苑」から見える景色です。
地層がよく分かるよね。
「スランプ構造」という貴重な地層みたいだよ。
ちょっと掲載したルート通りじゃないけど歩き続け…ココは「浄称寺」です。
三崎の「海南神社」境内に入りました…「大神宮」だって。
コレは「包丁塚」です。
この鳥居から上がって行くと「大神宮」や「包丁塚」があります。
この上には「金毘羅宮」があるのかな。
コレは「拝殿」です。
清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された「藤原資盈」が貞観6年(864年)任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴されました。
その後、資盈は房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀りました。
天元5年(982年)になると現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となりました。
「源頼朝」手植えの大銀杏は御神木で、パワースポットらしいよ。
左が雌で右が雄だったかな?
コレは「神楽殿」です。
毎年1月15日には重要無形民俗文化財の「チャッキラコ」が行われているんだよ。
来年(2017年)は日曜に当たるんで観に行けるかもな。
近くにあった名も無き?社。
13:10ごろ、とうとう「⑤三崎港」に着いちゃった…
コレは「三崎館本店」です…この近辺でゆっくりできるのは約40~50分なんで、何も見ず次へ行きました。
ココは「北条」っていうんだね…三浦氏を滅ぼした「北条」の名が付いてるのには何か意味があるのかな?
「城ヶ島大橋」に来ちゃった。
この橋を渡ると「⑥城ヶ島」だよ。
まさか歩きで渡ることになるとは…
橋の途中から観た景色です。
次はこの近くからバスに乗るんだけど、あと20分くらいしか無いんで…橋の途中から引き返しました。
バス停「城ヶ島大橋」から南下浦方面三浦海岸に行くバスに乗るんだけど…1時間に1本しか来ないんだよ。
バス停「岩浦」で降りたんだけど…この路線、1区間毎に料金上がる感じでさぁ、¥360掛かったよ。
バスを降りると目の前に小さな丘があり、石段に道標がありました。
上がって行くと…
コレが「⑦三浦義村」の墓です。
「三浦義村」は鎌倉時代初期の相模国の武将で、治承4年(1180年)「源頼朝」の挙兵に当たり、父「三浦義澄」とともに参加していたものとされています。(延応元年12月5日(1239年12月31日)死去)
祖父は「三浦義明」で1180年の頼朝の挙兵に合流しようと居城の「衣笠城」を出撃するものの、途中で「石橋山の戦い」における頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城します。
ほどなくして敵方に参加していた「畠山重忠」率いる軍勢と衣笠城合戦となり、一族郎党を率いて奮戦しますが最終的には刀折れ矢尽き、子「三浦義澄」以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死しました。
奥には小さな神社がありました。
崖にあるのも小さいけど「やぐら」なのかな?
下に降りて近くの三浦氏の菩提寺「福寿寺」に行きました。
コレが「本殿」かな。
「植村直己」さんの碑なの?
参道の庚申塔です。
近くにあった民家だけど…昔の農家の造りそのままだね。
三浦市のマンホールだよ。
さっき乗って来た三浦海岸駅行のバスはココからだと別のバスも通るんで、この時間には1時間に2本あるんで助かるんだわ。
だって1時間に1本だったら、そんなにココで時間ツブせないもんよ…
まだ15分くらいあるんで漁港(金田湾)を見てたけど…
別に何も面白いモンも無いからさ…
以前はこの辺りまで海だったのかな? 動物は何が出て来るんだろ?
俺が持ってるガイド(市が出版)によれば古い「三浦義村」の墓(五輪塔)があるみたいだったんで、もう一度上がってみると…
案内板の裏側にあったよ…盲点だったな。
そしてバスに乗り、京急「三浦海岸」駅に戻って来ました…人も大勢来てるね。
明日は「第34回 2016三浦国際市民マラソン」が開催されるんで、もっと人が来るかもよ…ホノルルマラソンと国内唯一の姉妹提携レースなんだってさ。
俺はまた歩きすぎて脚痛いわ…でもジッとしていられないのよね~
今日はブラ~っと三浦市に行って来ました。
目的地は「新井城址」で、その周辺を肉付けしてプランを立ててて…行くのは別に今日じゃなくても良かったんだけど、京急の中吊り広告で「第14回 三浦海岸桜まつり」ってのが13日まで開催されてるの知ってさ、それで今日決行したというワケ。
コレが今日のルートだよ。(レッドライン=京急線、ブルーライン=京急バス、グリーンライン=徒歩)
家を8:20に出て、8:34「横須賀中央」駅発の列車に乗って、8:53「三浦海岸」駅で降りました。
「三浦海岸桜まつり」は2月13日から開催されています。
駅名標?も「桜まつり」仕様のピンクになってるね。
駅前の「河津桜」もチョット葉が目立ってきてるな…知るの遅かったかなぁ?
まだ開店前のテントが多いけど…特産でも売るのかな?
「三浦大根」太いね~
駅チカには馬頭観音とか福徳円満夫婦延命地蔵尊がありました。
これから「①小松ヶ池」まで約1Km歩きます。
駅から300mくらい歩いた辺りから「河津桜」が見えてきました。
「河津桜」のピンクと「菜の花」のイエローが春っぽくてイイね。
「河津桜」は早咲きで知られ、花の色が「ソメイヨシノ」よりも桃色が濃く、花期が1ヶ月間と長いのが特長なんだって。
ちょうど京急来たね。
小松ヶ池公園に着きました。
「小松ヶ池」に行ってみます。
あぶない「かめ」がいます…って、カミツキガメでもいるの?
この鳥は周りにいた人が「鵜」って言ってたよ…「カワセミ」もいるんだってさ。
俺、今回この周辺を調べてて思い出したんだ…ココに来たかは覚えていないけど、小学5年の臨海学校が三浦方面で「小松ヶ池」の伝説?を聞いたことがあったよ。
むかし、この池のあたりがまだ、いくつかの小さな田に分かれていた頃、お松という働き者の嫁が一人、田植えに励んでいました。
お松は、意地悪な姑に一人ではとても無理なほどの田植えを言いつけられたのです。
すでに太陽は西山にかくれようとしているのに田植えが終わらず、困り果てたお松は天を仰いで「あと半刻あれば田植えを終わるものを」と嘆き悲しみました。
すると不思議なことに、西山に沈もうとした太陽がにわかに数尺も高く東ヘ戻り、おかげでお松は無事に田植えを終えることができました。
しかしその時、あたり一面は深い沼田と変わり、お松は水に呑まれてしまいました。
それからというもの、雨の多い年が続いてやがてこの一帯はごらんのような大沼になったといわれています。
もう35年近くも前だもんな…臨海学校どこの海だったっけなぁ?
小松ヶ池は古来より当組合専用にかかる農業用灌漑池にして、組合員等が共同して堤塘、水門、水路等水利施設の設置維持管理改修に当たり、かつ配水の統制、管理を行い現在に至りました。
小松ヶ池は面積約1.5haあり、野鳥、昆虫、植物などの自然生態を観察することができる公園として整備されています。
また元の道に戻り…三崎口駅まで800mくらい?歩きます。
三浦海岸の河津桜の数は1,000本で、本場、河津川(静岡県)川沿いの800本よりも多いんだぞ~
河津桜と同じピンクの家だね。
この先は「三崎口」駅があるんだけど…この高架を京急が走ってるんだよ。
9:50ごろ「三崎口」駅に着きました。
次はバスに乗るんだけど…俺、10時台しか調べてなかったわ。
だけど「油壺」方面は本数あるんだね…9:53発のバスに乗って「三崎警察署前」で降りました。
左側の二尊づつ並んで立つ地蔵は「夫婦地蔵」と呼ばれています。
「三浦(道寸)義同」と「北条早雲」との合戦の折、引橋の近くに老夫婦の出す茶店がありました。
三浦と北条が戦乱に明け暮れて行くころ、北条氏の間者が行きずりの百姓に化けてこの茶店に立ち寄り、いろいろ話すうちに三浦方の様子を聞くので、人の良い老夫婦は笑顔をほころばせながら、自慢げに新井城のことをすっかり話してしまいました。
その後、この百姓に化けた間者は三浦方の追っ手に捕らわれ、これが敵の間者と知れたとき、老夫婦はひどく驚き、良心の呵責に耐えかね「三浦のお殿様に申し訳ないことをした」と、愚かな己を嘆き悲しみ、その罪の償いに心中してしまったと伝えられています。
のちになってこの老夫婦の非業の最期を知った里人は至極不憫に思い、霊を慰めるため茶店の跡に「夫婦地蔵」を祀り、ねんごろに供養したといいます。
「②義士塚」を目指し、地図アプリ見ながら進んで行くと…キャベツ畑だよ。
その先にモッコリした丘があるね。
この高山と呼ばれる高台には「新井城」を眼前に見下ろす北条方の軍勢が陣を張っていました。(さっきのキャベツ畑の写真見ると高台なのがよく分かるでしょ)
対する新井城では、食糧は尽き、矢は折れ、兵士の士気は下がる一方で、もはや戦どころの話ではなくなりつつありました。
「もはやこれまで」そう覚悟を決め、新井城から敵陣に切り込んだ1人の男がいました…その名は「三浦(荒次郎)義意」。
「三浦義同」の子にして、弱冠ながら身の丈は七尺五寸(今にして2m27cm…って、アンドレ並やん)八十五人力と評されるほどの勇猛果敢ぶりでした。
その男が新井城を飛び出すや、また2メートルを越える金棒を振り回して縦横無尽に切り進むからたまらない…北条方の軍勢はそのあまりのすさまじさに、ただ見ているしかありません。
ですが、その中でも豪勇の誉れ高い若武者4人が先陣を切り荒次郎義意に立ち向かって行きました。
しかし北条の中でも豪勇で知られた4人ですら倒され、荒次郎義意の刃はこの4人に向けられます…すっかり覚悟を決めた4人でしたが「その武者ぶり、まことに天晴れなり。今ここで討ち取るのはたやすいが、これほどの人物なら必ず世の為に役立つであろう」と、その勇敢を惜しみ、許したと言われています。
この時、この4人はいつかこの恩に報いようと固く心に誓ったのでしたが…それから程なくして、追い詰められた荒次郎義意は自らの首を掻き斬って自害します。
「三浦義同」率いる三浦一族はそろって切り合い、城の崖下の湾に身を投げ…入り江の海水は血と油で真っ赤に染まり「油壺」の名の由来となる程でした。
4人の武者は荒次郎義意と道寸義同が死んだ事を知るや、その恩義に報いるときは今と道寸父子の後を追い自刃してしまいました。
この哀話を聞いた村人達は、4人が自刃した地に塚を2つ造り、この若武者4人をねんごろに弔ったと言われています…って、塚は1つしか無さそうだね。
それから「なもた坂」に着きました…三浦一族の最後の砦となった新井城は三方を海に囲まれ、つながる陸地ですら堀や柵で幾重にも囲まれ、敵を寄せ付けない名城でした。
さすがの「北条早雲」も攻めあぐね、城を取り囲んで食糧を絶つ「兵糧攻め」に取り掛かると、さすがの新井城もこれには敵わず…3年間立て籠もったものの武士たちの食べる物はおろか、矢や衣服、暖を取る燃料など全てに事欠くようになっていきました。
それでも三浦の血を絶やしてはならぬとの思いから、命からがら脱出した義同(道寸)の妻はわずかばかりの従者を連れ、身重な体を引きずりながら戦火の中をぬうようにして逃げ惑いました。
ある時、現在の「真光院」という寺の脇に急な下り坂を見つけ、この坂の下にある沢水を求めて転がるようにして下って行きました。
この坂を下りた奥深い渓谷には水が流れ、やっと水を得た義同の妻でしたが、それまでの無理がたたり、あろう事かその場で死産してしまいました。
妻は大いに悲しみ、川のたもとに我が子を埋めてねんごろに葬ると、若き生涯をこの淋しげな小川で自害して果ててしまいました。
後世になり、もし妊婦がこの小川の脇を通れば必ず同じお産の苦しみを味わい、また産後に亡くなった女性はあの世でも同じ苦しみに遭うという俗説が広まる事となりました。
「なもた坂」からスグ近くにある「③真光院」です。
永正年間(1501~21)に三浦義同父子の信仰を受け、一族の隆盛を祈願した三浦氏ゆかりのお寺です。
本堂脇の観音堂には聖観音立像があり…コレは幕末に浦賀奉行所与力「中島三郎助」が函館五稜郭に向かう折り、部下の「佐々倉松太郎」に頼んで御浜御殿からココに移したものといわれています。
コレは小網代湾です。
ココは「シーボニアマリーナ」です。
ココの海はキレイだよ~
この住宅はプライベートビーチに下りれるのね…って、岩場じゃんか。
コレは「シーボニア クラブハウス レストラン」です。
俺が好きな「鈴木英人」の作品みたいな景色だね。
サザエ、アワビ、ナマコが生きてるの売ってるみたいよ。
11:05「京急油壺マリンパーク」に着きました。
マリンパーク右脇の駐車場奥に…
「三浦(荒次郎)義意」の供養塔があります。
戻って近くの小道を下って行くと…
小さな岬に…
「三浦(道寸)義同」の供養塔があります…弟「三浦道香」の墓は先週、逗子市でハントしたね。
「三浦義同」は平安時代から続いた相模三浦氏の事実上最後の当主で、娘婿は太田道灌の子「太田資康」で、資康も義同の援軍として北条軍と戦い、討死しています。
この義同は扇谷上杉家から実父「上杉高救」が新井城主「三浦時高」の養子に入りますが、時高に子(高教)ができたため不和になり、三浦氏は両派に分裂してしまいます。
明応3年(1494年)義同は大森氏の支援を受けて新井城を攻めて時高および高教を滅ぼし、三浦家当主の座と相模守護代職を手に入れましたが…結局は三浦氏は鎌倉時代の「宝治合戦」と同じく北条氏によって滅ぼされることとなりました。
その近くにあった小さな墓は誰の?
ココにありました。
さらに下ると砂浜に出ます。
この辺りはホント水がキレイだよ。
この先も行こうと思えば行けるみたいだけど…
俺の脚には悪いので戻ります…
チラホラ釣りをしてる人がいたけど…このキレイな海ならイイ魚釣れそうな気がしちゃうな。
またマリンパーク前に戻り、ハイキングコースに入ってみると…「東京大学地震研究所 油壺地殻変動観測所」がありました。
「油壺湾」の石碑です。
この湾が三浦一族の血と油で真っ赤に染まり、「油壺」の名の由来となったのです。
さらに先に行くと崖に「千駄やぐら」があり…3年間に及ぶ籠城に耐えられたのは、そこに蓄えられた兵糧等によるお蔭だといわれています。(行かずに引き返しました)
これも土塁や曲輪の跡なのかなぁ?この内側が新井城址なんだけど「東京大学地震研究所」の敷地なんで入れません。
その後も歩き続け…
ココは諸磯湾の「油壺京急マリーナ」です。
諸磯の先端の方まで来ちゃいました。
ココは「諸磯神明社」です。(番号付け忘れちゃった)
コッチの鳥居の先は、もう海だよ。
ココの龍も角の無いサザエ持ってるね。
拝殿の左脇には…
「小桜神社(若宮神社)」がありますが…化粧品が納められているんだよ。
この神社には「北条早雲」に滅ぼされ、その悲しみのうち亡くなった「三浦(荒次郎)義意」の妻「小桜姫」が祀られています。
拝殿の右脇の石碑など。
コレ何だろ? 蔵?
チョット寄り道したんで戻って歩き続けると「海の学校」なんてありました。
ココは「ベイサイド三浦浄苑」です。
先に見えるのは「海の学校」だね。
「ベイサイド三浦浄苑」から見える景色です。
地層がよく分かるよね。
「スランプ構造」という貴重な地層みたいだよ。
ちょっと掲載したルート通りじゃないけど歩き続け…ココは「浄称寺」です。
三崎の「海南神社」境内に入りました…「大神宮」だって。
コレは「包丁塚」です。
この鳥居から上がって行くと「大神宮」や「包丁塚」があります。
この上には「金毘羅宮」があるのかな。
コレは「拝殿」です。
清和天皇の治世、皇位継承争いに絡んで讒訴を蒙り左遷された「藤原資盈」が貞観6年(864年)任地の筑紫国へ赴く途中で暴風によって三浦半島に漂着、当地の長に推戴されました。
その後、資盈は房総の海賊を平定し、また福祉に努めたため地元民から崇敬され、貞観8年(866年)に資盈が没すると、地元民は祠を建てて祀りました。
天元5年(982年)になると現在の地に社殿が建立され、三浦郡の総社となりました。
「源頼朝」手植えの大銀杏は御神木で、パワースポットらしいよ。
左が雌で右が雄だったかな?
コレは「神楽殿」です。
毎年1月15日には重要無形民俗文化財の「チャッキラコ」が行われているんだよ。
来年(2017年)は日曜に当たるんで観に行けるかもな。
近くにあった名も無き?社。
13:10ごろ、とうとう「⑤三崎港」に着いちゃった…
コレは「三崎館本店」です…この近辺でゆっくりできるのは約40~50分なんで、何も見ず次へ行きました。
ココは「北条」っていうんだね…三浦氏を滅ぼした「北条」の名が付いてるのには何か意味があるのかな?
「城ヶ島大橋」に来ちゃった。
この橋を渡ると「⑥城ヶ島」だよ。
まさか歩きで渡ることになるとは…
橋の途中から観た景色です。
次はこの近くからバスに乗るんだけど、あと20分くらいしか無いんで…橋の途中から引き返しました。
バス停「城ヶ島大橋」から南下浦方面三浦海岸に行くバスに乗るんだけど…1時間に1本しか来ないんだよ。
バス停「岩浦」で降りたんだけど…この路線、1区間毎に料金上がる感じでさぁ、¥360掛かったよ。
バスを降りると目の前に小さな丘があり、石段に道標がありました。
上がって行くと…
コレが「⑦三浦義村」の墓です。
「三浦義村」は鎌倉時代初期の相模国の武将で、治承4年(1180年)「源頼朝」の挙兵に当たり、父「三浦義澄」とともに参加していたものとされています。(延応元年12月5日(1239年12月31日)死去)
祖父は「三浦義明」で1180年の頼朝の挙兵に合流しようと居城の「衣笠城」を出撃するものの、途中で「石橋山の戦い」における頼朝の敗戦を聞き、引き返して篭城します。
ほどなくして敵方に参加していた「畠山重忠」率いる軍勢と衣笠城合戦となり、一族郎党を率いて奮戦しますが最終的には刀折れ矢尽き、子「三浦義澄」以下一族を安房に逃した後、独り城を守って戦死しました。
奥には小さな神社がありました。
崖にあるのも小さいけど「やぐら」なのかな?
下に降りて近くの三浦氏の菩提寺「福寿寺」に行きました。
コレが「本殿」かな。
「植村直己」さんの碑なの?
参道の庚申塔です。
近くにあった民家だけど…昔の農家の造りそのままだね。
三浦市のマンホールだよ。
さっき乗って来た三浦海岸駅行のバスはココからだと別のバスも通るんで、この時間には1時間に2本あるんで助かるんだわ。
だって1時間に1本だったら、そんなにココで時間ツブせないもんよ…
まだ15分くらいあるんで漁港(金田湾)を見てたけど…
別に何も面白いモンも無いからさ…
以前はこの辺りまで海だったのかな? 動物は何が出て来るんだろ?
俺が持ってるガイド(市が出版)によれば古い「三浦義村」の墓(五輪塔)があるみたいだったんで、もう一度上がってみると…
案内板の裏側にあったよ…盲点だったな。
そしてバスに乗り、京急「三浦海岸」駅に戻って来ました…人も大勢来てるね。
明日は「第34回 2016三浦国際市民マラソン」が開催されるんで、もっと人が来るかもよ…ホノルルマラソンと国内唯一の姉妹提携レースなんだってさ。
俺はまた歩きすぎて脚痛いわ…でもジッとしていられないのよね~
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