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山東省「三国史跡」プチ旅行~①聊城市東阿県『曹植墓』編

2007年10月13日 | 中国史跡めぐり(三国志・封神榜・史記)
10月13日(土)2/2
さて、9:40「平原汽車站」に着いた訳ですが、このショボい『平原』から、どこ行きの「バス」が出ているんだろうか?
俺としては地理的に次は「聊城市轄区」に出て『山陝会館』を見てから、「聊城市東阿県」の『曹植墓』に行こうと思っていました。
ここ『平原』からじゃ、まず直接「聊城市東阿県」に行くのは無理だろうし、それどころか「聊城市轄区」にすら出れるか分からない…
とりあえず時刻表で、どこに行けるのか確認してみるも…「聊城」へは1日1本で朝6時発のみ…。
あとは近郊の町と、この『平原』が属している「徳州」、「山東省」の省都である「済南」に出ている「バス」があるくらいでした…
そうなると、ちょっと遠回りになりますが一度「済南」に出て、そこから「聊城市」の『山陝会館』と『曹植墓』に行くことにしました。

10:05「バス」は出発し、12:20「済南長途汽車総站」に着きました。

でも名前は同じでも、いつも使う「済南長途汽車総站」と違う建物(隣なんだけどさ)なので、いつも使う方(写真)へ行きました。
「済南」からなら「聊城」行きも「東阿」行きも出ています。
時間の問題もあるので、まず「東阿」から行き、その後「聊城」に出ることにしました。
やっぱ「東阿」は県ですからね…先にここから片付けてしまった方が、その後「聊城(市轄区)」に出て「ホテル」が探しやすいと思ったのでね。
「市轄区」とは日本で言えば市庁がある市の中心地ですからね。

13:05「バス」は出発し、15:35「東阿汽車站」に着きました。
途中では『黄河』を渡って来ました。
ホント、泥水河ですよ…

サイトの情報では、「東阿汽車站」前の橋を渡った所に「バス」が停まってる…って、これか。
車掌の「オバさん」に「何時に出発するの?」と聞くと「16時」と。
約20分待ちかぁ…「じゃあ、(終点まで)何分くらい掛かるの?」と聞くと「40分くらい」と言います。
え~っ…そんなに掛かるのかよ…『曹植墓』に着いたら17時近くて「閉館」時間が心配です。
秋・冬の季節は「閉館」時間が早まったりしますからね…。
「東阿汽車站」前で「タクシー」か「輪タク」でも拾って行こうかとも考えましたが、今日は『曹植墓』を見て、「聊城(市轄区)」まで出れりゃいいや…と「バス」で向かうことにしました。

16:00すぎ「バス」は出発しましたが、また「ガソリンスタンド」に寄ってからですよ…。
ホント、こいつら人民の脳みそ割って検査してやりたいくらい。
「客乗せる前にガソリンくらい入れておけ」っての。
こっちは時間が無えーんだよ 
16:45終点の「魚山」で下車しました。

そして徒歩5分、16:50『曹植墓』入口に到着。

入場券10元を買って中に入りました。

これが『曹植墓』です。
故郷「沛」でも、最後の封地「陳」でもなく、何故ここ『東阿』に墓があるのか?
兄『曹丕』に疎まれ、『東阿王』に封ぜられた際、『曹植』はよくここ「魚山」に登り、思い入れも強かったといいます。
結局『曹植』本人の遺言により、ここ「魚山」に葬られたらしいです。

『曹植子建(192-232)』は「魏」の武帝『曹操』の五男として生まれます。
「陳王」に封ぜられ、諡号は「思王」。
同母「兄」に「魏」の文帝『曹丕』、任城威王「曹彰」がいて、同母「弟」に蕭懐王「曹熊」がいます。
『曹植』は中国の代表する文学者としては、「唐」の「杜甫」以前において、詩聖の評価を受けた人物でもあります。

「隋」の「開皇13年(593年)に立てられた」と言う「曹子建墓碑(どっちだ?)」は歴史的価値が高く、「大清河(黄河)」に沈められていたのを「清」代に引き上げたと言われています。

「隋碑亭(右)」と物置らしい小屋(左)があります。
元々はこの「ボロ小屋」に碑が保管されていたらしいです。

これは「子建祠」です。

中の「曹子建墓紀念館」です。

『曹植』像がありました。
『曹植』は「異母兄」の「曹昂」と「曹鑠」が早世すると、197年頃に「卞氏」が正室に上げられ、『曹植』は『曹操』の「正嫡の三男」となります。
幼い頃より詩など数十万言をそらんじ、自身も詩人であった『曹操』の溺愛を受けます。
211年に「平原侯(食邑五千戸)」に封ぜられ、214年に「臨葘侯(同)」に転封されます。
『曹植』は人となりは奔放不羈、礼法に拘泥せず、華美を嫌い、酒をこよなく愛する、闊達さと傲慢さを併せ持った天才肌の貴公子でした。
詩人としての印象が強いですが、実際は「潼関の戦い」や「張魯征討」、「烏桓遠征」など数多くの戦役に従軍しており、兄たちと同じく戦場で青年時代を送っています。

このころより「詩・賦」の才能がさらに高まり、ますます『曹操』の寵愛は深くなります。
同時に、この頃から長兄『曹丕』との「後継争い」が勃発します。
むしろ、彼らよりもそれぞれの側近たちの権力闘争といった様相が強く、それだけに泥沼の政争を呈しましたが、217年正式に『曹丕』が太子に指名されて決着を見、以降は『曹植』と側近者たちは厳しく迫害を受けることになります。
220年に『曹操』が没すると側近が次々と誅殺され、221年には「安郷侯」に左遷転封、同年のうちに「鄄城侯」に再転封、223年にはさらに「雍丘王(食邑二千五百戸)」、以後「浚儀王」、再び「雍丘王」・『東阿王』・「陳王(食邑三千五百戸)」と、死ぬまで各地を転々とさせられました。
230年に母「卞氏」が没し、最大の「庇護者」を失います。
その後も鬱々とした日々を送り、232年11月28日、常に汲汲として歓びなく、遂に病を発して、その転がる蓬のような41年の生涯を閉じ、子の「曹志」が後を継ぎました。

裏の「魚山」に登ってる時間も無いし、次の移動も心配なので、17:00『曹植墓』を出ました。

またさっき「バス」を降りた所まで戻り「バス」を待ちます。
…が全然「バス」が来ません…てか、今度はここが「始発」なのに停まっていないなんて…
もう「バス」は終わってしまったのだろうか…
前回の旅の「関帝祖祠」の時のように誰か優しい人民が「汽車站」まで連れてってくれないかな…な~んて考えは甘い
でも「東阿汽車站」まで戻れないと、こんな所じゃ野宿になっちゃうよ…
最悪、通り掛かる「車」か「バイク」を止めて、「金を払うから東阿汽車站まで乗せて行ってくれないか?」と交渉しようと考えていたら、17:20「バス」が来ました。
当然こんな時間に上りに乗る人民はいないようで、「オマエ1人だけだと5元(行きは満席で3.5元)だぞ」と。
「車」か「バイク」を停めて交渉すれば、最低「20元」とみてたからね。
通常より「1.5元(約23円)」高いだけなんて「何てこと無い」ですよ。
17:55「東阿汽車站」に着きました。
あとは「聊城」行きの「バス」が、まだあるか…です。
最終かどうかは分かりませんでしたが、18:00発の「聊城」行きに乗れました。
そして18:45「聊城(市轄区)」に到着しました。

18:55「聊城汽車総站」と一体になっている「ホテル」にチェックインしました。

そして19:00「ホテル」近くの「美国加州牛肉面大王」で夕飯です。
…って、また「麺類」だね…
ここは「聊城(市轄区)」だから繁華街を探せば「日本食」くらいあったと思うけどさ。
そんな気力もありませんでした…

明日はここ「聊城」の『山陝会館』に行き、「済寧市汶上県」「泰安市轄区」に行く予定です。



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