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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

真珠の耳飾の少女(V)

2008-06-05 08:52:19 | 映画(さ)
評価点:76点/2001年/イギリス

監督:ピーター・ウェーバー

フィクションとノンフィクションを問わない完成度。

グリート(スカーレット・ヨハンソン)は、家の貧しさから芸術家の家へ奉公に出された。
その芸術家の名はフェルメール(コリン・ファース)。
子だくさんだった彼の家は、出資者となるパトロンのために絵を描くという生活をしていた。
芸術家とはいえ、生活は苦しく、妻の宝石を売りながらの生活だった。
アトリエに出入りすることを許されたグリートは、どこまでも美を求めるフェルメールの目にとまる。

同名の本を映画化したのが本作だ。
予備知識なしだと、これがフィクションであることに気づかないだろう。
それくらいの完成度である。
フェルメールについての知識がある法が楽しめるに違いない。
あるいは、少なくとも絵画に興味がある人にお勧めしたい。

だが、そのどちらにも興味がなくとも、この映画は高い完成度を誇る。
僕はフェルメールの絵を実際に見たことはない。
だが、この映画を見ると、彼の人となりに触れることが出来た、そんな錯覚を覚える。
すべての美に対して、あるいはすべての女性に対して、敬意を込めた作品だ。
是非見て欲しい。


▼以下はネタバレあり▼

映画の構造はこれまた非常にシンプルだ。
フェルメールの家に奉公する、ということからもわかるはずだ。
やはり往って還る型の往来の物語になっている。
それだけではなく、アトリエのウチとソトも、日常―非日常の境界となっている。

フェルメールの人となりがどのようなものだったのか、僕は知らない。
だが、この映画にはその人となりをうかがわせる説得力がある。

たとえば、フェルメールの家。
もちろん、セットとCGで描かれているのだろう。
だが、見事に再現されているその内部の詳細なまでのリアリティは、
見るものにフェルメールのその人の、生活を読み取らせるのだ。
どこかの絵にみたことがあるような、アトリエ。
当時の世相を暗に印象づける街並み。
それらのすべてが、この映画の基礎となり、フェルメールという
偉大な芸術家が存在していても不思議でないように感じさせるようにとられている。
実際、映画を見ていても、なぜか引き込まれる映像だ。
それは、「ウェストサイドストーリー」のようなスタイリッシュさとは無縁だが、
人をひきつける魅力にあふれた、パワフルな映像なのだ。

さて、本題に入ろう。
この映画のテーマ、主題はアトリエ内部にある。
スカーレット・ヨハンソンとの間にあるエロスと芸術である。
芸術、というと何か便利なことばであまり使いたくはない。
美と言い換えてもいい。
とにかく、フェルメール(ここでは実在の人物というよりは、
映画の中のフェルメールという意味合いが強い)がひかれる美を描いている。

それは言葉であらわすようなものではなく、そこに存在している美的な瞬間を、
発見できるかいなか、というようなものだ。
だから、妻と妻の母親は、その領域に立ち入ることができない。
愛している、愛していないということではない。
彼女たちには発見する目がないのだ。
妻は、私を愛していないの、と迫る。
だが、そういう次元の、愛や恋という一般的な尺度では測りきれない美という感性なのだ。
むしろ、そのようにフェルメールに迫ること自体が、
フェルメールからすると、自分の美的感覚について「理解してくれていない」ことを示している。
だから、フェルメール夫婦は延々と平行線のままなのだ。

別の言い方をすれば、彼女たちは、世俗の中で生きているということでもある。
妻が登場するシーンには執拗にお金を勘定している場面としてある。
これは、偶然ではないだろう。
妻はお金を勘定する人物として設定されている。
ある意味では近代的な、金という尺度の世界で生きている。
もちろん、だからといって、彼女がフェルメールにとって不要な人間というわけではない。
現に、彼女とフェルメールの間には多くの子供が生まれている。
これは愛しているということの何よりの証拠だ。
だが、その尺度は、繰り返すようだが、世俗的な価値観のもとの愛だ。
残念ながら、フェルメールの娘もその世俗的な価値観のもとでしか生きられなかった。
だから、終盤グリートへいたずらをしてしまう。
これも、父親の愛情を受けたいという世俗的な発想のいたずらだ。
彼女もおそらく、母親と同じように、フェルメールと同じ美的な世界に没頭することは一生ないのだろう。

それに比べて、グリートは超然的な美しさを伴っていた。
これは顔の造形の問題でも、肉体的な欲求としての美しさではない。
周りの空気を捻じ曲げてしまうという種類の、美なのだ。
終盤、グリートの絵を描くにあたって、唇をなめさせる、という指示を出す。
これなど、究極のエロスと美との融合である。
残念ながら、僕はそこまで卓越した経験を持ち合わせていないので、本当には理解できなかっただろう。
だが、その映像からあふれるエロスは、単に服を脱ぐだとか、セックスするだとかいうエロスとは
次元を異にしたエロスが結晶している。

それはスカーレット・ヨハンソンの魅力がなければきっとなりたたなかっただろう。
あとでネット調べると、私生活は結構お乱れになっているらしい。
僕は彼女の名前しか知らなかったが、彼女に惹かれる理由は十分に理解したつもりだ。

それにしても、この映画にこれだけの思い入れを込めた監督が一番すごい。
通常の感覚を持っていれば、こんなにエロい映画は撮れないですよ。

この映画は、緻密で完成度の高さをうかがわせる。
だが、この映画に関しては、そんなことはどうでもいいのかもしれない。
美しさのあまり、時間の経過を忘れる、そんな映画だ。
90分程度しかない映画なのに、なぜか長久の時間の流れを感じさせる。
それは、絵画という止まった空間の芸術を、
映画という時間の芸術に転換させたことの現れなのかもしれない。

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