secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

アイデンティティ(V)

2008-11-24 10:37:49 | 映画(あ)
評価点:37点/2002年/アメリカ

監督:ジェームス・マンゴールド

モーテルで起こる密室殺人は、壮絶な「サバイバル・ゲーム」だった!

ある大雨の日、親子三人で車を走らせていると、突然車がパンク、それを直そうと車外に出ていた妻アリスが、走ってきた車に轢かれてしまう。
その運転手はすぐさま乗ってきた車で、電話の使える場所を探すため、モーテルに飛び込む。
しかし、電話は不通。直接病院に行こうにも、道は雨で寸断されている。
結局朝まで様子を見ることになる。
そこに結婚したてのカップルや、連続殺人の囚人とその護衛にあたっている刑事も訪れ、モーテルで雨をやり過ごすことに。
やがて、交通事故を起こした車に乗っていた女優の首が、乾燥機の中から見つかる。
その中には、「10」というルーム・キーが入れられていた。。。

ミス・ディレクションのある密室型スリラー。
ミス・ディレクションとは、「シックス・センス」のように、ラストで読者の想像を裏切るような「ひっくり返し」を仕組む映画の事。
この映画の場合、「スクリーム」のような、密室型の殺人スリラーに、そのミスディレクションを取り入れた形になっている。

▼以下はネタはレあり▼

この映画の面白い点は、作品世界とミス・ディレクションとが、二重構造になっている点で、いわば二つの世界と、二つのひっくり返しをもっている点である。
ただ、それらが有効に作用しているかどうかは、別問題なのだが。。。

冒頭のもっていき方は、非常に上手い。
交通事故と、大雨という二つによって、見事に密室が形成される。
また、雨というシチュエーションが、密室により絶望的な恐怖感を生んでいる。
この雰囲気で何かが起こらないわけがない。
最高に危険な状況である。

この時点ではじまるのは、「スクリーム」のような「犯人探し」である。
おおよそこの展開では、連続殺人の囚人が犯人であるという単純な結論は導かれない。
そうこうしているうちに、その囚人も殺されてしまうのである。
このあたりは「お約束」で、その後墓地の話が出てきて、これも「お約束」。

しかし、ミス・ディレクションへの布石は張られている。
それは、唯一モーテル以外の場面を挿入していくこと。
ここでの話と、モーテルでの話を総合すると、観客には囚人が死刑囚で、その護送中にモーテルの事件が起こったと考えてしまう。
その点が既に、「誤解」であり観客に行間を読ませるという、ミスディレクションの手法の典型なのである。

あまりダラダラと展開を追っていても仕方がないので、早速一つ目のミス・ディレクションを考えよう。
このように、前半から中盤にかけて、映画はスプラッターものの趣で展開する。
しかし、モーテルに取り残された者の誕生日が全て同じであること、名前に全て都市名が付けられていることに気づいた運転手のエドは、不思議な感覚にとらわれる。

そこで明かされる事実とは、モーテルでの一連の事件は全てが死刑囚の頭の中で作り上げたものであり、その死刑囚マルコムの分裂した人格が、エドであり、女優であったのである。
つまり、俗な言い方をすれば、夢オチである。
全てはうそでしたよ~というミスディレクションだったのである。
そして、判事たちは殺人犯の人格を殺すように、マルカムに促す。
マルカムは再び意識の世界へと集中させ、モーテルで自分の殺人犯の人格を探しあてる。

この時点で、物語が非常につまらなくなってしまうのは、言うまでもない。
人格同士の戦いであったとしても、やはり夢オチなのである。
夢に付き合わされてしまった観客は、宙に浮いてしまう。
その時点で、誰がその人格であろうと、もう「どうでもいい」。
所詮は、ウソなのだ。
モーテルでの惨劇に、感情移入できないのである。
もっと現実世界を丁寧に示しておけばそういうこともなかったのだろう。
猟奇殺人の資料を冒頭のスタッフロールに見せるなんていう、姑息な暗示ではなく、マルコムの恐ろしさを示すような殺人現場をモロに見せるなど、現実で野放しにしてはいけないのだ、というような恐怖があれば、それも防げたかもしれない。

しかし、現実世界の描写があまりに少ないため、それまでモーテルの話に興奮していた自分がバカらしくなってしまうほど、大きなむなしさを感じてしまう。
興奮して、怖がっていたモーテルの話は、全てウソだった、というオチは、かなりつらいものがある。
その後さらに犯人探しにつき合わされるのは、苦痛以外のなにものでもない。

そして、囚人を護送していた刑事が実は犯人だったという結末によって、マルコムは死刑を免れる。
しかし、物語はまだ続いており、殺人犯の人格は、本当は少年だったという二度目のミスディレクションが用意されているのである。
この「ひっくり返し」にも、伏線がある。
少年の時代に、母親に捨てられたというマルコムの経験である。
マルコムは、この経験が耐えがたく、そのために殺人に走った。
よって、そのころの人格が殺人鬼というわけだ。

しかし、既に感情移入する相手を失った者にとっては、この結末に、なんら驚きの念を抱く事ができない。
判事が、すんなりと死刑執行とりやめを言い渡した時点で、これで終るわけがない、と思ってしまう。
また、相対化されてしまったあとのマルコムの精神世界での出来事に、隠された大きな謎があったとしても、「それがどうした」と思ってしまう。

そもそも、精神世界での出来事を、このようにミスディレクションを交えて展開させる事自体に違和感を覚える。
意図的に、犯人を隠すような誤解を招く精神世界とは、何なのだろう。
もはや、多重人格などというレベルではなく、
それを創作していた人格が存在していたのではないか。
少年を創り出したのは、マルコム自身ではないのか。
彼は本当に、複数の人格が同居していたのだろうか。
判事を納得させるために、そういう物語を創作したのではないのか。
そうでないと、なぜ言い切れるのか。
(日記の筆跡など、いくらでもどうにでもなるだろう。)
彼の精神世界で起こったことを、「我々は目撃しました」などといってしまう弁護士にも疑問が残る。

そもそも、多重人格であることを死刑執行一日前に証明するということも、おかしく思ってしまう。
このように、どんどん疑問が湧き出てくるのである。
その原因は、やはり現実世界の描き足りなさにある。
現実世界にしっかりとした設定がないため、どんどん疑問が生まれる。

ミス・ディレクションでさえない。
作り手と読み手とのだまし合い、読み合いにもなっていない。
夢オチならば、いくらでもできる。
整合性がないため、だまされたというカタルシスもない。
無駄にややこしい話にして、それに必死についていったのに、
あまりにオチが弱い。。。
中盤までの展開は見事だっただけに非常に残念だ。

(2004/7/19執筆)

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