コロイドの秘密

膠質は膠漆の如く、あれ!

あい補い止揚して、いく!

しんかがく 21

2012-06-01 09:29:38 | Tyndallナノ
直観と独創性

 メモと鉛筆は寝床の枕もとに置かれている。
しかも、それは常に一定の場所に置かれている。昔のさむらいは就寝中賊に襲われた時すぐに対応できるように、反射的に手がいく一定の所に刀を置いていたという話を聞いたことがあるが、私のもちょっとそれに似ているだろうか。
 私の経験からすると、一体メモをしないでも覚えているような思いつきに、大したものはないようである。
メモをしないとすぐに忘れてしまうような着想こそ貴重なのである。私の場合そうした着想は、夜中、多くは未明に浮かぶ傾向があって、それゆえ寝たなり頭のうしろに手を回してメモがすぐに手に届く場所にないと具合が悪いのである。
 家人が寝ているので起き出したり、電気をつけるわけにはいかない、というより、そんなことに手間取っていると直ちに着想は消し飛んでしまう。
そこでアイデアを書きとめるものも、式を書きとめるものも、すべて、闇の中でするのだが、その手並みは長年の訓練のおかげで我ながら堂に入ったものだと思っている。もちろん、早朝の散歩の時も欠かさず手帳をたずさえていく。

 振り返ってみると、過去の私の研究の大半は、こうした暗闇の中のメモランダムに着想の原点が記されていることが多かったようである。
着想というものは論理的思考から生まれることも、もちろんあるであろうが、私の場合は多くは直観によるものであった。直観はいつ働くかわかったものではない。そこでメモが必要になってくるわけである。
 着想は、ただポカンとして浮かんでくるものではない。頭の中にその土台がなければならない。学ぶこととは、とりもなおさずその土台をつくることである。その土台を準備して初めて着想が浮かぶのだが、それが独創的なものであるか否かの判断を下すのは論理的思考である。多くの場合、この論理的思考は、着想と同時にその独創性の有無を看破するように訓練されていないと、創造には結びつきにくいように思う。

 私はフロンテイア電子理論による芳香族炭化水素の反応の場所を説明した1952年の論文、化学反応の起こりやすさを軌道の対称性から論じた1964年の論文、1970年の化学反応路に関する論文、さらには反応路の理論と最初の論文とを結びつけた1981年の仕事の中で、学ぶことと、論理的に考えることと直観とを、おおむね以上のような図式で生かしたように思うのである。

 このように京大退官の前までに、曲がりなりにも研究の起承転結をつけることができた私は、学者としてまことに幸せな男である。学者冥利に尽きるというほかない。が、化学反応理論と取り組んできたこの過程で化学者として見逃しにはできない状況を数多く目にしてきた。
 それは、今や好奇心からだけ学問をする時代は過ぎたという学問観を私に植えつけずにはおかなかった。
創造も、また、しかりである。


かくして「独創性の彼方にあるもの」において、ノーベルの先見性に言及した上で、その裏話を披露する。

ノーベル賞の共同受賞者は、激烈な競争者であることが多いらしい。が、ロアルドと私とは、常に双方の仕事が相手の仕事を引っぱり上げるという協調関係を知らず知らずの間に保ってきた。私の研究室から二人の博士をホフマン教授の研究室に長い間派遣したことがあるのも、そんあ関係を示す一例であった。
両者の研究上の関係とホフマン教授の業績の要旨を紹介する意味もかねて、ここに受賞通知の一節を引用させていただく。



 『福井は実験化学の分野でその研究の糸口を見い出し、そこから始めている。
25年以上も昔、福井は最も緩やかに束縛された電子の軌道と最も受け入れやすい空軌道のある特性が分子の化学反応性に対して思いがけない大きな重要性をもっていることを示し、彼はこれらの軌道をフロンテイア軌道と名付けた。
 しかしながら、この初期のフロンテイア軌道理論は当初ほとんど注目されなかった。1960年代のなかごろ福井とホフマンはほとんど同時に、しかもそれぞれが独自に、これまで理解が困難であるとされていたある種の反応経路はフロンテイア軌道の対称性を考えることによって説明することができるということを発見した。
 この発見はただちに世界の各所で、理論においても実験においてもまれに見るほど集中的な研究活動を引き起こしたのである。
福井と他の共同研究者たちは、このフロンテイア軌道を分子の反応性を理解するための高度に強力な手段へと発展させた。ホフマンとその共同研究者たちはウッドワードとともに観察した結果を綿密にまとめあげ、これらの観察結果をまとめて、「化学反応における軌道対称性保存の理論」と名付けた。
 分子間、あるいは分子の部分間の軌道相互作用とその対称関係は、福井、ホフマン両理論の基本的概念である。』(山辺時雄博士訳・1982「化学」1月号より)


 私は賞状とメダルを手にして、今は亡き二人の先生の言葉を思い出していた。
化学に進もうなどと夢にも思っていなかった私を「数学が好きなら、私のところにきなさい」と、この道に導いていただいた恩師喜多源逸先生の「応用をやるなら、まず基礎を鍛えることだ」という40年あまり前の言葉。
 そして、いま一つは、19年前、私の仕事をストックホルムへの道に結びつけられた田中芳雄先生の言葉であった。
両先生の学者としての先見性が、賞状に書かれたノーベルの表現のデリカシーから思われたのである。


 やがて光が消されると、ルシア祭のハイライト「光の女王」の入場となったが、この後に受賞者を代表してスピーチを命じられたのには困った。代表者スピーチは受賞後に何度もさせられており、まさかあり得まいと思ってのぞんだ席だっただけに準備がなく、第一、もう目新しいことは何も話せるものがなかった。

 さて、どうしたものか。
マイクの前に立った私は、ふと思いついて、スピーチは手早く切り上げ、席にいる妻を呼び寄せ、妻と一緒に童謡の「赤とんぼ」を歌った。

 見渡すところここには日本人は私を含めて3人しかいない。
そこで希少価値を発揮するために」という前置きをつけて歌いだしたのだが、歌詞のほうはうろ覚えで、4番まであるそれをごちゃごちゃに混ぜて2番で切り上げた。歌詞を知らない妻は、勘を働かしてうまい具合に歌についてきた。
 歌い終えた後に沸き起こった割れんばかりの拍手は、むろん私たちのへたな歌に与えられたのではなく、「赤とんぼ」という曲に与えられたのである。
この歌のメロデイーには異国の人の心をとらえるエキゾチックな情感がこめられているようだ。
 学生たちは椅子の上に立って、一斉にスウェーデン語の返歌を合唱してくれた。妻はいだく感動させられた様子だった。


 余滴
 三木露風が文学に開眼したのは、正岡子規の俳句であった。
露風竹馬の友で、露風主宰の文学愛好会「白紫会」の一員でもあった石橋利之の語るところでは、露風たちのよく訪れた書店の店主で日本派の俳人であった梅林半子が、正岡子規のことをよく話してくれたそうで、その影響を受けて露風も子規を崇拝し、熱意をこめてその俳句について話していた由である。
 露風は新任教師松本南楼から句作の指導を受けたと言っている。そのころの作に

赤蜻蛉とまっているよ竿の先
欠伸する子狗の鼻や桃の散る
束髪にいばらを挿しけり夏姿


 「赤とんぼ」は、幼少期の追憶を歌った童謡であり、第1節にある“負われて”は、子守娘であった“姐や”に負われてであることが明らかである。しかし、この童謡の根底に流れている一脈の淋しさは、人一倍感じやすい露風が、6歳の時に母に別れて以来味わった孤独感であると思われる。
 なお、第四節には、露風が12歳のころに作った俳句「赤蜻蛉とまっているよ竿の先」がうたいこまれている。

 露風は、親友山田耕作に「小鳥の友」を贈った。
大正15年11月から昭和2年3月まで山田耕作は、夫人の母堂の住む神奈川県茅ヶ崎に居を移していたが、オーケストラ再編のために毎日東京まで通っていた。その汽車の中でポケットにしのばせていた童謡集を開いては作曲していた。
 「小鳥の友」の「赤とんぼ」を作曲したのもこのころであり、その余白には作曲がなされていて、そこにはJan.29.1927すなわち昭和2年1月29日と日付まで記入されている。


なか夫人談;
 露風は、経済には無頓着で家計は苦しかった。
結婚当初・定収入は7円、家賃6円。ぜいたくする。毎朝牛乳を飲み、新聞は2種類をとる。
 私は仕立物をして家計を補う。着物も売り尽くし、着たきりになった。
しかし、今去れば露風は干乾しになる。かわいそうになり心を入れ変えて、子どもをそだてていると思ってやりぬきました。

『三木露風』財団法人 霞城館


 




コメント (0) |  トラックバック (0) | 

しんかがく 20

2012-05-31 09:00:00 | Tyndallナノ
 昭和45年(1970)、私はちょっと面白い仕事をした。

 その年の1月、私は全米科学財団(NSF)の招きでアメリカに渡った。
目的は、全米の諸大学を歴訪して講演をして回ることも含まれていたが、主としてシカゴのイリノイ工科大学の大学院で集中講義を行うことに置かれていた。
 講義する科目は一学期の正課に含まれるもので、大学院生の単位になるということだったので、私は行く前に相当の準備をして、かなり意気込んでシカゴの土を踏んだのであった。

 イリノイ工科大学における私の講義は難しすぎるというクレームがついた。
学生たちとの団体交渉の結果、結局私のほうが折れて彼らの要求にそった内容に変更したが、張り切って行った私の気勢はいささかそがれた恰好であった。

 アパートは西に面しており、3部屋からなっていた。
結婚したから20年余りにして子供たちの世話から開放された妻は、この時初めて学者という職業の機微を観察した思いだった、と後に述懐するが、それは日本にいる時のように家事に追われることもなく、私もまた雑用がなく、部屋に二人きりでいることが多かったからであろう。
 私は講義を終えるとまっすぐにアパートに帰り、夕食までのひとときを、ソファーに腰かけて窓の外の風景を見ながら想念に没入するのが常だった。(初夏の頃にトルネードを見たのもアパートの8階の部屋の窓からであった)

風景といっても、見える限り地平線まで平坦なアメリカ大陸の沈みゆく太陽を眺めるのだが、その太陽が地平線に大きく赤く沈む瞬間、焔のように輝くのである。
 したがって、太陽と毎日にらめっこするようなかたちになる私を観察していた妻は、この時の様子がなぜか「仁王さんのように見えた」というのである。
                                                                         

 私の顔が仁王の顔を髣髴とさせていたとしたら、それは夕陽のせいであろうが、彼女の表現によれば、「夕陽をにらみながら何か脳漿をしぼり出しているような顔が、そう映った」という。  
 そして、育児と雑用の多かった日本では気づくことのなかった学者のそんな世界を垣間見て、妻は「ああ、私は学者なんて因果な職業を選ばなくてよかった」とつくづく思ったそうである。

 私は当時二つの論文に取り組んでいた。
一つは“ウッドワード・ホフマン則”で処理された多くの種類の反応が、やはり私の理論の言葉に翻訳して説明する論文である。
 これは新しく登場してきた多くの種類の反応が、やはり私の理論の守備範囲内に入ることを確かめ、その普遍妥当性を主張するためにぜひともしておかなければならない重要な仕事であった。
 これはアメリカ化学会の論文誌の一つ「化学研究解説」という雑誌に掲載した。

 そして、もう一つが、化学反応の道筋、すなわち化学反応路に関する小論文である。
この二つの論文のうちいずれがより頭を悩ませていたかというと、後者であった。
 
 私が家内の目に前述のように映ったとしたら、多分そのもやもやが容易に解決しなかったせいであろう。
問題が解けなかったのではない。問題は、いとも簡単に解けた。実はあまりにも簡単に解けたということが、その悩みと関係していたのである。それはこういうわけである。
 
 私たちが大学を卒業した後ぐらいによく使われていた基本的な教科書の一つに「速度過程の理論・Theory of Rate Processes」という本があった。
前に述べた李泰圭先生が師事されたユタ大学のアイリング教授の一派が書かれたものである。
 内容の大部分は化学反応の起こる速さ、化学反応速度を理論的に求める方法を述べたもので、どうしてこの仕事にノーベル賞が授与されなかったのかがしばしば口の端にのぼるくらい、それは立派な業績であった。
 これは化学反応の速度を“ポテンシャル曲面”というのを使って理論的に計算しようというところに、主題が置かれている。
“ポテンシャル曲面”とは、たとえでいうと、化学反応の起こり具合を一つの村から別の村に行くように見立てて、その二つの村の間に峠が存在すると仮定した概念である。
 そして、アイリング理論の基本的な骨子は、峠のてっぺんの状態と下の村の状態との両方から絶対反応速度を求めるものであった。
この純粋に理論的な手段で求められる反応速度は、絶対反応速度と呼ばれた。教授の絶対反応速度理論は、物理学者を含め、ドイツやアメリカの自然科学者たちによって、当時もその発展の方向について、鋭意研究されていた。

 ところが、ここに非常に不思議に思えることがあった。
化学反応論に取り組んできた私に、化学反応の道筋を定める必要を覚え、改めてポテンシャル曲面でそれを考えてみた。すると、化学反応の道の、いわば中心線のようなものがそれまで数学的に定義されていないことに気がついたのである。
 すなわち、いま一つの分子が化学反応を起こす様相を、一つの村から上がり、そこから別の村に下がっていく姿でとらえると、分子はあるいは振動し、あるい回転したりはして、ジグザグのコースをたどる。
 最初の村をAとすると、分子はAを出発してジグザグに進みながら、峠を越え、Bという生成物のほうにいくわけである。そのジグザグな道は、分子の最初の状態や運動の方向、スピードなどによっていろいろに変化する。しかし、それらのジグザグコースには、おのずから一つの中心線がなければならない。その中心線、つまり中心になる反応の道が定義されていないのであった。

 これを定義するのはそれほど難しいことではない。私は分子のそうした振動をすべて止めて、無限にゆるやかな速さで反応が進めばどういう道筋をたどるかということを計算した。
 専門用語でいうと「極限的な運動イントリンシック・モーション」という運動概念を使ったのであるが、そうすると反応路という曲線を構成する点のすべてが、簡単な微分方程式で求められるである。
 その計算を自動的に行える方法を私は論文で提出しようと思い立ったのであった。 が、それにしてもアイリング教授の本が出てから約30年もの間、どうして誰もこのことに気がつかなかったのか、不思議でならなかった。まさかそんなことがあるはずはないと思い、反応速度論関係の本や文献をあさってみたが、やっぱりその定義がなされていなかったのである。なせであろうか。

 長年にわたって論文を書いてきた私であるが、オリジナリテイはないが、載せる、といわれたのは、もちろん初めての経験であった。

 だが、この論文を雑誌に取り上げてくれたおかげで、その後さまざまな人の手によって当初は期待もしなかったような多方面に発展していった。
のみならず、私の化学反応理論の展開にも新たな一面を切り拓くのに役だったのである。詳述は避けるが、この化学反応の経路に関する理論によれば化学反応にともなう分子の形の変化が自動的に計算される。
 それに従来のフロンテイア軌道理論の計算を加えることによって化学反応がまさしく映画のように、視覚的に表現し得る可能性が生じたのである。

 それはともかく、この論文については、それ以前にどこかで同じようなことを発表しているのではないかという不安が、それから10年あまり経た今日でも多少残っている。
                                                                       

 参考事項
計算化学の世界・Web版資料 分子は振動するだけでなく、他の分子と衝突して化学反応を起こします。その正に反応が起こる瞬間(遷移状態)をアニメーション化することもできます。

コンピューターケミストリーシステム
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

しんかがく 19

2012-05-30 06:24:31 | Tyndallナノ
 この第一の論文は内外で一応注目されたようであるが、評判はさほどかんばしいものではなく、多くの人たちから反論を浴びなければならなかった。
軌道という概念は、それまでは主に分子の波動関数を記述するために用いられ、波動関数を通じて初めて分子の性質が説明されることが多かった。それが、化学反応という化学的経験事実と直接結びついたことは、確かに多くの化学者の耳目を集めたのであったが、さりとてすんなりと学界に受け入れられたわけではなかったのである。
 原因は私の経験不足から理論的理由づけがはっきしていなかったということもある。が、私は自分の直感的考え方に自信をもっていたため、それらの反論にいちいち対応するにはさしあたって避け、適用範囲の拡大によって成果を積み上げていき、何年かして、まとめて書こうと思っていた。こうして反論の反論は、数年後同じ雑誌に掲載された。

 不安がなかったわけではない。割愛


 Robert Sanderson Mullikenマリケンの“電荷移動”と私の“電子のにじみ出し”(専門用語では電子の「非局在化」という)とは、どのように違うのか。
“にじみ出し”というのは、分子と分子とが近づいて、電子が一方から他方へと互いに移り合うことで、その一方の“にじみ出し”が逆方向の“にじみ出し”にくらべてはるかに大きければ、全体として電荷の移動が起こるが、両方の“にじみ出し”がつり合えば、電荷の移動は起こらない。つまり、電荷の移動も“にじみ出し”の特別な場合である。
 ただ、電荷の移動が顕著に起こると、分子と分子とはくっつき合い、安定な「分子化合物」を作るのに対し、分子から分子へと相互の“にじみ出し”に関した電子および軌道は、新しい結合の生成と古い結合の切断に直接関与するのである。
 ちょうど、水素原子と水素原子とが結合して水素分子を作る場合に、電荷の移動はまったくないのと同じように、分子と分子との反応は、電荷の移動がなくてもこのようにして起こり得るのである。こうして私の理論は、マリケンの理論の影響を受けながらも、独自の発展の方向をたどることになった。

 独創的な仕事をするのには、常に何がしかの不安を背負っていかなければならないもののようである。その不安と闘い、克服していくのは、もとより自分一人に与えられた宿命であるが、その仕事なりに自信をもっていれば、いつかは日の目を見ることがあるものである。
 私の仕事はこの意味で、果報にめぐまれた。マリケン教授の仕事の発展と私の理論との関係、また、これから述べるホフマン教授と私の関係を思う時、私はしみじみそんな思いを深くするのである。


 Roald Hoffmannホフマン教授の学問人生は、もことに苛烈を極めたものであったと想像する。
教授は1937年、ポーランドで生まれたが、6歳にして土木技師だった父親をナチスの迫害で失った。1944年、学校の先生をしていた母親は、ポール・ホフマン氏と再婚した。教授は母親に手を引かれ、チェコスロバキア、オーストラリア、ドイツを経て、アメリカにたどり着いた。これが1949年、教授11歳の時である。それから、教授にとって6番目の言語である英語を憶え、英才教育で知られる高等学校に入り、そこを卒業したのが、1955年、ようやくアメリカの国籍がその年に与えられたのであった。
 ハイスクールを抜群の成績で卒業した教授は、コロンビア大学の医学進学過程に特待生として入ったが、この大学時代の苦労はひととおりのものではなかったようである。

 ロアルド(ホフマン)は、学費を捻出するために夏休みに国立標準局(NBS)やブルックヘブン国立研究所でアルバイトをした。研究の愉しみを覚えたのはそのようなアルバイトの中でだったというが、その頃より科学より、もっぱら芸術、文学に関心をもった。と後年述懐している。そのロアルドが、化学という学問に本当に興味をもったのは、1958年、21才でコロンビア大学の化学科を最高優等生Summa cum laudeという資格を得て卒業してからのことではないか、と私は想像する。

 大学を卒業した彼は、ハーバード大学で大学院の課程を修め、リプスコム教授などの指導を受け、4年後前に述べた論文で博士号を授与された。それから1965年にコーネル大学の準教授、1968年から正教授になるまで、ハーバード大学の研究員時代に、Robert Burns Woodwardウッドワード教授との劇的な共同研究がなされたのであった。その研究が後に私の研究と深く関わりをもってくるのである。

 一言でいえば、ウッドワード-ホフマン則は私の理論にくらべて非常にわかりやすく、世界中のすべての化学者にたちまち消化されたのである。と同時に、この法則と密接に関連する私の理論も、一躍有名になったわけであった。

 化学反応が空間の特別の方向に起こる性質、すなわち立体選択性に私の理論が応用できないかと示唆された人が、この論文の二年前(ウッドワード論文の三年前)の昭和37年(1962)、日本の学者の中におられた。
今は亡き田中芳雄先生である。

 私の学士院賞受賞の年、田中先生のお宅に先生をお訪ねしたことがある。その時先生は、ほぼ80歳のご高齢であった。その時のお姿は今でもありありと目に浮かんでくる。
先生はすでに私がそれまでに発表した論文に一つひとつ詳しく目を通されていた。先生が落ち着いた声でいわれた言葉に我が耳を疑った。
「福井さん、この理論はノーベル賞につながるかもしれませんね」こういわれたからである。
私は何と答えたか憶えていない。ただ先生のその時の真摯な表情が、時を経ても鮮明によみがえってくるのである。


 先生は、それのみならず、この時、
「福井さん、この理論は立体選択反応に使えませんかな」ともいわれた。
「ちょっと無理ではないかと思います」私はこう答えたが、実は、当時いろいろ理論上難しい問題が眼前にひかえていて、その状況からして、立体選択性への応用はまず困難だと判断していたのである。


 私は、この本の中でしばしば“科学的直観”という言葉を用いてきた。学問の創造にそれが密な関連性をもっているのではないかという信念を、くり返し述べてきた。
それは田中芳雄先生の老いてなお衰えない科学的直観の働きを、身近に経験したことが、その信念を増幅させる1つなのである。

 こう考えてみると、科学的直観は鋭い先見性にもつながってくるともいえるかもしれない。いずれにせよ、学ぶ中で読者はこのような先見性をもった意見に、一度や二度はめぐまれるに違いない。
 その時に聞く耳をもつともたないとでは、創造性に明らかな違いが生じてくると思うのである。 

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

しんかがく 18

2012-05-29 09:46:46 | Tyndallナノ
独創性の自信と不安

 およそ新しい着想というものは、一度思い浮かんでしまうと、実に他愛のないものに感じられるもののようである。
ファーブルの言葉ではないが、「すべてを解いてしまうまでは、まるで雲をつかむようだ」と感じていた炭化水素の化学反応の仕組みも、彼の染料分析アリザリンの抽出同様、「一度解いてしまったら、こんな問題ほど簡単なものはない」といった実感をともなっていた。

 私はナフタレンによって自分のモデルを実証した後、やはり石炭の中に含まれる炭化水素であるアントラセンとか、ピレンとか、ペリレンなどの反応の場所を計算していった。
そして、ナフタレンの時と同様、粗い計算であるが、私の予想が適中していることを知った。もはや自信はゆるがぬものとなていた。ただし、フェナントレンやクリセンという炭化水素になると、分子の形の規則性が減るため、計算が厄介となり、もはや計算尺などでは間に合わなくなった。
 そこで、今では見かけることが少なくなった手回し式の計算機を使うことにし、米沢貞次郎君(当時、大学院特別研究生。現・京都大学分子工学教授)に協力してもらい、一番エネルギーの高い軌道の電子の広がりを算出していった。こうして芳香族炭化水素の化学反応の起こる場所が一つひとつ確かめられるたびに、私たちはまた新たな喜びを覚えていった。

 このような種々の実験結果の収集や解釈には、同じ実験室に同居しておられた新宮春男教授に参加していただいた。
有機化学者であり電子説の権威だった新宮教授には、文献による実験結果が、計算結果との比較に採用すべき反応形式に属するかどうかといったことについて、有機化学者の立場から判断をいただいたのである。
 私たちは、化学反応の特別に関与するエネルギーの高い電子に、なるべく魅力的な名前をつけたいと、あれこれ議論したあげく、結局「フロンテイア電子」という名前を採用することに決めた。
 この名前は、新宮教授の提案になるものである。理論は「フロンテイア電子理論」と、さしあたって私たちの間では呼ぶことにした。
この「フロンテイア」は、アメリカのいわゆる「開拓者精神」、フロンテイア・スピリットの「フロンテイア」とは多少意味を異にするが、化学反応に取り組んだ当時の私たちの心意気を懸けているようにも思えて、今にして思えば、的確かつ新鮮な命名であったと我ながら感じるのである。

 こうして幾つかの炭化水素の反応の数値計算を仕上げて、外国の雑誌に投稿したが、昭和26年10月のことであった。
雑誌の名はアメリカ物理学会の化学物理学雑誌「ジャーナル・オブ・ケミカル・フィジックスJornal of Chemical Physics」で、先方の要望で多少手直しした後、掲載されることが決まったのは12月頃のことで、実際に掲載されたのは翌27年の4月号(722-725)であった。
芳香族炭化水素の反応性の分子軌道理論A Molecular Orbital Theory of Reactivity in Aromatic Hydrocarbonsという題である。

 この論文は、芳香族炭化水素の求電子置換反応(前述した“求電子試薬”が炭化水素の一つの水素と置き換わる反応)の方向性は、その一番エネルギーの高い軌道(最高被占軌道)の電子の広がり具合(電子密度)の大小で定まると仮定すれば、よく説明し得ることを指摘した最初のものである。

frontier orbital theoryフロンテイア軌道理論の発表とそれに対する反論
 フロンテイア軌道理論の最初の学会発表は昭和27年(1952)3月15日に日本化学会近畿支部3月常会(於大阪大学工学部)、福井、米澤、新宮の連名で「有機反応理論に関する分子軌道法的研究----芳香族炭化水素の反応性(第一報)、および電子反発性置換基を有する芳香族炭化水素に於ける配位効果(第二報)」の演題で米澤が発表した。
 学会には先生は出席せず、米澤と永田がでたが、米澤の発表のあと聴衆からとくに大きな反応はなく、また逆に反論もなかった。
当時この種の学会では理論の発表はほとんどなく、この発表も実験化学者中心の分析・有機・無機反応の入り混じった九つの研究報告のなかの二つとしてなされたので、つっこんだ討論がなされなかったのはむしろ当然とも考えられることであった。

 反響の大半はこの新しい理論に対する厳しい批判であり、積極的な支持はなかった。当時既存の理論として米国のG・W・ホエランドが局在化法(遷移状態論)を、英国のC・A・クールソンらが静的方法を提唱して広く流布していたので、これは当然であり、予想もしていたことであった。

 批判者のなかで、C・A・クールソンの弟子のH・H・グリーンウッドはとくに激しく執拗であった。彼の主張は反応の際に重要な働きをするのは最高被占軌道の電子、つまりフロンテイア電子ではなく、エネルギーの最も低い最低被占軌道の電子であるというものであった。

 何回かの批判と反論のやりとりのあと、彼はいずれ詳細な論文でこの問題を論ずるつもりだと述べたが、その後その論文はついにでなかった。こうしていくつかの批判に対して一つ一つきちんと反論したことによって、批判は次第に少なくなっていった。
 もう一つこの理論が学界で広く認められるようになったのは、1952年の第一報のあと、1954年に第二報がでて、この理論がより広い範囲の分子についてその正しさが証明されたことによる。 

 この論文から永田も共著者に加わったので、夕食後毎晩のように米澤宅に行き、二人で論文原稿の作成にあたった。
英語で論文を書くのにまだ不慣れの頃であり、一字一句を辞書にあたりながら文章をつくっていくため、論文作成は容易ではなかった。こうして英語に悩まされながら毎晩のように論文を作成した日のことも忘れられない思い出である。

 先生は永田に「フロンテイア軌道理論の発ガンへの適用」というテーマを与えた。⇒それから、10年後国立がんセンター研究所へと移ったあと、田頭勇作博士も東京に移って一緒に生物物理部(量子化学研究室、有機反応研究室)をつくりあげながら研究をともにした。

 フロンテイア電子分布と発がん性の関係を調べた結果、(ベンツビレン)分子内の二つの場所が発ガンと密接に関連するという結論を得、これらを主発ガン団と副発ガン団とよぶことにした。
 すなわち、分子が発がん性をもつためには、主発ガン団と副発ガン団の二つの場所をもち、しかもそれらの位置のフロンテイア電子分布がある値以上でなければならないという結論が得られた。⇒「芳香族炭化水素の電子構造と発癌性」⇒「radicalフリーラジカルと活性酸素の研究」(参考書「ヒトのガンはなぜ生じるか」「活性酸素の話」)
⇒ゴンベルクらの発見により、共有結合を切断して生じる不対電子を持つような反応性の高い分子種の存在が明らかになり、部分構造を示す用語からの類推もあり、この類の実在する分子種はフリーラジカル(遊離基、free radical)と命名された。

 その後、植物ホルモン、薬理作用、酵素反応など広く生物現象全般を対象に電子構造の視点から研究を進めた。(「ノーベル賞の周辺」)

 

コメント (0) |  トラックバック (0) | 

しんかがく 17

2012-05-28 10:54:16 | Tyndallナノ
 「軌道」という概念を、化学反応の実験結果に結びつけたいといったが、同じことは、後に共同受賞者ホフマン教授によっても、別の考え方からなされた。
これが二人の理論を他と区別する特徴といえる。いわば理論に成功をもたらした鍵ともいうべきものである。


Woodward-Hoffmann rulesその内容から軌道対称性保存則とも呼ばれる。
 ウッドワード・ホフマン則は「反応の前後において反応に関与する電子の所属する分子軌道の対称性は保存される」と主張する。これによって様々なペリ環状反応が起こりうるかどうか、またその立体特異性が説明される。
備考;フロンティア軌道理論(フロンティアきどうりろん、英: frontier orbital theory)あるいはフロンティア電子理論(フロンティアでんしりろん)とは、フロンティア軌道と呼ばれる軌道の密度や位相によって、分子の反応性が支配されていることを主張する理論。
 福井謙一によって提唱された。この業績に対し、1981年にロアルド・ホフマンとともにノーベル化学賞が与えられた。ウッドワード・ホフマン則はフロンティア軌道理論よりも後に発表されている。


 それでは、それ以前に存在していた“電子密度”の概念を化学反応に結びつける方法とくらべて、どこに根本的な進展が見られるだろうか。
前に軌道の考えは電子密度よりも詳しい情報が得られると述べた。この点を自然科学の一般的方法論に照らして、もう少し詳しく考えてみよう。

 近代の自然科学では、対称とするモデルをより細かく“分割”し、それを再び“統合”してもとのモデルを再現することにより、理解を深めてきた。というと、抽象的でわかるにくいかもしれないので、例を挙げて説明しよう。
 
 水という液体を構成する水分子、さらにはその分子構造、分子内電子の挙動と分けていき、次に、原子・分子の間に働く力を明らかにし、それらの要素を統計力学のような学問によってつなぎ合わせて液体の水のモデルを再構成する。
 あるいは生物学のほうでいえば、個体、器官、細胞と分け、さらには細胞内の構造体、その成分の分子構造などと分けていく。
しかしそのように分けるだけでは決して生物そのもの、あるいはその働きを理解したことにはならない。
 そこで細胞の成分の間の作用、さらには細胞間の情報伝達の仕組みなどを順次明らかにしていき、いずれは生理作用まで理解することを目標にする。
こうして細胞概念を使って生理作用の再構成が行われる。

 自然科学の発展のあとをノーベル賞の受賞対象から眺めて見ると、最初、電子の発見、新しい元素の発見、自然界に存在する分子の発見とその構造の決定などに関する受賞が相次いでなされ、“分割”の過程でまず大きな創造がなされたことを物語っている。
 物理学では、最近でも素粒子の分割が最先端分野として行われている。
現在では、分子間の作用や細胞間の情報伝達など、“再統合”の過程に属するものも見られるようになってきた。
 
 分子内の電荷という概念は、軌道の電子からの値を寄せ集めることによって得られるものである。言い替えると、軌道は、分子の電子密度を“分割”して得られる概念である。
いわば、軌道概念は電子密度を“分割”するためのものであった。
 そして化学反応のモデルを分子間の電子のにじみ出しと考え、にじみ出しの現象を軌道概念で再構成しようとすると、そこに「フロンテア軌道」が入ってくるのである。
つまり、フロンテア軌道理論は、取りも直さず分子の電子密度の概念を分割し、それを化学反応モデルに当てはめやすいよに再統合する時に得られるものであることがわかる。

 このように、モデルの分割-----再統合の方法論のすぐれた点は、分割した要素的概念を、モデルの理解に役立つように再構成することができ、そこに創造の入り込む余地があるという点にある。
 こう考えてみれば、フロンテア軌道理論の出現は、自然科学の進歩の一般的傾向に一致したものということができる。

 大変理屈っぽいことを述べて恐縮だが、フロンテア軌道の考えは、ごく自然なものであったことがわかっていただけたことと思う。
運慶の彫る仁王のように、材木の中に初めから埋まっていたものを単に掘り出したわけである。
                                                   

 ここで若い科学徒に一言しておきたい。
考えて行き詰ればこの分割-----再統合の方法を試みてはいかがだろうか。昔からよくいうように、divide et impera(分割して統治せよ)の方式を採用するのである。



 確かにフロンテア軌道理論のアイデアは奇想天外なものではなく、多くの研究者がひょっとすると自分も思いついたかもしれないと考えたくなるようなものである。
というのは分子内の電子の軌道のなかで最高被占軌道と最低空軌道は研究者にとっては最も馴染の深いもので、吸収スペクトルの分野では特別に重要な役割を果たす軌道だからである。当時、福井博士は誰もがよく知っているこれらの軌道に注目したにすぎないと考えた人もいたかもしれない。


spectrum吸収スペクトルとは、「刺激として電磁波を用い、波長に対し吸収強度を記録したもの」



 しかしそれは研究とは何か、独創とは何かを知らない人の考えである。

独創的研究とは誰もがよく知っていることを、誰も考えなかったように考えることなのである。

 このことをニーチェはつぎのように述べている。「独創的。----何か新しいことを最初に見ることではなく、古い、古くから知られた、誰にでも見られ、見すごされているものを新しいもののように見ることが、本当に独創的な頭脳のしるしである。最初の発見者は一般にあのまったく陳腐で才気のない空想家----偶然というやつである」(ニーチェ、阿部六郎訳、「人間的な、あまりに人間的な(下)」新潮文庫)

 エネルギーが最も高い軌道の電子が反応において特別の役割を果たすのではないかと考えた先生は、早速ナフタレンについてヒュッケル法を用いて電子分布を計算してみた。ちなみに計算に際して先生はもっぱら計算尺を使い、手回りのタイガー計算機など機械類での計算は終生されなかった。
 計算した電子分布を見て先生はわが目を疑うほど驚いたと後年語っておられたが、確かにα位置の電子分布はβ位置に比べて圧倒的に大きく、反応がα位置だけに起こるという実験結果と見事に一致していた。
 この瞬間をフロンテア軌道理論誕生の時といってよいと思うが、しかし先生はまだそこまでは考えてなかったようである。
確かにこれは新宮教授の反応性理論に対する批判に答えるものではるが、これは偶然ナフタレンについてだけ見らることかもしれないという思いがあったからである。
 そこで先生は米澤を呼んでナフタレンの結果を話し、これ以外の分子について同じように計算して実験と比較してみることを指示した。

(略)こうして主要な非置換芳香族炭化水素15個について電子分布を計算し、それを実験結果と比較したところ、両者は見事に一致しており、米澤は思わず感嘆の声をあげたほどであった。この結果は米澤と机を並べていた永田にとっても大きな驚きであり、当時ポリメチレン色素の計算で悪戦苦闘していたのでたいへん羨ましく思ったものである。
 米澤がこの結果を先生に報告したところ先生も驚き、そして興奮されたが、それはナフタレンについてみられた理論と実験の一致が偶然ではなく、すべての分子についてみられる普遍的なものであることがわかったからである。(「ノーベル賞の周辺」)


⇒軌道というのは何であるか?それが汽車のレール、太陽の周りを遊星が回っている軌道という意味とは非常に違う。
 正確には一つの関数で表現される、その言葉である・・・量子力学的な方法で求められる、ところの原子核(プラス)の周りの電子の動き回っている様相であるが、これが寄り集まって出来る分子は、二つの原子核の中ほどに滞留する電子(マイナス)としての機能が生まれでて、あたかも糊でもあるかのように原子をつなぎとめているのだ。
 ところで、分子と分子が寄り集まって化学反応を起こすときにも似て似ざる関係性がありはしないだろうかと、おもいつかれたのが、1952年の同居中の事であったのだ。(「化学と私」参照)


コメント (0) |  トラックバック (0) |