MY LIFE AS A DOG

ワイングラスの向こうに人生が見える

映画と本の話

2006年06月04日 18時08分28秒 | 映画
今週は忙しかったのに加え精神的緊張などもあり、胃の痛い週だった。
胃薬(H2-blocker)をこれほど立て続けに飲んだのも久しぶりだ。
しかし、今日は、仕事が一段落し、胃の調子もやや落ち着いたようなので、久々にDVDを見たり本を読んだりして過ごすことにした。

さて、今日見たのはショーンペンの“21グラム”。
うわさには聞いていたけれども、なるほど、深みのあるとてもいい映画だと思った。

この映画を観ている間、僕は以前に読んだ宮台真司氏のある文章を思い出していた。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=336

この文章をはじめて読んだときは、拳骨で頭を殴られたような強い衝撃を覚えた。
そして、ちゃんと理解できるまで何度も読み返した。

“映画は物語自体が「砕け散った瓦礫」の山であることによって、「ああ、確かに〈世界〉はそうなっている」という「過去の甦り」を帰結する”

まさに、そのとおりなのだと思う。

この文章の中で、宮台氏は写真家の中平卓馬氏に言及するが、彼の写真こそまさに“砕け散った瓦礫”そのものだという気がする(ご覧になったことのない方は是非)。
目の前に今存在しているこの現実によって、我々は何かに“気付か”されるのだ。

スピルバーグは最近のインタビューで“メディアがリベラルな立場を放棄した分、映画がその役割を担わなければならなくなった”という趣旨の発言をした。
その発言に僕も異論はない。
しかし、その帰結が“ミュンヘン”であるというのならば、逆にこれほど悲しむべきことはないと思う。

良い物語が人々に訴えかけるのは、それが“アレゴリカル”であるからだ。
登場人物が、観客に向かって大演説をぶったところで、人々の“気づき”は得られない。

クリント・イーストウッドの“ミスティック・リバー”が傑作である理由の一つは、あの映画があくまで物語を語ろうとしているからだ。イーストウッドはリバタリアンだが、映画は決して彼の思想を語りはしない。あの映画は、ただ彼の心の中にある物語を語るに過ぎないのだ。あの映画が心に響くのはそのせいだ。観客は、それとなく「世界はこうなっているんだなー」と気付かされる。だからこそあの映画は素晴らしい。

そして今晩、“21グラム”を見ながら僕は同じことを考えた。
「世界は確かにそうなっている」のである。

★★★★

話はかわるが、昨日、弁護士である安田好弘氏の著書「『生きる』という権利」を読んだ。
読み終わった後、暗澹たる気持ちになった。
“感動した”というのとは違う。“落ち込んだ”のだ。

最近どこかで読んだのだが、あの後藤田正晴氏は死の直前に「日本はこれから地獄に落ちるよ」と語ったという。なんとも後藤田氏らしい物言いであると思う。

細かいことは省くけれども、結局のところ、オウム事件も、和歌山カレー事件も、ライブドア事件も、今話題の共謀罪も、これから始まる村上ファンドの一件も、日本が今つき進もうとしている、ある一つの方向を悉く暗示しているように僕には思えてならない。

「日本にはもともと民主主義とか人権なんてもの自体が存在していないのだから、一度地獄に落ちたほうがいいんだよ。」などと嘯く人もいる。そのとおりかもしれない。

国民は(僕も含めてかもしれないが)皆何かにとり憑かれてしまったのではなかろうか。ワイドショーで垂れ流される限りなく矮小化された情報のみで一方的に噴き上がる人たち。
もちろん、そういう気持ちもわかるし、非難するつもりはない。
しかし、果たして、その怒りはどこへ、そして一体誰に向いているのだろうか?
その怒りは本当に正当なものなのだろうか。

先ほどこの本を読んで“落ち込んだ”と書いたのはそういうことだ。

皆(僕も含めて)、自分は正義感の「塊」だと信じている。
我々が、「こいつは絶対に悪人だ」と思った人間は、文字通り血も涙もない“極悪人”でなければならないし、ましてそんなやつが家族想いであったりしては断じてならない。そして、そういう人間を善人面して弁護するやつも同罪だ。そういう偽善者こそ吊るしあげねばならない。どうせ、そういうやつは思想的に偏っているか、そうでなければ頭がいかれているかのどちらかに決まっているのだから・・。真実がどうであったかなどどうでもいいことだ。

本当にそうなのだろうか。

またまた話は変わるが、ハンナ・アーレントが1963年に上梓した「イェルサレムのアイヒマン」は、まだ出版もされないうちから激しい攻撃の対象となった。
彼女はユダヤ人の大量虐殺に加担した張本人であるとされるアドルフ・アイヒマンを、国際法廷ではなく、イェルサレムの法廷で裁くことに異論を唱えた。そしてイェルサレムの法廷が弁護側の証人を一切受容れなかったことを非難した。
世界中の“善意”の人々が、彼女に猛然と噛み付いた。

奇しくも、アーレントは「イェルサレムのアイヒマン」の最後をこう結んでいる。
「君は戦争中ユダヤ民族に対しておこなわれた犯罪が史上最大の罪であることを認め、そのなかで君が演じた役割を認めた。しかし君は、自分は決して賤しい動機から行動したのではない、誰かを殺したいという気持ちもなかったし、ユダヤ人を憎んでもいなかった、けれどもこうするよりほかはなかったし、自分に罪があるとは感じていないと言った。(中略)――政治を君が支持し実行したからこそ、何人からも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」

ユダヤ人である彼女が逡巡した上で導いた結論だった。
彼女は、“悪の陳腐さ”について書いたのだ。
悪をなすためには一片の悪意も必要としないという事実を。

そして、それはまた、ヒトラーを熱狂的に支持した当時のドイツ国民のほとんどが、まっとうで、どこまでも純粋で、そして善意と希望とに満ち溢れた人々であったことを同時に言い得てもいた。

そして何よりも、アーレントを断罪した人々自体が、ナチスの悪行を憎み、ナチスによって葬り去られたユダヤ人たちを心から悼む善意の人々であったに違いないのだ。
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2 コメント

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怒りの不協和音 (o_sole_mio)
2006-06-05 22:56:56
>ワイドショーで垂れ流される限りなく矮小化された情報のみで一方的に噴き上がる人たち。



ここ数年間でこの傾向が顕著になってきているように思えます。最初に気になったのは、イラクの人質バッシングです。これもテレビで政治家が放った「自己責任」の一言でわっと広がったと記憶しています。一方で人質の親族の発言で世間の顰蹙を買っていましたが、親族の怒りの、そして報道の受け手としての視聴者の怒りが不協和音を奏でた結果なのかもしれません。
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コメントありがとうございます (kazu-n)
2006-06-06 10:28:43
o_sole_mioさん



>ここ数年間でこの傾向が顕著になってきているように思えます



おっしゃるとおりだと思います。

しかし、何故こうなってしまったのでしょうか。おそらく、ワイドショーを製作する側からすると、そうしたほうが視聴率が稼げるから、ということになるのでしょうが。。。しかし、とするならば、やはり製作側の問題というよりはむしろ視聴者側の問題ということになるのでしょうか。

いずれにしろ自分のことを棚に上げて誰かを集団で吊るし上げにして溜飲を下げるなんて、本当にえげつない話だと思います。
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