国際結婚はたいへんだった(第2章)

ボリビア人女性との国際結婚に至るまでの道のりを記録するために立ち上げたブログです。最近は妻との日常生活を綴っています。

たまには

2015-11-05 | 番外
今日はちょっと毛色の違う投稿を。先月「アンデスの声」アナウンサーの尾崎一夫さんと再会した直後に書けば良かったのかもしれませんが・・・・・

私がパラグアイに居た頃、その日本語放送をほとんど毎日聞いていたのは既にこちらで述べた通りですが、宗教系の局ゆえ聖書講座の番組もありました。(毎週日曜だったかな?)尾崎さんが先生役、もう一人の日本人の方(レギュラーゲスト)が生徒役で対話形式によって進められるものでしたが、ある回は「結婚について」でした。

先生の「結婚を成り立たせるものは何だと思う?」という質問に対して、生徒は最初「婚姻届ですか?」「お金ですか?」と的外れな答えを言い、その度に否定されます。それは当然としても「では愛ですか?」にも先生は正解とは言ってくれません。その理由は「結婚が愛によって成立するのであれば、愛がなくなれば結婚生活を続ける理由はないということになってしまう。結婚は決してそういうものではない。」というものでした。(当時の私も何となくながら愛だけでは不十分ではないかと思っていたので意外とは思いませんでした。)生徒は訳が分からないという口ぶりになって「それじゃあいったい何なんですか?」と問いかけます。

「結婚を成り立たせるもの、それは『信仰』なんだ。」

それが先生の答えでした。(何せ大昔の話なので細部は違っているかもしれませんが、大筋は合っていると思います。)

これをLindaに話したことがありますが、「私もそれはとてもよくわかるわ」と彼女は言いました。K君がメールで「親族の間でも、最も敬虔深い人物として知られており」と書いていた彼女のことですから、私との出会いを神の導きによるものだと本気で信じていると思います。一方、仏教者である私の「信仰」はもちろん彼女のそれと同じであるはずはありません。けれども「人間を超えた何者か」への畏怖の念というものは持っています。(時にそれを「運命」と呼び、憎むこともありますが。)そして「某かの信仰を持っていない人間とは畢竟解り合うことはできない」とも考えています。それゆえ本当にいい人と一緒になれたとつくづく思うのです。(全然まとまってないですね。すいません。)
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2 Comments

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おまけ (yasuhiro)
2015-11-05 06:59:41
サンドウィッチマンの漫才でボケの富澤さんが「結婚、それは君が見た光」から始まって以降TVコマーシャルの「青雲」を「結婚」に変えただけのスピーチをするというネタがありますね。あれ大好きです。
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暴走 (Yasuhiro)
2015-11-05 07:17:33
私は「絶対者」というものを認めたくありません。人間を超える存在は認めても、それが全知全能である必然性はないという考え方を取ります。そこがLindaの信仰との決定的違いだと思います。

ところで本文に「仏教者」と書きましたが、何年か前に父が住職と喧嘩して浄土真宗(東本願寺)の門徒をやめたので、私も「仏教徒」とは名乗りません。一個人としてブッダに帰依するという意味での「仏教者」です。スペイン語ではどっちも "budista" で一緒だとは思いますが。(さらに言うと「肉食妻帯して何が仏教者だ」と言われたらそれまでですが。)

かつては自分を「ただ親鸞一人に帰依するという意味での直系の仏弟子」と評していた故亀井勝一郎氏に共感していたこともありますが、今は少し親鸞が遠い存在になっています。それに代わって近年はある禅宗のお坊さんに傾倒しています。

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私は世の中の宗教を、傲慢ながら「仏教とそれ以外」としか考えないんです。なぜかと言うと、考え方のパターンが異常なんです。つまり、「自己存在には根拠が欠けている」ということを、真っ向から教えの根本として打ち出す宗教はないのです。仏教以外は全部、絶対者なり、絶対理念なり、絶対精神みたいなものが、人間の存在の根拠、社会の存在の根拠にあるというのが、およそ思想とか宗教の根本です。
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上は一時弟子入りしようかと思ったこともあるそのお坊さんのブログに掲載されている一節(対談より)ですが、これを読むとやはり自分には仏教しかないな、と思います。

ここである文章のことをふと思い出し、探してみたら残っていました。在籍していた大学の生協が発行している音楽雑誌で読み、感銘を受けたので打ち込んでおいたものです。(そのファイルに書かれている日付は1995年10月8日でした。20年前か。)

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 僕自身は無宗教で「神」たる存在をなるべく信じたくないと思う人間なのだが、もし存在するとしたら一つだけ確実だろうと思うことがある。それは、その「神」というのは一人の人間の生き死になど全く意に介さないだろうということだ。人間に慈悲をかける神など神ではない。信仰と救い。「信じるものは救われる。」本当にそれでいいのか? 信仰したら自分を救ってくれるような神に、あなたは運命をゆだねたいと思うのか? 僕はそうは思わない。
 確かに自分自身を救ってくれるのはありがたい。信じてお祈りすれば万事がうまく行きますよ、それは結構なことだ。信者だけが世紀末に起こる最終戦争に生き残り新しい未来を開くことができるのだ、それも結構なことだ。しかしそんな選択的・差別的な神など、決して社会を平和にはしないだろう。ただ差別の、人間の醜さの代弁者となるだけだ。第一そんなケチな神など、神と呼ぶに値するだろうか。
 本物の神は地震で何千人の人が死のうとも、街がなくなろうとも、無差別テロが1カ月以上騒がれ続けようとも、せいぜい路上の雨の跡が乾いたぐらいにしか思わないのだろうと思う。全てを知り、運命付ける。鏡のような冷たさ、太陽のような圧倒的で殺人的ですらある力。そのくらいでなければ、僕は神と認めたくはない。
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こういう潔さも私は好きです。仏教にもそういうところがありますがニヒリズムと紙一重。でも自分にはこれぐらいが丁度いい。そういう風に考えた方が生きるのが楽なんです。(宗教について書き始めると大抵暴走してしまいますが、今回もそうなりました。)
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