『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

柴田勝家(しばたかついへ)[2/5]

2017-07-16 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
柴田勝家(しばたかついへ)[2/5]

[現代仮名遣い]しばたかついえ


1572年4月三好義継・松永久秀・松永久通が

    畠山昭高に反発し、昭高の臣安見

    新七郎の守る交野城に向けて取手を

    築いたとき、信長軍として取手を攻撃。

1572年7月浅井攻めに参戦し、まずひばり山・

    虎御前山を攻め落とす。その後小谷に

    向けた先手として布陣。

1573年2月石山・今堅田の義昭方を攻撃する為

    出陣。

1573年4月信長・義昭の和議の後、鯰江の佐々木

    六角義治攻撃の為付城を造営し百済寺を

    焼く。1573年7月義昭真木嶋攻めに参戦。

1573年8月信長江北攻めで、退却する朝倉を攻め

    る先手を命じられたのに、信長遅れを

    とってしまい、厳しく叱責される。

1573年10月北伊勢攻めに参戦し、伊勢坂井の城

    を攻陥。

1573年10月次に伊勢深谷部の城を攻陥。

1574年3月多聞城での蘭麝待切り取りの儀式の奉行

    をつとめる。

1574年7月信長父子の河内長嶋成敗に参戦し、西

    の香取口を攻撃。ついで大鳥居攻撃をつと

    める。

1575年4月信長父子の南方攻略戦に参戦。三好康長

    の籠る高屋城周辺に放火、麦苗薙ぎ。


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