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北タイ陶磁の源流考・#35<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・10」>

2017-03-11 07:55:25 | 北タイ陶磁

<続き>

8.内陸領域・ミャンマー:その1
内陸地帯で生産された最も初期の施釉陶磁はビルマの陶器であり、パガン(Pagan)にあるNgakywenadaungパゴダとの関係から9世紀であるとされている。同じ世紀の中国の記録は、緑釉のレンガの壁を持つビルマの都市を記載している。他の初期のビルマの鉛釉陶磁には、北部のパガンから南部のバゴー(ペグー)に至る居住地域で見つかった陶器と建築材がある。どちらの場合も、それらの製品を焼成した窯は見つかっていないので、窯がどのようなものであり、その技術がどこから生じたのかという疑問がある。
ビルマで焼成された陶磁器の起源を特定しようとする際のもう一つの問題は、発掘すれば多くのものが発見される可能性が高い北部のシャン地域、サガイン地域、カチン地域等の"敏感な"地域は手がついていない。そこで発掘が進めば、現在の知識に基づいた仮定を根本的に変えるかもしれない。
旧都ペグー(バゴー)には、初期の昇焔式窯の痕跡がある。東北シャン州であるインワに喫煙パイプを作った陶器の村Sayohphoでも認められる。 パガンのスラマニ寺院の近くでも、古い昇焔式窯の痕跡が報告されている。焚き火(野焼き)は依然として陶器生産の最も一般的な手段だが、昇焔式窯も同じ目的で使用されていたと思われる。
残念なことに、これらのサイトのほとんどはまだ完全に調査されておらず、窯様式の識別や年代は明らかになっていない。しかし、ビルマや東南アジアのどこでも、昇焔式窯が横焔式窯より進化したという兆候は見当たらない。横焔式窯が中国から来たことはほとんど疑いがなく、昇焔式窯も同様である。 しかし、昇焔式窯はインドでも知られており、中東から順に導入されているかもしれない。ビルマとその他の東南アジア地域への導入は、最初の千年紀にインドとの接触から生じた文化的変容の一部として起こりうる可能性がある。この推測を支えるもう一つの要因であるが、東南アジアで知られている早期昇焔式窯のほとんどは、ビルマとタイ西部に存在する。(当該ブロガー注:当該地域の昇焔式窯はドン・ハイン氏自ら指摘しているように、西方の臭いがする。ベンガル経由インド由来と思われる。)ペグーやミャウンミャを含むいくつかの窯場では、地下式の横焔窯が見つかっているが、年代が明らかになっておらず、最初に使用された時期は不明である。知られている地下式横焔窯は、国内供給陶磁の生産に供された。
最も効率的な築窯を可能にするために、窯は垂直の側壁とほぼ平坦な天井を掘って焼成室とし、断面はほぼ長方形となった(図18)。

これらの窯では、鋭く傾斜した焼成室の床が特徴である。窯での焼成状態を確認する特徴的な方法は、煙突を見下ろして、その棚に置かれた品物に収縮が発生したことを観察することによって判断された。これらの地下式横焔窯のもう一つの特徴は、昇焔壁が湾曲していることである。この特徴は、おそらく火焔流の特性を維持するため、より多くの燃料や燃焼スペースを拡大するために、燃焼室を深く掘り下げた。そのため床が昇焔壁に向かって下方に傾いていることとセットであろう。
ビルマでは移行窯は知られておらず、移行期の不在は地上窯の起源に関する疑問を提起する。あわせて既知の地上窯がレンガ(粘土なし)で造られていることである。それらを背景に考えると、地上窯は地元の技術革新ではなく技術移転であると仮定される。
地上式横焔窯は、ビルマで最も多く、最も普及している窯である。それらは全国で見られ、主要な歴史的都市国家や集落に集中している。
トワンテ地区の多くの地点では何百ものレンガ造りの地上式横焔窯が発見されているが、ペグーのラグンビー地区(図19)には100基以上、ミャウンミャには1基ある。

アラカン・ヨマ山脈に沿ったアラカン王国(1430-1785年)の都・ミャウーで、カラフルな鉛釉陶器が作られた。また、北東シャンでも窯の存在が報告されている。南部のマルタバンでも横焔窯が発見される可能性が高いと思われる。有名な緑と白の陶器と緑彩陶を作ったものも含めて、まだ多くの窯のサイトが未発見である(当該レポートが公表されたのは2008年であり、その後の変遷により2016年にドン・ハイン氏が主導し、錫鉛釉緑彩陶を焼いた窯址を発掘したとのニュースがある)


                                     <続く>


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