QUE SERA SERA

タイトルの通り、お気楽になんとかなるさ~と作ったHPです。
気楽に遊びに来てください。

トウカイテイオー

2005年12月05日 | 私的名馬列伝
ガラスの脚を持つ天才は何度でもよみがえった。ファンの夢を乗せて飛ぶ不死鳥のように。

名馬列伝第三回目はトウカイテイオー。

ルドルフの初年度産駒。グッドルッキングホースで、天才という言葉がよく似合う馬だったと思う。

テイオーは12月デビューというクラシックを狙うにしては遅いデビューから4連勝でG1皐月賞へ向かった。

トウカイテイオーという馬はどんなときも颯爽としていた。そして平然とゴール前を駆けていった。誰よりも速く。皐月賞では一番人気に支持されたものの、これまで重賞経験がない、さらに18頭立ての大外枠など、不安はあった。彼に試練が課せられたように見えた。しかし、テイオーはいつものように平然と勝って見せた。何事もなかったかのようにウイナーズサークルにたっていた。それが当たり前のように。

そしてダービー。

競馬関係者にとって最高の舞台。それは馬にとっても同じ。ここでテイオーはまた大外枠を引いた。それでも単勝は2倍を切っていた。そして2分半の激闘の後、テイオーは颯爽と引き返してきた。もちろんウイナーズサークルへ。このレースを激闘と呼ぶのは間違いなのかもしれない。少なくともテイオーには激闘を戦い抜いた素振りはなかった。当たり前のように、走って、そして先頭でゴール板を駆け抜けた。

三冠馬であり、テイオーと同じように無敗でクラシックロードをかけていった父ルドルフのように、いやそれ以上の信頼と期待を残して、夢を置き土産に府中を去っていったテイオー。そこには、かつて日本競馬史上一度もない親子三冠達成の偉業がくっきりと見え始めていた。

三日後。テイオー骨折の一報が入ってきた。全治6ヶ月。だれもが夢描いた親子三冠は夢のまま宙ぶらりんになってしまった。

テイオーの走法はほかの馬より足を高く上げていたといわれている。その脚の使い方がテイオーの強さの所以であったという。しかし、この走法は諸刃の剣であった。速く走れる分、脚への負担は大きかったのである。

そして、月日は流れ、テイオーが戻ってきたのは桜の花びら舞う阪神競馬場。ダービーから実に10ヶ月。ターフにもどってきたテイオーはやっぱり颯爽としていた。普通、10ヶ月の休み明けでは勝つのは難しい。しかし、天才に常識は通用しなかった。休養前と同じように、当たり前のようにゴール前を先頭で通過した。岡部騎手が上機嫌で「ルドルフの日経賞よりも楽だったね」とコメントしたのが印象深い。

そして、一番人気で迎えた天皇賞。颯爽と淀のターフに現れたテイオーは、3200Mの長丁場をやっぱり平然とゴール板を駆け抜けた。生涯初めて、ほかの馬の後ろで。二度目の骨折。このころから、颯爽と走っていたはずの天才に悲壮感が漂い始めた。

半年後、骨折あけの天皇賞ではかかったこともあり7着と惨敗。怪我で泣かされる天才という、月並みなフレーズがテイオーにはつけられつつあった。

5,7着と不敗神話の崩壊した天才は次走JCでは久々に一番人気を奪われ5番人気に甘んじていた。しかし先団にとりついたテイオーはゴール前ではナチュラリズムとの叩き合いを制し、またもウイナーズサークルに戻ってきた。一年前のダービーと同じように。それは、テイオーにとって当たり前で驚いていたのは人間だけなのかもしれない。「普通に走ればこのくらいは」そんなことテイオーは自らの走りで見せた。続く有馬記念で1番人気に推されたテイオーは11着に惨敗。

しかも剥離骨折を起こしていた。3度目の骨折。引退してもおかしくない。

しかし、三度テイオーはターフに戻ってきた。不死鳥の如く。そしてファンの声に呼応するかのように。そう、戻ってきたのは冬枯れの中山競馬場。去年惨敗したアノ有馬記念。丸一年の休養でグランプリに出てきたテイオーは当然一番人気には支持されなかった。一番人気は菊花賞で5馬身差の圧勝を演じたビワハヤヒデ。

レースはメジロパーマーの逃げで始まった。ペースは平均。直線1番人気のビワがあっさり抜け出した。大勢決したかのように見えたその瞬間。一頭だけ、ビワに襲いかかってくる馬がいた。テイオーだ。怒号と歓声、そして悲鳴と歓喜に包まれたゴール前。テイオーはビワの前にいた。生涯で最高の末脚を繰り出して、ビワを差しきった。鞍上田原も「最後、交わしたのは精神力、本当にすばらしい馬です、馬をほめてやってください」と涙ながらに語った。馬券というものを超越して、感動を与えたテイオーは間違いなく名馬であろう。こうして、幾度もの骨折に見舞われながらも、戦い続けた不死鳥は感動のラストランという形でターフを去っていった。

しかし、もしもう一度アノ有馬記念を見ることができるなら音を消してみてほしい。テイオーはいつものように颯爽とそして平然とゴール前を駆け抜けている。

彼にはやっぱり悲壮とか感動という言葉は似合わないのではないか。そんなものは見ていた人間のつけたエゴではないか。そんな気にさえしてくれるほど彼は当たり前のように勝った。

天才の栄光と挫折。そんなサブタイトルがつきそうだが。それは間違いだ。天才は一度だって挫折してはいない。つねに、凛として平然としていた。その先の栄光を見据えて。

いま、テイオーは種牡馬になっている。G1馬を二頭出したが、後継はまだいない。さらにSSの後継種牡馬たちや外国産場に押され、日本馬のサイアーとしての活躍は、なかなかむずかしい。しかしそのうち現役時代のように当たり前のごとく後継を生むのではないか。彼にはそんな期待をかけられずにはいられないのである。

ツインターボ

2005年11月30日 | 私的名馬列伝
彼の仕事は勝つことではなかった。ただ逃げること。それが彼に課せられた使命だった。

さてさて、私的名馬列、今回は逃げ馬の代名詞、ツインターボだ。5勝のうち重賞は3つ。戦績を見れば、このくらいの成績を残して馬はいくらでもいる。しかし、これほどまでにファンの心に残る馬がどれほどいるだろうか?記録より記憶に残る名馬。そんな形容詞がしっくりくる…いやこいつ名馬じゃなくて迷馬かもしれない。狂気の馬だ。

ツインターボは常に先頭を走ってなければ気がすまなかった。スタンドが、大観衆が、TVの前のみんなが自分を見てくれてないと気がすまない馬だった。主役じゃないとイヤ!とかいってる超わがままなやつなのである。「俺を見てくれ!」って感じで走っていた。いや、きっとそうだ。彼は目立ちたかったに違いない。

そんなわけでたとえどんな騎手とのコンビでも控えるとか、抑えるという言葉はツインターボにはなかった。ゲートが開いたらいきなり全力疾走。「オイ、100M走じゃねぇんだから…」と突っ込みたくなるような馬だった。

ただ、旧4歳時にラジオ短波賞を勝ち、セントライト記念、福島記念で2着したときは一介の逃げ馬だったような気がする。周りからは「なかなか粘りのある馬だ」という評価だった気がする。

しかし、その年有馬記念に選ばれたツインターボはついにやってしまう。ツインターボはゲートが開くと放たれた獣のようにターフをかけてゆく。414キロしかない小さな馬体が、大観衆のスタンド前を先頭で通過する「俺を見て!!」といわんばかりに。日本一のレースでも彼は目立ちまくった。そしてある意味グランプリの主役だった。結局勝ったのはダイユウサクだったが、それはそれでいい。われらがツインターボはしっかりと自分の競馬をしてきた。このレース一番の歓声…いやどよめきはツインターボのものだった。

そして10ヶ月休養。理由はハナ血。ツインターボ曰く「骨折とかだと普通でめだたないじゃん!ハナ血で10ヶ月も休む馬なんて俺だけよ」と言っていたとかなかったとか。

その後もわが道を行ったツインターボは旧6歳の夏、運命的な出会いを果たす。中館騎手とのコンビ結成である。「ツインターボといえば中館」というイメージが強いが、実際中央での22戦のうち中館騎手を鞍上に迎えたのはたったの6回。ツインターボ=中館という図式は量の上では成り立たない。このコンビが頭に強烈にインプットされているのは初めてコンビを組んだ七夕記念のせいだろう。

夏真っ盛りの七夕記念当日。

当然逃げるであろうツインターボ。しかし、いつまでもいつまでもおなじことをやっていてはファンも飽きる。そこでツインターボはさらに目立つ方法を密かに考えていた。

そして秘策を胸に望んだレース。ファンの目が点になったのは1000M地点。

57秒台。

二番手に20馬身の差をつける。「俺を見て~!!」といわんばかりに。このままいったら勝ち時計は1分55秒台である。3番人気の暴走機関車はなにをトチ狂ったのか真夏の福島を好きなだけ走り回った。それは画面内にツインターボしか映らないくらい強烈な逃げだった。そりゃ目立つわ。画面にはツインターボしか映ってないのだから。もうツインターボONステージである。普通ならここでこの話は終わりである。しかし、あろうことかツインターボはこのレースを主役のまま終えてしまう。上がりを37.7でまとめて圧勝。画面はずっとツインターボを追い続けるしかなかった。そんなツインターボはこう思ったに違いない。「勝てば目立つじゃん!」と。

暴走機関車は次のオールカマーでも大逃げを打つ。しかし勝てば目立つことを知ったツインターボは七夕賞のような狂気の逃げではなくペースを計算しつつの逃げ。「あの馬の逃げはハイペース」とおもっていたほかの騎手心理を逆手にとってライスシャワーや地方代表ハシルショウグンを出し抜き余裕のフィニッシュ。カメラ目線まできめてくれた。ツインターボは「ほ~ら、目立ってる目立ってる」と大はしゃぎだったに違いない。

そんな浮かれ気分のまま天皇賞に出てしまった彼は3番人気に推したファンの期待もなんのその。またも、レースの主役になってしまう。「画面に映ってるのは、俺一人!」そうならないときがすまない彼は、気持ちよさそうに爆走、いや暴走していった。

彼は主役だった。

ただし4コーナーまでは。

その30秒後に彼はまた一人で画面に映っていた。こんどは先頭ではなく殿で。そして彼はこう思った。「負けても目立てるじゃん!」

それを悟ってしまった彼は、その後はとにかくハナにたっが中央では一度も勝つことはなかった。彼曰く「だって、4コーナーまで先頭なら目立つし…」なんていっていたらしい。ここで、それは競走馬じゃないだろと突っ込んではいけない。冒頭で述べたように、彼の仕事、そしてイキガイはただ逃げることなのだから。

晩年になってツインターボは地方に移った。初戦は勝ったもののその後は逃げて惨敗。しかし、すべてのレースでハナをたたいた彼は「4コーナーまでは俺が主役」と叫んでいたに違いない。

そんな彼が引退を決意した瞬間。

それは生涯で初めてハナに立てなかったレース。地方で13戦目のことだ。そのレースは一度も得意のカメラ目線をきめることなく、過ぎ去っていった。それは「俺、もうつかれたよ」という小さな体に暴走エンジンを積んだ彼の心の声だったのかもしれない。

それから10年以上。
目立つことが大好きだった彼は、記録の上で語られることはなくなった。


でも、毎年七夕の季節になると、小さな体の暴走機関車の幻が福島の芝をかけていくのである。

たしかに、彼は主役だった。

ライスシャワー

2005年11月28日 | 私的名馬列伝
小さな影が、ことごとく王者を置いてきぼりにした。影は最後まで影のまま主役にはならなかった。

さて、今回の名馬列伝は悲劇の名馬ライスシャワー。その研ぎ澄まされた小さな体は長距離で絶対的な強さを誇った。デビューは新潟。父リアルシャダイとステイヤー血統ながら1000を首差競り勝ち、大気の片鱗を除かせる。三戦目の芙蓉ステークスで二勝目をあげる。しかしここで骨折。休養を余儀なくされてしまう。同期には圧倒的に強い馬がいた。ミホノブルボンだ。無敗で3歳チャンピオンになった後、ブルボンはスプリングステークスに出走。一番人気こそゆずったもののぶっちぎりの圧勝。実はこのレース、ライスシャワーも出ていた。復帰初戦のライスは9馬身後方でもがいていた。この時点でクラシックの主役はミホノブルボンに決まった。ライスはいわば影にならざるを得なかった。そのご皐月賞、NHK杯を走るも8,8着。迎えたダービーでは16番人気。それもそうだ。8ヶ月以上勝ち星もない2勝馬に人気が出るほうがおかしい。一方ブルボンはここまで無敗、ダントツ一番人気だった。このレースも結局ブルボンの圧勝で終わる。しかし、ライスはスプリングステークスで9馬身あった差を4馬身にまで縮めていた。

秋になりGⅡで連続二着したライスは菊花賞ではその血統、成長力を買われ人気なった。そう二番人気に、だ。一番人気はもちろん無敗の三冠のかかったブルボン。スタートしてから強引にキョウエイボーガンがハナを奪う。ブルボンは二番手。そしてライスはその後ろ。大きな栗毛のブルボンに対して、ライスは450㌔を切る小さな黒鹿毛。淀の芝にはまるでブルボンの影がくっついているような光景が映し出されていた。ペースは平均、直線、ブルボンが、王者が堂々とスパートした。ライスは、影は王者にぴったりくっつきそして一気に交わしていった。レコード。無敗の三冠といういまだかつて一頭しかやったことのない偉業を影はあっさり打ち破った。ブルボンもレコードで走っている。彼が負けたわけじゃない、ただそこに意思を持った影がいたというだけ。

暮れの有馬で8着に敗れたライスは天皇賞へ向かった。前哨戦を2,1着。前年の菊花賞馬となれば当然人気である。しかし、彼はここでも影となった。主役は前人未到の天皇賞春三連覇をもくろむメジロマックイーン。スタートしてからマックイーンは先行、そのあとにライスシャワーがつけた。そうあたかも菊花賞のときのブルボン―ライスのように。マックイーンの大きな馬体の後ろでライスはやっぱり影になっていた。つかず離れず。まるで本物の影のように。3コーナー過ぎ、過去このレースを二度も制しているマックイーンがスパートをかけた。そして影もそれについていく。淀に並ぶ大きな馬体とそれを追う小さな影、それは一瞬デジャヴようでもあった。そしてゴール前では前を走っていたのは影のほうだった。レコード。ここにも負けた主役はいなかった。走る意味を、意思を持った影がそれをしのいだというだけだ。それはまるで自分の影が自らを食べてしまうようなものだったのだろうか。秋初戦、オールカマーをたたいたライスは大一番天皇賞で人気になった。こんどこそ一番人気紛れもない主役の座が回ってきた。しかし、そんなことはライスにとって望んだことではなかったのかもしれない。主役ではなく影。それがライスの望んだ道なのかもしれない。

そして偶然か必然かライスは負け続ける。9連敗。2年間勝てなかった。途中二度目の骨折もあり、関係者もファンも「終わった」そう思っていた。春の天皇賞。旧7歳を迎えたライスは混戦模様のこのレースに登録してきた。確固たる人気馬がいないにもかかわらず、ライスの人気がなかったことが当時のライスへの信頼を物語っている。ファンはライスを信用してなかった。しかし、ただ一人この馬の強さを信じ続けていた人がいる。京都新聞杯からずっと手綱を取り続けていた的場騎手である。京都の3200Mは1000Mのあたりから上り坂、そして下りながら4コーナーを迎える。のぼりで仕掛ければ早すぎる、くだりで仕掛ければ遅すぎる。そんなふうに形容されるように、ここでは騎手のうでがものをいう。実際天皇賞を勝ったジョッキーは1流と呼ばれる人ばかりである。的場は仕掛けてはいけないといわれる上り坂で、仕掛けていった。ゴールまで900Mほどの距離がある。誰から見ても失速するように見えた。それでもなお、的場が仕掛けたのは奇策でもなんでもなく、ステイヤーとしてのこの馬の強さを心底信じていたからだと思う。鞍上のGOサインにライスは考えた。主役は、王者はどこにいるのだ、と。王者は誰にも鞍上の的場にも見えなかった。マックイーンもブルボンもそこにはいない、しかし、そこにもたしかに王者はいた。
影であったライスだからこそ見ることのできた王者が確かにそこにいた。2年前、このレースを勝った自分の影という王者が――――――
このレースハナ差でライスシャワーは二度目の天皇賞馬となる。騎手の的場にとって馬を如何に信じるかという自分との戦い、ライスにとってもそれは同じだった。
影が意思を持ち動き出す。恐ろしいがあくまで架空の話だ。しかし現実は時にもっと恐ろしい運命を用意する。残酷で無情でまるで必然であったかのような偶然の運命を。

阪神大震災の影響でその年の宝塚記念は淀のターフで行われていた。ライスシャワーにはゲンのいいコースだ。過去三度もG1を制しているのだから。これ以上ないくらい舞台は整った。はれて主役の座を射止めたライスだったが彼はゴールまで戻ってくることはなかった。

3コーナー、影は崩れ落ちた。

この先はこのレースについてもう話すことはないだろう。結局一番人気で彼がG1を勝つことはなかった。それが彼の影である所以なのだが。

最後にどうしてもわからないことがある。彼は歴史的な記録を主役の影となり阻んできた、そしてそれはいつも淀に咲いた。そんな彼が淀に散ったのは偶然なのだろうか?おそらくそれは誰にもわからないのだろう、散っていった影自身にも。

ナリタブライアン

2005年11月28日 | 私的名馬列伝
彼が引退という大きな代償と引き換えにみんなに残したもの。それは競走馬としての儚さだったのかもしれない。

私的名馬列伝第一回目の馬は、20世紀の名馬BEST1にも選ばれた、5代目三冠馬のコノ馬である。兄に菊花賞馬ビワハヤヒデをもつナリタブライアンは、デビューから圧勝…というわけではなかった。新馬戦は2着。次走9馬身差のぶっちぎりで勝ったものの、つぎの函館3歳Sでは掲示板もはずすという惨敗。その後キンモクセイ特別を勝つがデイリー杯では3着。どうもいままでの三冠馬とはわけが違う。しかし、ここで忘れてはいけないのがシャドーロールの存在。シャドーロールのおかげで成績が安定し、後に気性的に安定してもシンボルとしてずっと白のシャドーロールをつけつづけていたという話は有名である。

その後京都3歳Sを勝ったのを火切りに、圧勝の連続。ダービーまで六連勝。しかもこの間最低でも3馬身は差をつけて勝っている。あまりの強さにダービーでは史上最低配当(単勝)120円というオッズを記録。これに応えるか如く、5馬身差の圧勝。このとき厩務員は(直線早めに先頭に立ったから、さすがに最後は多少失速するかとおもったけど、よく見ると最後にさらに加速しているんだよね)と半ばあきれたようにつぶやいたという。皐月、ダービーをらくに勝って見せたブライアンに競馬ファンは5代目三冠馬の希望を託した。このころから、もう既に彼は馬主、調教師のうまではなくファンの馬になっていったことは言うまでもない。

そんなブライアンが秋初戦に選んだのは京都新聞杯。誰しもがここをステップとして楽勝し、5頭目の三冠馬が生まれると思っていたはずだ。しかし「競馬に絶対はない」終わってみればそんな格言が頭をよぎるレースだった。約1年ぶりにブライアンはほかの馬のあとにゴール板に飛び込んだ。クラシックロードで絶対的強さを誇ったブライアン、4ヶ月ぶりのレースとはいえこの敗戦は関係者にとって衝撃を与えた。しかし、ファンはブライアンの強さを信じ続けた。それは菊花賞単勝オッズ170円というところに顕著に表れている。道中7番手を進んだブライアンは直線に入ると独走、7馬身差圧勝。やや重の馬場をレコード勝ち。ゆるぎない王者の誕生だった。その後有馬記念でも単勝120円の支持に応え3馬身差完勝。
この時点でG15勝。シンボリルドルフの持つG1、7勝の記録も破るかと思われた。

年が明けて阪神大賞典を100円元返しでかつところまではシナリオどおりだった。春の天皇賞も決まりだと、そんなムードが漂っていたなか突然の股関節炎の発症。休養を余儀なくされた。一度狂った歯車はなかなか戻らない。秋初戦、秋の天皇賞で復帰するも見せ場なく12着。その後天才武豊とのコンビでJC、有馬記念を走るも馬券対象にはならなかった。世代交代の激しいサラブレットの世界。「もうブライアンは終わった」そんな世論も飛び交うなか、ブライアンはあけて旧6歳を迎えた。

順調だった去年と同じ阪神大賞典の舞台に再びブライアンは戻ってきた。しかし今年の主役はブライアンではなかった。一番人気に推されたのは、前年の有馬記念、菊花賞を勝ち、年度代表馬までもかっさらっていったマヤノトップガン。レースはのこり400Mでブライアン、トップガンの両雄は並ぶようにしてスパート。壮絶な叩き合い。ゴール板を過ぎたとき、前にいたのはブライアンだった。ブライアンは自らの力で再び主役を掴み取った。その後鞍上に主戦の南井騎手を迎え春の天皇賞2着。狂っていた歯車は戻り始めていたかのように、いやブライアン自らが歯車を戻しているようにも見えた。

宝塚記念か休養して秋に備えるのか。ブライアンの前にはそんな二択が転がっていたように思えた。しかし、陣営は第三の選択肢を選んだ。春の短距離王決定戦として1200Mになった高松宮記念への出走。賛否両論、喧々諤々。1200Mはデビュー3走で走って以来。しかも前走3200Mから2000Mの短縮。常識では考えられないローテーションだった。
先に述べたようにブライアンはもうファンの馬だった。それなのにこのような暴挙とも言うべきレース選択をした背景には何があったのか?結果的にこのレースで歴代最高賞金獲得馬となることができた。それだけのためにわざわざこんなレース選択をしたのだろうか?それは陣営の一握りのものしかわからない。

こんな仮説を立ててみた。
昔タケシバオーという馬がいた。レコード5回、3200~1200の距離で勝ち、芝ダート問わない究極のオールラウンダーだった。また、アサカオー、マーチスともに3強と呼ばれ競馬を大いに盛り上げた馬だった。距離ごとのスペシャリストが活躍できるようになった近代競馬においてこのような馬はもう生まれてこないだろう。ナリタブライアンに話を戻そう。陣営はブライアンにタケシバオーのような所謂「昔の名馬」の面影を見出したのではないだろうか?ブライアンならそういう馬になれる、なってほしいと。その願いが高松宮記念の出走だったのではないか?事実ブライアン出走はこの新設G1を大いに盛り上げた。

しかし結果は4着。生粋のスプリンターに混じってのこの結果はさすがというべきなのか、やはりこの程度が距離の限界なのか、それは筆者にはわからない。その後屈腱炎を発症、引退に追い込まれたため陣営に批判が相次いだ。
競走馬の儚さ、それが彼の残していった教訓なのであろうか。

ブライアンはその後、種牡馬になるも急逝。
旧5歳以降は苦難の連続、そして、早すぎる死。
彼は「三冠馬になるため」だけに生まれてきた馬なのかもしれない。