まさおレポート

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龍馬暗殺は今井信雄

2019-11-09 | 小説 音楽

2019/11/9 2019年6月15日閲覧の新しい事実により追記。

下記の新資料というよりも新閲覧により竜馬暗殺の下手人は今井信郎ということでけりがついたように思う。後は黒幕がだれであるかだが、これは解明されていない。wiki引用で[3]とあるのが2019年6月15日閲覧資料だ。司馬遼太郎説が正しかったことになるのか。

『國士列伝 奥附』「今井信郎」大坪草二郎著、東京市神田区 高山書院、P229-301、昭和16年8月20日、国立国会図書館蔵書、2019年6月15日閲覧

慶応2年(1866年)の春、岩鼻代官所から招聘され1ヵ年の契約で赴任、剣道師範に携わっていたが、翌年の慶応3年(1867年)5月、江戸で京都見廻組への入隊を拝命、同年10月に着京した。そして、選抜され京都見廻組与力頭となり、今出あたりに旅宿を構えていたが、その腕前はたちまち組じゅうに知られ、新選組では服部武雄、見廻組では今井信郎と並称されるようになった。今井は、京都で公務に邁進する過程で、ほどなく坂本龍馬暗殺事件に関わることになる[3]。

慶応3年(1867年)11月15日朝、桑名藩士で見廻組の一員である渡辺吉太郎が今井の寓居を訪ねてきた。二人でなにかヒソヒソ話していたが、やがて今井は、蓑をつけ、竹の小笠をかぶり、地面に引きずるような朱鞘の長刀をさし、妻いわに「ちょっと行ってくるよ」と言い、渡辺と連れ立って出かけた。その日は朝来の曇り空で、時々しぐれ雨が寒々と降り過ぎるような天気であった。妻いわは、今井の扮装を見て、てっきり斬込みに行くものと思い、不安な思いで待っていたが、遂にその夜は帰ってこない。翌日になっても姿を見せない。殺されたものなら、誰かが知らせてくれるだろうと度胸を定めていたところ、今井は、懐ろ手をしてブラリと帰ってきた。無言のまま部屋の隅に行き、後向きになって何かコソコソしている。ソッと覗いてみると右手の包帯をとき、焼酎か何かで消毒している。「どうしてお怪我なさったのか」と訊くと、「よけいなことをきくに及ばん」と叱りつけ、ひどく不機嫌である。そのまま黙って捨てておくより外なかった[3]。

それより二十数日後の12月9日夜、小御所会議において、薩長を後楯とする岩倉具視の強行により武断的大政変が行われた。徳川慶喜の辞職聴許と共に退官納土の内諭を下され、会桑両藩は禁門の警衛を解かれた。上下大混乱のなか、12日夜、慶喜は倉皇として二条城を退き、大阪城へ退いた。あとには幕府側の遊撃隊、新選組、見廻組、津、大垣の藩兵などが二条城に籠り、反薩長の気勢をあげた。今井も二条城に詰め、数日間自宅に帰らなかったが、ある朝早く妻いわの寝ているうちに帰ってくるなり、「これからすぐお前だけ江戸へ帰れ。早く荷拵えしろ、俺も手伝ってやる」と急ぎたて支度させた。その時、長刀と一通の褒状を妻いわに與へ「これでもって俺が坂本と中岡とを斬った。榊原先生にお目にかけてくれ。これは守護職から賜った褒状だ」といって、はじめて真相をうちあけた[3]。

話によれば、坂本龍馬が越前の松平春獄に会って帰って以来、見廻組で彼の身辺を監視していると、しきりに何か策謀しているらしい。捨ておいては何をするか判らない、斬ってしまえという守護職の命で、佐々木唯三郎がその衛にあたる事になった。慶応3年(1867年)11月15日、龍馬暗殺の当日、佐々木唯三郎の下には、今井信郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之介、土肥仲蔵、桜井大三郎の6名、連れ立って坂本の宿屋附近までやってきた。八ッ時(午後2時頃)、まず京都の与力の桂隼之介を先行させ、在宿の有無を探らせたところ、不在とのことで、一同しばらく東山辺で時をかせぎ、夜になるのを待った。五ッ時(午後8時)近く、四条大橋にさしかかったと時、丁度雨はやんでいたので、佐々木は一同に命じ、蓑傘を脱いで橋下に投げ捨て、各自の袂や懐中を探って、後日の証拠となるような品を投機させた。そこで斬込み順番の籤を引くと、今井は第三番にあたったので、大不平でやりなおしを強要し、今度は第一番にあたった[3]。

河原町三条下ル近江屋の前にくると、今井は単身先に立って、表戸を叩き、案内を乞うた。二階から取次におりてきたのは、以前雲井龍と称した相撲上がりの下僕藤吉である。これは海援隊書記長岡謙吉の僕であるが、警衛の意味をも兼ねて数日前から坂本につけてあった。今井は用意してきた手札を出し、「松代藩の者であるが才谷先生はお在宿か」と尋ねると、「一寸お待ちください」と云って藤吉は手札をもち、二階へ上がろうとする。お待ちくださいとゆうからには、在宿に決まっていると思ったので、階段を上がりかけた藤吉を、いきない背後から抜打ちに斬り倒した。そして刀を一旦鞘におさめて、何食わぬ顔をして二階へ上がっていった。二階八畳の間には、火鉢を囲んで二人の武士が話しをしていた。どちらが坂本か、全然顔を知らないので咄嗟の機転で部屋に入るなり膝をつき、「坂本先生、しばらく」と挨拶し、左手で鯉口を切りながら膝行り寄った。坂本は、「どなたでしたかな」と言って、顔をさしよせるようにした。瞬間、今井の刀は掛声と共に鞘走って、坂本の脳天を横に拂った。右手にいた中岡は、脇差をもって立ち上がろうとした。そこを今井は立ち上がりざまに斬りつけた。中岡は脇差を抜く暇なく、鞘ごと両手で頭上に捧げるようにして受けたが、受けきれなかった。今井は、叩きつけるように数刀を浴びせ、中岡を斬り伏せた。その間に、坂本は背後にあった太刀をとり、既にヨロヨロしながら、引き返して来ようとしていた。それと見て今井は、踏み込むなり肩先から大袈裟に斬った。その時坂本は、何ともいえぬ悲惨な、泣くような悲鳴をあげたので、「この意気地なし奴」、叱咤しながら又一太刀横に拂った、坂本が提げていた刀の鞘を削り、腰のあたりに斬りつけた。部屋に入ってからほんのニ三分の間のできごとである[3]。

「父は小太刀の名人であったという定評になっているようだが、それは何かの間違いで、いつも引きずるような長刀を好んで差していた。しかも古刀は駄目だ、新刀の重いやつに限ると言っていた。坂本を斬ったのも新刀の長いやつで、天井につかえて困ったそうだ。それを母が持って帰る時に、縦にしては籠に入らず、斜めにして持ってきたというから、よほど長かったらしい。父の右手の人差指は、第二関節から曲がったまま自由が利かなかったが、誰の過失で傷いたものか、名前は言わなかった。現場に刀の鞘を忘れてきた者がいたが、誰であるかわ言わなかった」信郎三男、今井健彦氏談[3]。

坂本龍馬と中岡慎太郎とが、京都河原町三条下ル近江屋の二階で暗殺された時、現場に刺客の遺失した刀の鞘1本、および瓢亭の印のある下駄一足が残っていた。これを証拠として、下手人は次のように推定された。

一、この鞘は、新選組原田左之助のものである。たしかに見覚えがあると、証明する者がいた。
一、中岡の記憶によると、刺客が坂本を斬る時、「コナクソ」と掛聲をした。これは四国訛であり、原田左之助は伊予松山の浪人である。
一、瓢亭に問合わせたところ、印入りの下駄を新選組の者に貸した覚えがあるとのことだった[3]。

明治42年(1909年)12月17日、大阪新報記者和田天華の質問に対し、今井は、ようやく事実を話した。

1、暗殺に非ず、幕府の命令に依り、職務を以捕縛に向、格闘したるなり。
2、新選組と関係なし。予は当時見廻組与力頭なりし。
3、彼会て伏見に於いて、同心3名を銃撃し、逸走したる間罪の為なり。
4、場所は、京都蛸薬師角、近江屋という醤油屋の二階なり[3]。

 

2018/2/3 記事を見て追記

 

坂本龍馬(1836~67)が、歴史の教科書から消えるかも知れないという。歴史上の役割や意味が大きくない用語を削ることを提案し、龍馬もクレオパトラ、武田信玄、上杉謙信、吉田松陰などとともに削減候補になった。

「司馬遼太郎(1923~96)が小説『竜馬がゆく』で描いた人物像に引っ張られすぎている」しかし140点以上の自筆の手紙が残っている。

没後16年の1883年(明治16年)には、文筆家の坂崎紫瀾(1853~1913)が伝記『汗血千里駒』を高知の新聞に連載

1867年(慶応3年)に結ばれた「薩土盟約」では「正義純粋」「公平無私」「人心一和」のうち、「正義純粋」「公平無私」は龍馬がねじ込んだとみられている。(正義純粋は坂本龍馬ファンの孫正義氏が知れば喜びそうな言葉だ。)

 

2008/11/20初稿 2016/12/19 壬生義士伝を観て追記 2017/1/25 テレビ番組を見て追記

坂本龍馬が京都近江屋で暗殺されたのは慶応3年11月15日のことだ。新暦では12月のことになるがそれはさておく。週刊文春に浅田次郎は「一刀齋夢録」を連載し、龍馬暗殺の場面を描いているが、その号つまり先週号の発売日は11月13日である。作者はこの日に合わせてこの場面を書いているとしたら凄い。偶々そうなったとしたらもっと凄い。竜馬への手向けにこの発売日を選んでこの物語を書いているのであろうかとも思えるので。


司馬遼太郎・「竜馬がゆく」では竜馬暗殺の下手人を幕府見回り組今井信朗、渡辺一郎、高橋安二郎としている。明治になってから渡辺一郎がいまわの際に懺悔した話を根拠としている。浅田次郎・「一刀齋夢録」「壬生義士伝」ではともに新撰組三番隊長斉藤一としている。

斉藤一であり、しかもただ一人が暗殺者である根拠は暗殺者の美学と合理性だ。「一刀齋夢録」・「竜馬が行く」いずれも竜馬は暗殺者に頭を横割りに一文字に切られて脳漿が流れ出たとある。史実なのだろう。浅田次郎はこの点に着目する。数人で一番奥の部屋にいる竜馬と中岡を襲えば必ず二人に気づかれ、反撃の体制をとられる。こうなると横になぐことなどふつう考えられない。真っ向から振り下ろすのが自然だという。「壬生義士伝」では斎藤一が瓦版売りの坂本竜馬暗殺の声を聴いて「誰よりも俺が知っている」とつぶやくことで己が下手人であることを告白している。

竜馬の額を横に薙ぐためには居合いしか考えられないという。斉藤一は居合いが最も得意だという。しかも彼は左利きである。通常作法では刀を腰の右に置いておくのが礼儀でつまり攻撃をしない意思表示と体勢なのだが左利きでは右に置くのが好都合で、この礼儀は意味を成さない。「壬生義士伝」でも斎藤一が左利きで吉村寛一郎が斎藤の右には危なくて歩けないと言わせている。

斉藤一単独説には巷に反論もある。龍馬は二太刀で絶命したが中岡慎太郎は16太刀も受けている。中岡慎太郎が16太刀を受けたことも、斉藤一が居合でおそったにしては不自然であると。浅田次郎・一刀齋夢録では暗殺者の美学をキーに斉藤一の暗殺現場を描写している。ここでいう美学とは一刀のもとに切ることを指している。二刀も三刀も、ましてや16太刀などはよほどの乱戦でもなければ自らの腕の低さを証明するものとして恥じるという。

しかし斎藤はのちに老年になってから知り合いに実戦ではこうきたらこう切るなどと段取りなどはとても考えられない、無我夢中で切り結ぶのみだと言っているので16太刀でもおかしくないことになる。

また刺客がこなくそと土佐弁で叫んでいたことを挙げるが浅田「一刀齋夢録」では斎藤が単独で会見し暗殺時に他のグループが外で監視しており斉藤が宿を去った後に再び襲ったと解説している。

浅田次郎はこの小説を斉藤一の独白として一人称でつづっている。会話体は出てこない。一人語りで最後まで持って行く、しかし飽きさせないでとにかく読ませる。司馬遼太郎が「竜馬がゆく」で時代の立役者を発掘し描き出すのとは対照的で歴史の表舞台には決して立たない斉藤一や吉村寛一郎などを好んで描く。若いときは司馬遼太郎のほうが面白かったが今ではやや美化された物語が鼻につき浅田次郎のこうした作品のほうが面白い。

だからと言って司馬遼太郎を浅田次郎より下に見ているのではない。年齢とともに面白さの観点が違ってくるのだ。

「竜馬がゆく」では作者は近江屋暗殺の描写には興味の無いことを宣言している。しかし余熱が残っているので見回り組として書いたとわざわざ書き残している。後年諸説異説の小説が出ることを予見して書いたのかも知れない。

文春文庫 竜馬がゆく 第八巻 頁366より。

この長い物語も、終わろうとしている。人は死ぬ。
竜馬も死ななければならない。その死の原因が何であったかは、この小説の主題とは何のかかわりもない。筆者はこの小説を構想するにあたって、事をなす人間の条件というものを考えてみたかった。それを坂本竜馬という、田舎生まれの、地位も学問もなく、ただ一片の志のみをもっていた若者にもとめた。
主題はいま尽きた。
その死をくわしく語ることは、もはや主題の外である。
竜馬は、暗殺された。
暗殺などは、たとえば交通事故とすこしもかわらない。
暗殺者という思慮と情熱の変形した政治的痴呆者のむれをいかにくわしく書いたところで、竜馬とはなんの縁もない。そのためにこの小説ではかれらの白刃のひかりに触れるのみにとどめる。

実に興味が無いということをこれだけの字数を費やして述べている。浅田次郎と司馬遼太郎の興味の持ち方の違いに改めて驚く。どちらがどうという問題ではなかろうと思う。興味の視点が異なるだけで、これだけ別のものが仕上がる。

文春文庫「竜馬がゆく」八巻の終わりの部分に司馬遼太郎にしては珍しいと私には思われるところが目についた。なんと怪異現象が記されている。少なくともこうした表現は他の司馬遼太郎の著作には見あたらないのではと思いながら読んだ。

越前福井藩の勤王派・三岡八郎は弾圧で五年に渡り閉門中の身だが、竜馬が新政府に欠かせない人材として福井まで会いに行く。その別れ際に竜馬は自分の写真を渡す。その後、三岡は閉門中ながら藩の家老に新政府の情勢をのべる為に出かけ、その帰り道に橋を渡ると何事もなかった晴天にいきなり天地がどよめき、三岡は戦慄した。
「懐中のものを落とした」と三岡はいった。
竜馬の写真もない。

「それから二日後、竜馬が中岡慎太郎とともに京の宿で死んだ旨の報が、三岡のもとに入った。あの夜、ほぼ同時刻に、竜馬の霊は天に駆け登ったのである」
文春文庫「竜馬がゆく」八巻より引用

それにしても、「天」という考え方はこの当時の日本人の共通認識であったのだろうか。天国でもない。仏教の浄土でもない。極めて日本的な「天」という「あの世観」に司馬遼太郎も共感していたのだろうか。著作には天ということが盛んに出てくる。

竜馬語録にも天は出てくる。
「われ死する時は命を天にかえし、高き官にのぼると思いさだめて死を恐るるなかれ」
西郷隆盛も「敬天愛人」をもって世を渡ったそうだ。

特定の宗派に所属しない、こだわらない。信仰の押しつけもない。おどろおどろしい預言・迷信の類を信じない。しかし「天」という自然崇拝的な宗教心・信仰心の伝統がある。これはすばらしい事で私の宗教観もアニミズムといってよい。このあたりに影響されているのは間違いない。司馬遼太郎の著作はやはり20代のはじめに親しみ、感動するものだと思う。

昨日のテレビ番組で竜馬が紀州藩のいろは丸と海上で衝突して万国公法によって賠償金を今でいう170億円程度受け取ったという。(換算額は幅があり、下記では42億円とある)しかし2006年の潜水調査では銃や金などは積んでいなかったことがわかっているという。これは私にとってもショックだが龍馬ファンにとっては不名誉な史実ではなかろうか。孫正義氏もADSL事業の折には国際標準方式タイプAを採用する根拠としてしばしばいろは丸事件を万国公法の賞賛のために話題にあげていた。司馬遼太郎がこの史実を知っていたならばはたして龍馬がゆくを執筆したか、そのくらいの大きな史実発見だ。この事件の経緯が紀州藩を怒らせ暗殺につながったとの説もあるようだが番組ではその説を否定していた。

土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ、事故原因の解明を図った。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。さらに、民衆を煽り紀州藩を批判する流行歌「船を沈めたその償いは金を取らずに国を取る」を流行らせた。この事故は、日本で最初の海難審判事故とされている[5]。事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した[6]。江戸時代後期の一両は、日本銀行金融研究所貨幣博物館によれば、現在の価値に換算すると米価から計算して30万円(大工の日当からだと一両=30万)となり、8万3526両198文は約250億円に当たる。当事の紀州藩人件費が7万両であり藩の財政を脅かすほどの金額を虚偽申告で脅し取ったことになる。

なお、2006年に行われたいろは丸の調査では、龍馬が主張した銃火器などは一切発見されなかった[7]。賠償金はその後紆余曲折があって、7万両に減額され、11月7日に長崎で支払われたが、その8日後の11月15日、龍馬は京都川原町の近江屋で暗殺された。by wiki

いろは丸は幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた西洋式の長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船で運用に亀山社中があたっていた。

大洲藩が「いろは丸」を購入した時のポルトガル語の契約書が見つかったことが2010年4月23日に愛媛県大洲市によって発表されポルトガル人領事・ロウレイロより購入したものだと判明。4万メキシコ・パタカ、10,000両相当で購入し購入時に船名を「いろは丸」とすることを大洲藩が宣言したが藩に購入についての許可を得ていなかった国島は責任を取り12月24日切腹。最初の航海で瀬戸内海の現在の岡山県笠岡市で紀州藩の明光丸(887トン)と衝突し、近くの鞆港(現在の広島県福山市)に曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。by web 

2008/11/20初稿

2016/12/19 壬生義士伝を観て追記

2017/1/25 テレビ番組を見て追記



1 コメント

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龍馬暗殺  (もののはじめのiina)
2019-10-30 09:16:42
龍馬を暗殺したのは、見廻組であるらしいですね。
では、黒幕は誰でしょうか ❔
黒幕は会津藩?薩摩藩?土佐藩?紀州藩?幕府?

ハイ、坂本龍馬の海援隊のいろは丸が紀州藩の明光丸に沈没させられたとして賠償を払った恨みから紀州藩説もありました。

以前から西郷隆盛の名が上がってましたが、果たして・・・❔

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