2010年の記事
既に三分の二まで読み進んだ。珍しく毎朝通勤しているために電車の中が格好の読書タイムとなる。長年の疑問が氷解する(気になる)ために夢中で読みふけり、降りるべき駅を乗り過ごしてしまった。
彼の作品は読後多くの謎がのこる不全感があった。しかし彼によると彼自身も謎のままだという。韜晦をかますような人柄にはみえないので、本当なのだろう。とすると謎が残って当然かという気持ちになる。むしろこの謎のブラックボックスが彼の表現したいものだという。もちろん何度も読み返した後に残る謎なのだが。
ある種のインスピレーション的なきっかけで書き出し、そのあとは作者もどこへいくかわからないという。わからないから興味があるのだという。地図をもたない旅と同じことを目覚めた後に夢みている。スパゲティーを作る男のイメージが浮かび、それを何年も寝かせて作品にする。あるいは頭に20個のキーワードを浮かべてそれを3個組み合わせて短編をいくつも作るとかがなんでもなく出来る才能があるという。キーワードはブイで、浮かび上がってくるときの単なる目印らしい。浮かび上がれないと極めて危険なことになるので。
事実と真実は違うことを繰り返し繰り返し述べている。これは「非現実の現実」ということを彼流に言い換えたもので、事実よりも真実、つまり目覚めた後の夢のほうが真実だという思いが小説を書かせている。小説家はみんなそうだといいきる。
目覚めた後の夢で、深い地下に降りていくのだと云う。その夢見る能力が小説家の才能らしい。肌触りや息遣い、そして気配や匂い、それに身に迫る危険まで現実に感じる才能が彼には偶然やってきたのだという。
その目覚めた後の夢見は早朝4時からの5時間で集中的に行うが、心身ともに疲れる。そのためにマラソンや水泳、規則正しいストイックな生活が必要なのだという。まるで古代のバラモンの苦行僧ではないか。目覚めたあとの夢見はある種の「瞑想」そのものを言い換えたものだろう。釈迦もこの方法で悟達した。この人も祖父が僧だという。瞑想の達人、なにか血の力が彼の中で働いているのだろうか。
初期は社会の事を考えることはなく、ただ自分の中の関心事で作品を書いてきた。昨今は小説家の責任を感じるという。成熟という言葉を使っている。
作家にとって書くことは、ちょうど、目覚めながら夢見るようなものです。
それは、論理をいつも介入させられるとはかぎらない、法外な経験なんです。夢をみるために僕は毎朝目覚めるのです。
僕は何かを決めて小説を書くわけではない。やってくるものをそのまま文章にするだけです。