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伊能忠敬

2017年03月18日 | ひとりごと
伊能忠敬

延享2年(1745年)~文化15年(1818年)江戸時代の商人・測量家
寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで足かけ17年をかけて
全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、日本史上はじめて
国土の正確な姿を明らかにした。

上総国(かずさのくに)山辺郡小関村(現:千葉県九十九里町小関)の
小関家に生まれた末っ子。
6歳の時、母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになったため婿養子だった
父は兄と姉を連れ実家に戻るが幼名三治郎は祖父母の元に残った。
名主の家に残されたこともあり、読み書き算盤や教養も教え込まれた。
10歳の時、父の神保家元に引き取られたが、やがて父が分家として独立。

下総国の酒造家の伊能家に跡取りがなく、娘に婿を探していたところ、
伊能家の親戚が土地改良工事の現場監督として三治郎を使い、見初められて
婿入りすることになった。
その際、現在の人事院に相当する式部省直轄下の官僚育成機関である
大学寮の学者より「忠敬」という名をもらった。17歳のときだった。

酒造家伊能家の家業は衰え危機的な状況で、忠敬は倹約を徹底し、本業の
酒造業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、
約10年間で経営を完全に立て直した。
36歳で名主となり、1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって
米や金銭を分け与えるなど地域の窮民の救済に尽力した。

この間、独学で暦学をおさめ、49歳で家業を全て長男に譲って隠居。
1795年、50歳を機に幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強
する為に江戸へ出た。
浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があり、折しも天文方
は改暦作業の最中で、天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)らが幕府の
天文方に登用されていたので忠敬は高橋に弟子入りした。
忠敬は巨費を投じて自宅を本格的な天文観測所に改造し、日本で初めて
金星の子午線経過の観測に成功する。

1797年(52歳)、高橋らは新たな暦(寛政暦)を完成させたが、地球の正確な
大きさが分からず暦の精度に不満足だった。
オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、地球の外周の
距離がわからなかった。
そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較する
ことで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が
割り出せる」(三角法)と提案。
2箇所の地点は遠ければ遠い方がごさが減るとして江戸から蝦夷地(北海道)
まで距離を測ることが望ましかった。

しかし、当時の幕府は蝦夷地に行くことを簡単に許可せず、そこで考え付いたのが
日本地図を造るという名目だった。
北方領土のあたりでロシアともめてた幕府は国防のために正確な地図が欲しく
東日本全体の測量許可を出した。
ただし、幕府の財政援助はなく、全て自費だった。

1800年(55歳)、測量調査に出発。
一行は忠敬、息子、弟子2人、下男2人、測量器具を運ぶ人足3人の計9人。
これに馬2頭が加わった。
測量方法は、歩幅が一定(約70cm)になるように訓練し、数人で歩いて歩数の
平均値を出し、そこから距離を計算するというもの。
雨、風、雪をはね除け、危険な海岸線も果敢に測量し、夜は宿で天体観測を
行い、昼間に得た測量結果と両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計
作業に追われた。

1日に約40kmを移動し出発から21日目に津軽半島北端に到達。
蝦夷地で測量を開始したのは上陸から10日経ってからのことだった。
蝦夷地は宿が無いため、村の集会所や役人の仮家に宿泊し、蝦夷滞在は117日。
測量で得たデータを元に、約3週間をかけ地図が完成し高い評価を得た。

翌年周囲から勧められ第二次測量として伊豆・東日本太平洋側の地図を作成。
その後計17年かけて日本全土の地図を完成させる。
その結果、地球の外周は約4万キロであると割り出し、現在の結果とほぼ同じと
いう精度である。
忠孝のトータル歩行距離は4万キロにも及び、地球1周を徒歩で回ったことになる。

文政元年(1818年)忠敬は持病の慢性気管支炎が悪化し、急性肺炎で弟子に
見守られながら73歳で世を去った。
忠敬の死から3年後の1821年江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、日本
最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。
3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の
小図3枚という、途方もない規模のものだった。

忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量船が幕府に強要して日本沿岸の
測量を始めた時、幕府役人が持っていた伊能図の一部を船長が見て仰天し、
“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにもかかわらず正確に描かれて
いる。今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまった。

伊能図の原本は、残念ながら1873年の皇居火災で大図、中図、小図すべて失わ
れ、翌年に伊能家が明治政府に納めた写しも1923年の関東大震災で焼失した。
ところが2001年にアメリカ議会図書館で大図214枚のうち207枚の写本が発見され、
さらに国内の国立歴史民俗博物館などから大図3枚が見つかり、2004年には欠落
分残り4枚の写しが海上保安庁の海洋情報部で発見された。奇跡的に大図214枚
の全容が明らかになり、2006年に大図全214枚を収録した「伊能大図総覧」が刊行
された。

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
原本と複写まで焼失しながら (夫婦岩)
2017-03-18 12:48:30
全容が見付かるとは、奇跡としか言い表しようがないですね。

歩測で精密な地図を作ったということの他に、55歳で思い立って始めたことが凄い。
現代に置き換えたらまだ理解できますけど、当時の年齢とすればバイタリティあるな~と。
徒歩っていうのがね (幹事)
2017-03-19 15:40:51
地球の外周距離を測るのが目的だったっていうのもすごいよな。

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