豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

自己を超えた自己などない!

2014-12-17 19:26:34 | 読者に人気の記事
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こんばんは!

今日はいつもより少し早く帰宅できました。

息子を嫁と母親がお風呂に入れてますが、僕は時間があるのでブログ更新をしようと思います。

といっても、これと言って話題があるわけではありません。


ランキングや閲覧数なんか見ていると、やっぱり更新していないと、人が来ない。

かと言って、更新してみても、たいして増えるわけではない(笑い)


えーっと、悟りとか、どうでもよくなりつつあるんですが、まあ、そのことしかネタがないので書いてみます。



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色受想行識が我ではないと、頭が聞いて、真っ先にやることは、それ以外の場所を想定して、そこに絶対安心の境地を持ち込むことです。

これは僕も、だいぶん長いこと嵌りました。

○←これが世界だとして、この○の中と外に共通した、透明な存在体があって、つまり、これが、心の我だとか、真我だとか『頭』が妄想しだすわけです。

そうしておいて、その我は不滅だとか、世に属さないとか言い出します。


しかしお釈迦様は、識があるによって色がある、色があるによって識がある。

この縁起の法の他には何もない。

また、無常でないものは、ひとつもない、諸行無常である。

諸行無常であるがゆえに、一切が苦しみである。

一切が苦しみであるがゆえに、それは我ではない。

諸法が無我であるがゆえに、涅槃に到達することが可能である。

というふうなことを、仰っておられます。


この無常でないものが、ひとつもないがゆえに、清浄の行が成るのであると!


このことを知って、この知った自分が、分析しだすと、このような、無我の境地というものが、どこかにあって、そこに到達しなければならないという誤った展開が生まれるのです。

到達するというよりも、元々、そうであることに対する気づきが智慧なのであります。


ええ、もちろん、そんなもんではないかもしれませんから、ご注意くださいね。

あくまで、僕の理解です。


俺はやったぞ!

というのが残っている限り、それは、想定された何者かに依存しているのであって、それは必ず対象化されるもののはずなのです。

認識→対象の働きがあって、この対象に自己を投影するのです。

それは例えば識の他に、自己の原因体を見出して、そこに我を投射する等々の方法論でも同じです。

結局は、この対象と自己の働きについて知っていくことこそが重要で、どこまでいっても、対象と自己は不断であって、縁起しているんですね。


これあって、これありです。

そのこれあって、これありから外れたところに我がいるのではなく。

我は、これあって、これありなのです。

そうして、その外界と自己との抵触している、こころ、こそが涅槃の行き着く場所です。

実際に、事実のことで、このことは成すものではない。


だから誰にとっても、同じように、もう、そうであることなのです。


どうもはっきりした表現ができていません。

問題にしたいのは、自己を超えた自己を想定することです。

そんなものはありません(爆笑)

ここにある自然なる事実の移り変わりの内に、私という存在があるだけなのです。

そうして自然と私は分断されていないのです。


これあって、これありなのです。

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