豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

知り得ないものは感じられる

2017-06-02 07:00:19 | 日記
おはようございます。

本日も無事ブログ更新できそうです。

今日も同じように母親の家のパソコンを使用しています。

東芝のダイナブックなのですが、東芝さんが大変なことになっているので微妙な感覚になりますw

まさかの家電業界の大没落が、ここまで深刻になるとは思いもしませんでした。

いつものようにテレビからNHKのニュースが流れている。

トランプ大統領がパリ協定から脱退する決定したと言うお話。

地球温暖化の問題が深刻になっているようだ。

大自然を大切にして山々に神を見た大和の人々のこころは、いつの間にか忘れてしまわれたのだろう。

母親の歩く音がキュッキュとして、皿と調理器具の当たる音がカチカチしている。

時計は今日もハーモニーを奏でており、ひとつがジジジジジジジジジジと時計らしくない刻みを発し、もうひとつが、チッ、チッとゆったりと流れる。

少し肌寒く感じる。


というわけで本日は5時頃に目覚めました。

お風呂に入れてなかったので起きてすぐに入る。

ふう、疲れているw

なかなか年齢のせいなのか疲れがたまるようになっている。

職場の仕事が、違うとこに代って、慣れていないのもあるかもしれない。

バスロマン使っているけど、森林の香りとか透明なグリーンは人の心を新鮮にさせる効果がある。

このような、小さな喜びはストレスの緩和に非常に大切である。


お風呂を出て、すぐに坐禅40分です。

相変わらずの頭の感覚の欠如、顔の左から肩首にかけての麻痺、足の指、そして腹から胸にかけての姿勢の傾斜と詰まりがある。

この、改善は非常にゆっくりとしか、進まず、完全に硬さがとれ、精気が通るのはかなりの集中を持続しないといけない。

しかも坐らないと気付かない。

何かをしている時は注意が散漫になっているので、悪いところに気付かず、そのままにして良いと思ってしまうのだ。

言葉、想念、感覚、動作の4つは、すべて関連していて、ひとつが悪ければ、全体に影響する。


で、座禅を終えると読書ですね。

ゲオルギー・イワーノヴィッチさんのベルゼバブの孫への話という渾身の一作ww

この人の本は、とても好きだ。

若いころから、ずっと親しんでいるが、なんというか純朴さのようなものが素朴さのようなものがある。

その感じられる『質』

思念的な世界で理解するものではなく、深い感情で受け取るものであろう。

今回は宗教を利用して、生物の生贄の習慣を根絶していく話の第2文明版。

天国と地獄の話があり、その天国へ行くかどうかを判断しているのは、動物であると広めた。

そのことで人々が、今度は牛やロバに平伏しだすという、皮肉な笑い。

まあしかし結果的に、人間の悪行が、沈静化していくことで調和が世界にもどってくる。

このように実質の効果が問題であり、その人々が理解していなくても習慣的によいことを自然とできるように宗教が働いているのかもしれない。

わからないけどねw

生活の質の向上に、我知らずして貢献している可能性はあるだろう。

初詣やお盆の墓参りも、なにか、計り知れないものに触れる機会ではある。


で、ブログの更新へと来たのでした。

さて、ここのところは慈悲とかハートの問題に展開している僕の精神世界探求でありますが、たぶんここで最終のはずw

ここでちょっと今日は、変なことを書いてしまうかもしれませんが慈悲についてです。

慈悲心というものは、自分の感情のことではありません。

この慈悲は、あくまで『仏の』慈悲なのであり、自己の本質(潜在した意識)のなかに、この仏との繋がりができることなのです。

それは自己の背後にあり、この世界が実質、仮の物であり、無常であり無我であるとの理解が生まれた時、自己のリラクゼーションと共に現れる、心底安心する、その包み込む慈愛のパワーです。

だから普段の意識の中で善悪を判断して後悔したり、自尊心を満足させたりしかできない、普段の感情生活と、繋がりはしますが、それそのものではないのであります。

自己の慈悲など所詮は知れています。

人間は収入や権威や暴力には、圧倒的に弱く、それらの損得勘定の中で自尊心や自己愛を守るために、感情を働かせて、恐怖する。

そして、恐怖から怒りが湧き、怒りから自己破壊が起き、普段ならしないようなバカげた暴力を使うのである。

しかし、逆に、こんどは、このことに深く深く罪悪感をいだき、この凡夫である私は、なんと情けないだろうと、方向性を変えて、相手ではなく自己に対する非情なる暴力的行為へと走る。


ここでいくら慈悲といってみてみ、己のコントロールする慈悲は、思いやりは、繊細さは限界があるのである。

なぜなら、それは常に忍耐、葛藤の世界へ落ち込むからだ。

相手を立てれば自己が死に、自己を立てれば相手が死ぬ。

そのようなものを超越させるのは、この絶対的生命の実物を包み込む、仏の慈悲、生命の奇蹟、愛の力、そのようなものなのである。


この慈悲は、心を清浄にすることで現れるが、清浄に執着するものを不浄という、この言葉を知っておかなければならない。

つまり心清浄とは、抱えているものが奪われた状態なのである。


これらは日常の中で普通に、現れていることで、どこか思念的な理解の中にあるものではない。

いつでも、どこでも、ここでも、あそこでも、常に心の鏡の内容物が、その心から現れ出てくるのである。

これを円鏡の世界、つまり熱も光もない太陽と言うのだ。


この円鏡の世界が真っ白な光に包まれているわけだが、それは、先ほどの潜在意識(本質)の中に現れる『仏の』慈悲による。


つまり、この慈悲、もしくは良心といわれるものは、罪悪感とは全く、完璧に、絶対に関係が無い。

道徳とも考えとも社会常識とも関係が無い。

もっともっと広大な、計り知れない、何か。

人間の知り得ないが、感じ取ることはできる、それなのです。


そして、ここで、心が、任せきりになるとき、つまり自分を手放すときに、相手と自己をふたつ、同時に、連なってみることも可能となるかもしれない。

そこが、宗教の要だろう。

結局、誰かが朝「おはよう」といい、また相手が「おはよう」と挨拶する、その時の境、つまり二つから、一つが連なって、まるっといったいの生命の実物を生き、そこにいることだけなのが、救いになる。

それは想念の世界にはない、事実の、この日常の平凡な触れ合いの中にある。

悟りには、なにひとつ、特別なものなどは、ないはずなのである。


てことで、昨日は、道が渋滞していて、数分遅刻してしまったので今日は早めに出社しまう(汗

まったねー!