「撮ることと観ることの緊張関係は永遠に決着をみることのない血なまぐさい闘争の場として、われわれの周囲を埋め尽くしている」という1969年の書評の結びの言葉は、なおも現実たりえている。
という、蓮實重彦著の「ゴダール革命」。
これだけだと、盗作に近い書き込みになるから、私はこれを引用として機能させるために、本日中にある画像を載せたいと思う。
これでどうだろう?
順に解説してエクスキュート’sして行こう。
①時間(カギ)
つまり、この時間こそ「カギ」なのである。ミソである。
映画は畢竟時間の産物なのである。
撮影だって、上映開始だって、時間時間時間である。勿論、上映時間が一番のミソ。
②音(ベル)
この()←カッコの点け方は、例えばであるが。
とりあえず、後述するが、映像と音があってこその映画だと、世のたそがれは流通するが、
映像と音など、所詮、記憶である。映画体験は記憶と上書きの闘いであるがゆえ、
映画を映像と音だと括るのは止したい。映像と音から、そこからだけで映画は始まるだろうか?
そうではないだろう。
③光(ライト)
この(ライト)は権利と云えよう。ま、いいんだけど。
私が光と呟く時、それはオブジェクトとしての光ではなく、ひらめきの光、ベクトルとしての光とでも
云えばいいのだろうか?
黒い画面など実は存在しないと、沈黙が実はない(ハートの鼓動があるし、脈打つし)と同じように考えている。それを黒い画面と認識する、流通させようとする瞬間、どろりと横たわり、主観に冒された、
記憶が立ち現れる。問題は観客と人間が交差し、それが間違いなく自分がかつて経験したに違いない、
認識、記憶ではなく、即ち「知識」だというとややこしくなるが、おそらくそんな感じだろう。
④目(カメラ)
ベンヤミンではないが、写真だらけの世の中である。
しかし、写真2枚をなにかしら意味づけよう、配置しよう、縄で括ろうとする時、その瞬間、私たちは
一体何なのだろうか?人間なのか?先取った観客なのか?もしや、カメラなのか??
痛い目を見るという言葉がある。これは体験のことである。
つらつらと書いたが、ここになにかしらの面白さが存在するとしたらこの原因は何なのだろう?
『防犯』、つまり、映画とは「防犯」という名の、自己防衛、転じて『迎撃』なる、素晴らしきおよよなのであった。