発想が鼠

王道回帰

!!!(回答付き)

2005-11-25 07:36:55 | Weblog

「撮ることと観ることの緊張関係は永遠に決着をみることのない血なまぐさい闘争の場として、われわれの周囲を埋め尽くしている」という1969年の書評の結びの言葉は、なおも現実たりえている。

という、蓮實重彦著の「ゴダール革命」。

これだけだと、盗作に近い書き込みになるから、私はこれを引用として機能させるために、本日中にある画像を載せたいと思う。





これでどうだろう?

順に解説してエクスキュート’sして行こう。
①時間(カギ)
つまり、この時間こそ「カギ」なのである。ミソである。
映画は畢竟時間の産物なのである。
撮影だって、上映開始だって、時間時間時間である。勿論、上映時間が一番のミソ。

②音(ベル)
この()←カッコの点け方は、例えばであるが。
とりあえず、後述するが、映像と音があってこその映画だと、世のたそがれは流通するが、
映像と音など、所詮、記憶である。映画体験は記憶と上書きの闘いであるがゆえ、
映画を映像と音だと括るのは止したい。映像と音から、そこからだけで映画は始まるだろうか?
そうではないだろう。

③光(ライト)
この(ライト)は権利と云えよう。ま、いいんだけど。
私が光と呟く時、それはオブジェクトとしての光ではなく、ひらめきの光、ベクトルとしての光とでも
云えばいいのだろうか?
黒い画面など実は存在しないと、沈黙が実はない(ハートの鼓動があるし、脈打つし)と同じように考えている。それを黒い画面と認識する、流通させようとする瞬間、どろりと横たわり、主観に冒された、
記憶が立ち現れる。問題は観客と人間が交差し、それが間違いなく自分がかつて経験したに違いない、
認識、記憶ではなく、即ち「知識」だというとややこしくなるが、おそらくそんな感じだろう。

④目(カメラ)
ベンヤミンではないが、写真だらけの世の中である。
しかし、写真2枚をなにかしら意味づけよう、配置しよう、縄で括ろうとする時、その瞬間、私たちは
一体何なのだろうか?人間なのか?先取った観客なのか?もしや、カメラなのか??
痛い目を見るという言葉がある。これは体験のことである。

つらつらと書いたが、ここになにかしらの面白さが存在するとしたらこの原因は何なのだろう?
『防犯』、つまり、映画とは「防犯」という名の、自己防衛、転じて『迎撃』なる、素晴らしきおよよなのであった。


戦場に架ける橋/チャンピオン/ロード・オブ・ザ・リング 

2005-11-24 01:44:05 | Weblog

『ロード・オブ・ザ・リング』 を観ました。

とにかく物語っているのか、それとも箇条書きを読んでいる(?)のか分からないくらい、映画はポンポン進みました。例えば会話シーンの構成を考えてみても、台詞と構図を同期させているのでは?というくらいです。多少の例外はあれど、会話において「反応」を相手に発する台詞において表現しているとでも云えば良いのでしょうか?なんというか、先取りされている感覚があります。
欠如を隠すために多くの労力、繊細を払ったハリウッド映画の昔、その回答として重要なのは、つまり想定された観客にとっての好奇心は、今何を観ているのか?ということだったのでしょうか?
いやそうでもないだろうというのが私の感覚です。実際、私は今何分経った?と現実の時間を気にし、だからといって映画の世界から冷めたということでもなく、恥を覚悟で言えば、映画と現実を往復し、(あんな)私自身と(くるにこわな)私自身とを往来していたのでした。考えてみれば、早いと感じるのもこの感覚の上に成り立つものであるわけです。


まだやってるmap-kozouです。上記もおざなりになおざりにされ、風雨に晒されたファイルでした。
良かったのはもはや間違っていることをこうやって断罪できるほど、未練がないことでしょうか?

 


世の中に必須なものを自分なりに、今、この場合に思い浮か・・・

2005-11-23 04:18:23 | Weblog

世の中に必須なものを自分なりに、今、この場合に思い浮かぶ限り「3つ」だけ列挙する。

「戦略、交渉、伝説」
でどうだろう?

身近に起きる「事件」の仕掛け人こと、現在大成しかけ人、map-kozouです。

さて、冒頭の3つはそれなりに根拠があります。

 

・・・。根拠を考えて、だいぶ経ちました。(更新日時は8/28だとのこと)


大地真央、井上真央、浅田真央、っちゅ~か思想に興味シンシンの馬追イストに

2005-11-22 12:05:55 | Weblog
君ライコネン?
はあ?
ラブイズオーバーフロウ?

下柳は会話にも参加せず一晩中そんなことを考えながら、ファミレスに居た。となりにはうっとりした、カップルが写真について話し合っていた。といっても男がひたすらに自身の写真論を相手が(といっても女なのだが)撮ったらしい写真にぶつけている。しかし、わからないのはこの文章が誰の主観であり、いやそれが下柳、もしくは下柳の連れ、まったくの他人、これから参入してくるであろう物語に組み込まれた人物であるかが今の時点では判断がつかず、だいたいが主観によって話された、確認、もしくは認識されたものであるかいつまでたっても更新されるがため、結局パワーが優先されるのであるが。

さて下柳の連れがさっきまで話しておった老人について話を再開しだした。こいつは高柳。甲高い声をアピールしたい、安田大サーカスのクロちゃんにも似た風体の男である。

「・・・だってさ。」

聞き取れなかった下柳はイラつきを隠せず、黙っている。と、このあと登場してくる大柳は想像した。



上記も、もはや終末のコトだったのである。

女子バレー、日中首脳会議、動ナビから来ますた、「カミュなんて知らない」、の方に是非

2005-11-21 00:12:06 | Weblog
映画には映画の、小説には小説の、方法がある。
方法とは表現手段とか、表現それ自体を指すのではなく、受け取る側に対して、どのようにその空間に誘うか?ということである。テーマを伝える、我が母校の教えとは即ちそれだったが、テーマとは、何かの意味とか、個々人の問題意識みたいなもんでもなさそうだ。換言して言えばそんなのテーマでも何でもなさそうだ。テーマとはそんな小さな次元では機能しない。愛の意味を伝えたい!と欲すならば、それは映画の中でひっそりと顔を出す、と言ったところだろう。愛の意味を探すことによって、映画に引き込まれ観客になっていく。いやさ、観客になっている時にこそ愛の意味を探せるのだ、ということなのではないか?つまり、映画はテーマを伝えることによって成り立つのではない。そんなことをしたら最初から映画があることを前提にしてしまいかねない。映画なんてない。あるのは映画を観ているという意識だけだ。それを映画と呼んでいるではないか。


以上は、Cドライブにて血迷った書き込みである。週末。
とりあえず、この当時はやんでいた。今は愛の雨が降っているが・・・。果たして、彼は今何をしているのだろう?多分、身体を濡らしているのだろう。私の身体が濡れているのは雨のせいばかりではない。懺悔付き。


B'Z 平和 マラヤン おっぱい 「カミュなんて知らない」 好きの方は是非!!

2005-11-20 09:26:47 | Weblog
映画は、A→A’になることだ。(母校の先生談)

謎である。今はもう聞くことが出来ない。
あの場でないと。もう一度作るには困難すぎる。
場所も、人も、時間もある。
ただ、みっともがない。

ではなんとか考えてみる。

まずAとはなんだろう?
観客自体、を指すならばAキA’の方が正しい。実体験談としては。観客は映画を観ている瞬間毒を盛られている。ぐるんぐるんと頭の中や、いらいらだったりうっとりだったり身体で感じ、それでも!こりゃ映画だと自己みたいなもんを持ちこたえる瞬間があったり、でもいつのまにか映画だとか映像だとかどうでもいーやとなってた瞬間を発見する矢先に、それでも毒の作用か全体が反応しちゃったり、毒の作用を検討しだしたり、いつのまにか毒を再生産するのかと思うと、でも結局毒なんてものはなくて、だから、毒を盛られたと思わなきゃ映画なんて体感するも叶わぬぜと、神様を信じては、いやさ、毒を盛ってでも映画を観てやると考えてるんだけど、毒を盛る前に毒を持った手で涙を拭いて、あ、毒じゃなかったと、呆気にとられる羽目にあい、哀れ人間はそんなに理想的に観客にゃなれんよ・・・と気づかなかった音を探しにまたビデオを引っ張りだしたり、

では多分そうだったろう登場人物Aについてである。
Aに何かがあって、それを体験しAは最終的にどうなったか?が、映画だというのだ。

ま、こんなの物語の次元であるから、そんなの観客に任せてしまえば良いのでは?と言うは易しである。


以上は手付かずの中から見つかった書き散らしである。週末。
とりあえず、書き手の私が推測するに、これはもの凄い勢いで間違っていこうとしていた時期に書かれたものであり、私はこれを「地獄は期せず」と呼ぶ。ランボー(ミナミ)

安藤美姫、ロイ・キーン、ブッシュ、カミュなんて知らない (検索用)

2005-11-19 01:49:12 | Weblog
どうやら「魔法使い」になったらしい・・・。どうもmap-kozouです。
今は取り立てて怒られることもなく、調子に乗ってると云えばそれまでの、
絶好調です。最近風邪に参ったこともあり、人の視線とその強さが和らいだことも
一端だと本人としては解釈しております。
さて、冒頭の通り、「魔法使い」という役職変更の反応がすこぶる良いみたいで、
大変満足しております。

話は変わりますが、「生まれつき」という単語があります。
私は最近まで、フランス語でいうと男性名詞に属すものだと早合点してました。
「生まれ付き」と誤解していたからです。良かった、国会で発言しなくて。

アピチャートポン監督をご存知でしょうか?私は今日も溜池山王でそのイベント
のお手伝いをしてきました。
そこで「アイアンプッシーの大冒険」を鑑賞しました。しっかり観客になりました。
私はミュー髄カル映画という分野に特に興味があります。
詳しく研究したり、分析したりすればするほどつまらなくなるジャンルだと
タカをくくってるからだと思うのですが、いつか改める必要がありそうです。
映画の神様を誰かがシーネマと云うらしいのですが、シーネマ様に目配せしないと
至る所で説教にあうはずだからです。
勉強中という身分の元、可能性だけを拾ってもらって、実際を甘んじてもらうために、
そう決めてみました。
どうでもいいんですけどね、実はのその実際のトコなんて。

今回は三日坊主にするために書いてますので、ユルイですね。
でもでも、大事なのは知ることよりも知っていることなのだと、
結局時間の問題なのか?と新たな話題を提示し、幕を垂らしましょう。
牛の涎のようにゆっくりと、この商売上手!!

誤読/誤植/誤解

2005-11-17 22:16:41 | Weblog
map-kozouなのですが、最近友人から助言をもらったので、その成果を発揮した
いと思います。
といってもそれは、アカウンタビリティーって奴です。

私はブログを書くのに大体4時間強かかります。というか、掛けます。
だから推敲は凄まじいです。故事成語の舞台にそぐわないやかましさで
推して引いて叩いては!って。←あ!正直巧いかも

だから、皆さん、他のブロガーさんの文と同じように、誤植を楽しんで結構です。
ただ条件として、それが仕組まれている!!ってことをご了承のゴリオシーを受け入れて頂きたいと考えてます。

大切な情報に注意も敬意も払えど、それでも誤る、謝り大通りの私ですが、そこは皆さんの勉強にダッコにオンブで、エンターテイメンツァを発揮したいと念じてます。

「柳町マジックに陶酔しました」と本田博太郎さんは「カミュなんて知らない」の撮影を穏やかに語ってました。「柳町マジックに陶酔しました」と「カミュなんて知らない」をご覧になった観客様は顔が晴れやかです。

さて私は、「マジック」だなどとタネとシカケがある技術ではなく、
魔法を使います。
魔法とはタネやらシカケやらそんな土俵の勝負じゃありませんからね。


パイプカットをすれば女になれると思ってた友へ

これで満足でしょうか?あなたの頭の中、コメントが舞ってましょう。
それが決してコメントとして書き込まれることがなくとも、
それを魔法をかけられたと呼ばずして、なんと笑えましょうか?

日本の皆さん、ごめんなさい。これで相撲ものならば。

2005-11-16 23:29:12 | Weblog
map-kozouです。
最近更新が滞り過ぎて、やきもきさせております。

さてこの度、一連の出来事に対して、私自身真摯に受け止め、そして腹を括るため、『カミュなんて知らない』学生宣伝部の「新リーダー」という看板を返還することを決意しました。

といっても、看板の返還先がスタッフルームでよいのかどうかわからないので、年寄名跡証書のように紛失という形で再発行を願い出ることにしました。勿論、学生宣伝部の皆々様にはディープインパクトとなりましょうが、私にとってG1とは、夏男蝶野選手宜しくの、新日本プロレスでしかないわけで、がが!、蝶野選手が言うような、この団体は腐ってるというのとは別で、生産的な介錯をお願いするのであります。
『手となって、足となっても、クビになり』とはサラリーマン川柳でも詠まれて久しいですが、とりあえずそれをタンカ切りするに、続けて「身をもって知る、人となり」と。
まったく痛恨のオシャレです。

ま、といっても学生宣伝部から撤退することはありません。
そうそう、つまり学生宣伝部の皆々様、これを読んでる「カミュなんて知らない」イベント化渦中者の皆々様に申し開きしますと、結局、二匹目の土壌はないということになります。

・・・。ま、トンのチンカンな書き込みを強引にまとめ、省略しますと、
ダンチョウのオモイ重責を担うことになりました!!ということです。
これが分かるのは未来人だけとなりましょう。

栄華の面白さを哀れコウセイに預ける方々に、ひとまずの宣戦布告であります。