咲いた万歩

さいたま市在住。 デジカメ片手に、四季折々の花木草を眺めつつ、 万歩ウォーキングで健康な日々。

北浦和駅の北にある人道跨線橋

2017年11月23日 | 日記
平成11年浦和市発行『浦和市史第五巻現代史料編Ⅰ』に掲載の市内の鉄道交差路で、北浦和~与野駅間を見ると跨線橋が3本ある。
昭和50年の空中写真を見る。
3本の跨線橋はこの3本(①②③)だと思う。

①付近を拡大する
黄で示した道は現在のこの道(黄)だと思う。跨線橋は見えない。
現在の地図に黄で示す。
11月10日、私は北浦和駅西口から与野駅西口まで線路沿いの道を歩いたのだが、赤矢印方向に寺前地下道西口を見た
①の寺前跨線橋は寺前地下道に変わっている。「市報さいたま(浦和区版)」2004年6月1日号には開通は2004年6月18日とある。区報の(火)は金曜日と訂正されている。

寺後跨線橋②と中山跨線橋③は現在地図のここだと思う。
寺前、寺後の「寺」は廓信寺のことではないかと私は思う。中山跨線橋の「中山」は中山道(国道17号)のことかも知れない。

先日、私は寺後跨線橋の橋歴板のようなプレートをアップした。この跨線橋は1967(昭和42)年3月に完成したのだと思う。
また、中山跨線橋でもプレートを見た。完成した年月は寺後跨線橋と同じだった。この二つの跨線橋は姿かたちもよく似ている。
昭和41年の空中写真に寺後跨線橋と中山跨線橋の場所を赤丸で示す。跨線橋が建設される前は踏切があったと思う。

北浦和5丁目自治協力会ホームページから(北五の紹介・歴史)五丁目探訪2を開くと北五地蔵の由来が案内されている。そこには “ 中山踏切り、通称「寺先踏切り」と呼ばれていた踏切りで、事故が相次ぎ発生し、多くの方が亡くなったそうです。 ” という記述がある。
踏切が廃止され、跨線橋が建設されたのには事故防止の目的が大きかったと思われる。

しかし、寺後跨線橋と中山跨線橋の建設については事故防止の目的とは別に、武蔵野線大宮支線の建設があったと思う。
11月11日ブログで私は中山跨線橋の上から武蔵野線大宮支線の中浦和方面を見た。線路は地上から地下トンネルへ入っていく。ここに踏切があってはならないのである。
先日、私は京浜東北線南行電車から中山跨線橋を見た。
寺後跨線橋を見た。

コメント (4)
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