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源清麿・源正行・山浦環正行・一貫斎英壽・(四谷正宗)

2006-01-22 01:38:31 | 刀工
 弘化年間、武蔵の国の人。
 江戸時代後期に登場した天才刀工。
 信州小諸赤岩村の郷士山浦信風の二男として生まれる。
 内蔵助環(くらのすけたまき)といい、号を一貫斎と称した。
 はじめ、兄山浦真雄(やまうらさねお)とともに上田の藩工河村寿隆(かわむらとしたか)の門に学ぶ。
 最初の作刀は兄との合作の脇差で、文政十四年十八の時と言われる。
 初銘を「正行」と切り、次いで師である寿隆が自分以上の才能があると見込んで与えたと言われる「秀寿」を切ったが、「秀寿」銘は天保五年に一度切ったのみと言われる。
 天保五年(六年とも言う)に武士を志し江戸に出、幕臣の軍学者窪田清音(くぼたすがね)の門に入り剣を学んだが、清音は刀鍛冶師としての逸材と知り、後援をし刀鍛冶師として世に送り出した。
 もともと兄真雄は、一流の剣士で武器目利きにこるも満足のゆく刀に中々出会えず、自らが槌を取り刀を鍛える以外にないと転身した異色の刀鍛冶であった。そのような真雄に幼少から仕込まれた清麿の剣は、一級であったといわれている。その剣の道を断念させてまで刀鍛冶に戻させた清音は、まさに慧眼の持ち主であったといえよう。
 天保十年、清音の肝いりで武器講を作ったが、結局「武器講一百之一」を作ったところで、二は出来ずじまいであった。清麿謎の失踪である。その後、江戸に戻り再び舞い戻り寡作ながら優れたものを残した。
 
 正行が清麿と改名するのが、弘化三年でこの年の作刀には、正行銘・清麿銘の両方が存在する。
 
 清麿はその居住地にちなみ、四谷正宗と賞賛された。
 しかしながら、安政元年十一月、四十二歳で自刃しこの世を去る。
 酒毒に犯され腕が利かなくなったためとも言われるが真相はわかっていない。
 作風は相州伝に限られるが、豪壮なものが多く刃文は大互の目乱・互の目丁子にて砂流し、金筋がかかる。特に金筋の絶妙さは到底他工の及ぶところではない。
 また大慶直胤とは異なり、その切れ味の鋭さにも定評がある。
 
 銘は「山浦内蔵助英壽」「源正行」「山浦環正行」「源清麿」「清麿」「一貫斎英壽」。

 現在、その峻烈な生涯もあり異常なほどの人気を誇っている。


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