シェムリアップ死後の書🌴

憧れのパワースポット、シェムリアップで死後のことを考える日記。

百千億那由他ある宇宙の内の

2015年03月25日 23時47分26秒 | 日記

百千億那由他ある宇宙の内の、法蔵比丘の作った極楽浄土に、往生できた人間は、過去に人間界にあったとき付随していた自分の身体に執着のあるものはいない。

十願/四十八願

「たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天、もし想念を起こして、身を貪計せば、正覚を取らじ。」

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一人相撲 かっての村上海賊の本拠地 で行われる神事

2015年03月22日 15時25分58秒 | 日記

大三島の大山祇神社  一人相撲

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我曰く  <救われたものは信じる>

2015年03月21日 06時59分09秒 | 日記

「本願を信ずるとは、本願に対して信心することではない。ひとえに本願のこころをいただくほかないのである。」歎異抄

自身で本願を体験することのみにより、本願を信じることが出来るようになるのである。

本願を体験して救われることでしか、本願を信じる方法はないのだ。

我曰く、<救われたものは信じる>

「金剛堅固の信心の、さだまるときをまちえとぞ、弥陀の心光摂護して、ながく生死をへだてけるとはさふらへば、信心のさだまるときに、ひとたび摂取してすてたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかればながく生死をばへだてさふらふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。」歎異抄

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歎異抄 念仏とは、人間の知恵で推しはかることが出来ないものだ

2015年03月19日 19時25分40秒 | 日記

念仏というと、世間では何かそうとうの誤解があるようだが、念仏のちゃんとした意味を説明する文章を下記に記すが、いかんせん<念仏そのものの具体的内容>が分かるように書いていないので、先に、藤原祖先が分かりやすく言っておくことにする。(詳細はこの過去ブログ参照)

念仏とは、仏と会うことである。自分の魂が頭の頂点から抜け出て、大音響の名号と光の無上の上昇道を通り、人間界から遠く離れた浄土に一瞬の間で行き、仏に会って挨拶をしてくることである。これはもちろん他力(法蔵菩薩の本願力)であり、自力ではすなわちこんなことは出来ないだろう。この一連の行為を真宗では念仏と称しているようだ。また、この一連の行為は、人間の魂が単独で行うことであり、付随する人間の身体がおこなうことではない。ましてや、死んだ他人を供養するような行為でもない。

歎異抄

ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆへに

念仏は

義(はからい)がないのが(義)はからいである。

不可称・不可説・不可思議のゆえに、人間がはからうことが出来ない。

歎異抄 解題

しかるに念仏は本願(法蔵菩薩の48願 参考http://www.higashihonganji.or.jp/sermon/shoshinge/shoshinge05.html Ps.藤原祖先は、東本願寺とか真宗とかその他宗教関係にはまったく関係ありません。ただ参考のためのアドレスです)の行いであるということは、即ち浄土への行であるということである。衆生に対して念仏せよと願われる如来の大悲は、我らを浄土にあらしめたいからにほかならない。これによって念仏は往生浄土の行といわれるのである。その往生とは人間業の世界から悲願の浄土へと帰入することである。それは彼岸の世界から招喚されゆく道である。その往生の行において浄土の徳は人間の世界にと現れる。我らは念仏によって、不安の生死の中にありつつ、仄かに涅槃の安らかさを感じ、愛憎の動乱の中にありつつ、自他平等の立場を思い知らしめられるのである。

かくして念仏は如来の本願力を現実に人間にあらしめるものである。それは即ち如来の本願は人間に念仏として行われる時に成就するということである。人間の理想は如来の本願を信ずるほかに成就する道はない。そして如来の本願もまた衆生の念仏となってのみ成就するのである。ここに如来と衆生との言わば約束ともいうべきものがあるのである。我らは如来に帰命してのみ人間であることができ、如来は我らを摂取してのみ如来であることができるのである。よって本願はまた誓願といわれる。誓いとは約束するものである。念仏は南無するものと阿弥陀仏とを約束するものである。それによって、その念仏して往生する浄土を「報土」という。報土は即ち誓願の世界である。そこは如来と往生人との同証する世界である。即ち「仏となる」ところである。その約束を成就するものは本願であり、その約束を行証するものは念仏である。「誓願の不思議によりて、やすくたもち、となへやすき名号を案じいだしたまひて、この名字をとなへんものを、むかへとらんと御約束あることなれば、まづ弥陀の大悲大願の不思議にたすけられまいらせて、生死をいづべしと信じて、念仏のまうさるゝも、如来の御はからひなりとおもえば、すこしもみづからのはからひまじはらざるがゆへに、本願に相応して実報土に往生するなり」(第十一章)の語彙ふかく味わうべきである。

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保元の乱って?なにがどうなっているのか説明出来る人っているのですか?

2015年03月16日 15時00分52秒 | 日記

さっぱりわからないね・・・

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鴨長明の遺言 最後の3行

2015年03月12日 19時10分38秒 | 日記

発心集 第八 (跋) ←あとがきのこと

方丈記と打って変わって、この発心集あとがきは、悲壮感が漂う小難しい作りとなっている。

あとがきの最後の3行

しかればすなわち、現世の諸々の望みこそ、仮の方便とこそ知らしめ給はめ。出離生死を祈り申さんに至りては、いかでか、化度の本懐をあらわし給はざらん、と覚え侍るなり。

訳 藤原祖先

現世のいろいろな望みは、仏が衆生にお示しになる、すなわち、ある人が、これをしたいあれをしたいという希望、意思については、多かれ少なかれ、仏が関与をしているということ。まして、我々が出離生死(すなわち、生死の輪廻を離れて出る往生のこと)を願って祈ることにいたっては、阿弥陀仏の本願が関与している。

我々人間は、仏の教え導く大河の流れの中の泡のような存在であると。鴨長明最後の遺言。

 

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そして、よくある、親鸞などの浄土宗浄土真宗系の教えでは、天上界では楽すぎて悟れず、修羅、三悪道は、苦しすぎて悟れず、人間界のみが悟りを開くことが出来るようだ。長明も、そんなことも言っている。

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六道輪廻からの離脱  鴨長明流

2015年03月10日 07時10分14秒 | 日記

「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」!

この絶妙な表現。

まさしく、この世における、輪廻を表すとも思える、鴨長明一流の哲学的表現。それも800年前の!

川を、俯瞰すると、全体では絶えず流れて見えるが、なおかつ、その水の粒子を取って見ると、独立して流れている。その粒子は、他とは違うのである。

マクロとミクロ、全体の一部でもある粒子が主体性を持った一部分としても動いている。

六道輪廻も、魂が、輪廻という、荒波にもまれながら、自主性を保って動いている。

鴨長明は凡夫といえども、真理を語っている。この真理、人は、無常とも無常観とも言う。

そして鴨長明は、六道輪廻から離脱しようと思うことを発心と言い、心に往生を深く願うこと、すべて自分自身の意思から始まることなのだとも言っている。

我々個人の自主性のことだ。  

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 ちなみに、スペルマバーグが、六道輪廻から離脱したいと、真剣に考え始めたのは、22歳の頃で、なにか、予感めいたものを感じつつ、翌年の23歳になる前の夏、ハワイ大学のドミトリーで、突然に、往生しました。それからもう30年以上たっていて、最近やっと、公言できるようになった。

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死ぬまで往生できなかった凡夫の鴨長明

2015年03月02日 22時15分18秒 | 日記

死際迎えが来たのかどうかは不明。

方丈記最後の謎の言葉「不請阿弥陀仏」  藤原祖先が解説すると

文字通り阿弥陀仏の来迎を請けていない凡夫であるのが鴨長明だということ。

ゆえに彼の言うことは百人中百人の人間に分かりやすいだろう。

救われていない人間は信じることができないのが世の常、常識。

救われた者は信じることができる。それは救われた人間にしか分からないこと。

凡夫とは悟っていない救われていない人間のこと 

悟っていない救われていないとは、阿弥陀仏の元に往生していないこと。

往生していないとは~このブログの過去ブログを読んでね。

きっと救われた人間のことが理解できるから。

いらないことをいっぱい書いてまぎらわせてあるので見つけるのがたいへんかもしれません。

 

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方丈の宿り  人間らしく心自由に生きるには

それ三界はたゞ心一つなり。心もし安からずば、牛馬七珍もよしなく、宮殿樓閣も望みなし。今さびしきすまひ、一間の庵(いほり)、みづからこれを愛す。

ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(ためし)なし。世の中にある、人と栖(すみか)と、またかくのごとし。
たましきの都のうちに、棟を並べ、甍(いらか)を争へる、高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。あるひは去年(こぞ)焼けて、今年造れり。あるひは大家(おほいえ)ほろびて小家(こいえ)となる。住む人もこれに同じ。所も変らず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中(うち)に、わづかにひとりふたりなり。朝(あした)に死に、夕べに生るるならひ、ただ、水の泡にぞ似たりける。不知(しらず)、生れ死ぬる人、何方(いずかた)より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰(た)が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主(あるじ)と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。あるひは露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。あるひは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕を待つ事なし。

 人を頼めば身他の奴となり、人をはごくめば心恩愛につかはる。世にしたがへば身くるし、またしたがはねば狂へるに似たり。いづれの處をしめ、いかなるわざをしてか、暫しもこの身をやどし、玉ゆらも心をなぐさむべき。

3/5撮影

 

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