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竹島の未来 

2012-08-11 17:22:08 | 日記

獨岛(日本称竹岛)


 「歴史を知らない国に未来はない」とソウルのロンドン五輪のサッカー応戦広場の司会者は、反日めいた発言をしたと報道されています。しかし、韓国も誤解の歴史を知りすぎて未来が見えなくなっているようにも思えます。そして、なにか、日本では、本質的な議論が避けられているような気がしませんか。J

 日本政府は8月11日、韓国の李明博大統領が日本の中止要請を無視して竹島を訪問したことを受け、竹島の領有権問題を国際司法裁判所に提訴する方向で検討に入りました。玄葉外相は「遠くない時期に国際司法裁判所で日本の主張を明確に行うことで、国際社会に日本の主張を分かっていただく必要がある」と語りました。P

 しかし、国際司法裁判所の紛争解決手続きには韓国政府との合意が必要です。日本政府は1954年と1962年にも国際司法裁判所への付託を提案しましたがいずれも拒否されています。日本が本気で解決するためには、韓国政府を説得することが必要です。慰安婦問題で憲法裁判所の判決が出ている韓国では、日本軍慰安婦問題とセットで国際司法裁判所への付託を日本側が提案すれば、必ず韓国は動くはずですが、そうした本気で抜本的な解決をしたいとの思考は日本政府には、残念ながら見られません。どうやら、歴史にこだわり未来志向をしないのは韓国だけではないようです。

 日本政府は駐韓大使を緊急召還しました。李明博大統領の暴挙は、2010年11月1日にロシアのメドベージェフ大統領(当時)が日本の北方四島に上陸したことを模倣したとも、任期が約半年となり親族や側近の不正疑惑で低迷する支持率を打開するパーフォーマンスだとも「外に敵を作る」という安易な手法とも言われ、オリンピック最中の李明博大統領の「愛国ショー」だとの声まで日本では挙がっています。

 しかし、日本は、地形的にも、歴史上でも中国の一部であった領土を、無占有だとして実効支配を開始したことで自国の領土として今日主張しているわけで、竹島への主張は自己矛盾ですよ。韓国は、日本の尖閣諸島への実行支配と同様にずっと竹島を実効支配しているのですから、日本が竹島の領有権を韓国に主張することとは、中国の尖閣諸島(釣魚島)への対応と比較すると、あまりに矛盾した態度ではないですか。どうして、日本は尖閣諸島については、竹島のように国際司法裁判所の提訴を主張しないのですか。実効支配しているから、そういう態度のなのですか?。J

 冷静に考えてください・・。尖閣諸島の問題は別にして、韓国でも日本でも、日本の竹島の対応が矛盾などと論理的に考える以前の誤解と感情論ばかりが飛び交う状況です。ネットなどでは、前提条件である正確な歴史の理解もされているとは、とても思えない誤解があります。

 現在の「竹島(韓国名・獨島)」は、日本ではかつて「松島」と呼ばれ、逆に韓国領の「鬱陵島」が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。また、韓国の鬱陵島の5km程の近くに韓国領の「竹島」(竹嶼)という島も存在しており、韓国や日本のネットの主張は、一部に混乱が見られ、事態を本当に分かりにくくしています。P

「竹島(韓国名・獨島)」は韓国領の「鬱陵島」から、92km離れている日比谷公園程の面積の2つの小さな岩島です。よく誤解される《旧名・竹島》=「鬱陵島」は朝鮮半島から115kmの海上にある大きさも70Km2ある火山島で従来は農業が主体で、現在は観光と漁業の韓国領の島です。また「鬱陵島」すぐ近くの【韓国名・竹島】も韓国領ですが、これもよく誤解されています。これらの《旧名・竹島》も【韓国名・竹島】も日本国政府は、韓国領と認めているのです。日本が領土と主張する「竹島」とは、今の韓国名では「獨島」です。

「鬱陵島《旧名・竹島》」は西暦512年以来、各朝鮮王朝の支配下にありました。「鬱陵島」にはかつては于山国という国家があり、高麗時代は移民が進められました。しかし、李氏朝鮮(1392-1910)は、この島が高麗復興派や倭寇の根拠地となる事を恐れて立ち入り禁止とし「鬱陵島」への渡航を禁じました。この渡航禁止政策は1438年から1881年まで続けられています。

 韓国では「竹島(韓国名・獨島)」についても「鬱陵島」同様に512年以降、朝鮮領に組み込まれたと主張しています。1402年に作成された李氏朝朝の地図には「鬱陵島」がもう記載されています。李氏朝鮮の『新増東国輿地勝覧』(1531年)に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。韓国は当時の于山国には「鬱陵島」と「于山島」の両島が含まれると主張しています。しかし、この于山国の地図の「于山島」は、「鬱陵島」とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と「鬱陵島」の間(島の西側)に記載している等、誤った記載でした。そのことを持って、日本は「于山島」=竹島(韓国名・獨島)論に疑問を主張しています。これは単に誤った記載と理解できます。しかし、この誤りをもって韓国の主張を全面否定できるものではないはずです。

 17世紀初頭、伯耆国(鳥取県)米子の海運業者だった大谷甚吉が、航海中に暴風に遭い、「鬱陵島」に漂着しています。そのころから日本では、李氏朝鮮の領土とは理解せず「鬱陵島」は無占有の無人島とみなして「竹島」や「磯竹島」と呼ぶようになり渡航します。1618年、日本の鳥取藩の人々は、徳川幕府から「鬱陵島」渡海免許を受けていました。「鬱陵島」に行く波路にある「竹島(韓国名・獨島)」は漁業地として活用しました。また「鬱陵島」に行く「停泊場」としても利用して、あしかやあわび捕獲の良い漁場でした。これに気づいた李氏朝鮮の東莱府は1614年に対馬藩に対して抗議を行っています。この祭、対馬藩は「鬱陵島」を日本領であると主張したともいわれてますが争いや交渉の記録はありません。
 
 その後1635年、鎖国令で国外渡航を禁止した江戸幕府でしたが、「鬱陵島」と「竹島(韓国名・獨島)」に対しては渡海禁止措置を取っていません。江戸幕府は「竹島(韓国名・獨島)」に対する渡航許可も1656年に出しています。

 しかし、1692年、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事していることが確認され、1693年には、「鬱陵島」で魚類を採取していた朝鮮人漁民2人を日本に連行し、李氏朝鮮に漁民の「鬱陵島」渡航禁止を要求する交渉を対馬藩は始めますが「鬱陵島」を領土としていた李氏朝鮮と決裂しました。江戸幕府はその島に日本人が住んでいないこと、さらに地理的に因幡からよりは朝鮮からの方が近いことなどを考慮し、朝鮮との争いを避けることにしました。日朝間の外交交渉は、釜山の倭館を舞台に3年間続けられ、「兵威」を用いて竹島(鬱陵島)を日本領にする案もあったが、結局は竹島(鬱陵島)を実質的に放棄することとなります。江戸幕府は1696年1月「鬱陵島渡海禁止」を決め、これを朝鮮に伝えるように対馬藩に命じています「竹島一件」。(しかし、日本側は、江戸幕府の命令は「鬱陵島」に行く「停泊場」としての「竹島(韓国名・獨島)」の禁止までは言及したものではないという詭弁的主張により、江戸幕府は「竹島(韓国名・獨島)」に渡航禁止をした記録は見当たらないとしています。)しかも1810年に江戸幕府が制作した世界地図「新訂万国全図」では東海(日本海)は、まだ「朝鮮海」と表記していました。1850年に制作された日本の本邦西北辺境水陸略図でも、まだ「朝鮮海」と表記され、鬱陵島(莞陵島)と独島(千山島)の記載がありました。日本百科事典の江戸大節用海内蔵(1863年)に収録された朝鮮国の図でも鬱陵島(爵陵)と独島(子山島)は、まだ朝鮮国の領土と表記していました。

 1881年に、李氏朝鮮は長く実施していた「鬱陵島」に対する渡航禁止政策を放棄します。同年、李氏朝鮮政府は「鬱陵島」で日本人が伐木しているのを発見し、明治政府へ正式に照会して「鬱陵島」渡航禁止を日本に要求しました。明治政府外務省は、すでに松島開拓問題(1876年)で「鬱陵島」は朝鮮領と認めていました。明治政府の内務省が1877年3月20日に出した通達では、「鬱陵島」とほか一島が朝鮮の領土であることが明記されていました。韓国は、この「ほか一島」が「竹島(韓国名・獨島)」であると主張しています。

 松島開拓問題とは日本で1876年に武藤平學が自然資源が豊富な新島を発見したと騒ぎたて、外務省に「松島開拓之議」を提出した事件です。(当時、日本では「鬱陵島」を「竹島」と呼んだり、「于山島(獨島)」 を「松島」と呼んだことや、西欧地図の誤記等もあり、当初混乱がありました。)そして、日本の調査の結果「松島は鬱陵島にして、その他竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざるを知り」と結論づけ、「鬱陵島」は李氏朝鮮領土と確認し「竹島(韓国名・獨島)」は岩石と確認しています。そのため当時の明治政府は江戸幕府時代と同様に「鬱陵島」への渡航を禁止し、1883年、同島に在留していた日本人を強制的に連れ戻しています。(こうした、江戸幕府や明治政府初期の明確な対応を今日の日本の主張では無視する傾向があります。)


 1900年には「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵郡が管轄する地域は「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は「鬱陵島」の近傍にある「竹嶼」という小島であるものの、当時大韓帝国が規定した「石島」とは、まさに現在の「竹島(韓国名・獨島)」を指すと韓国は主張しています。(一方、日本はこの「石島」=「竹島(韓国名・獨島)」論に疑問を呈しています。)
 
 1905年1月、日露戦争で旅順陥落を日本が行った頃、明治政府は無人島として「竹島(韓国名・獨島)」を島根県に編入し日本の領土としています(海図等では欝陵島が「松島」と既に表記されているため日本で欝陵島の呼称であった竹島の名称を獨島に使用し、日本では島名が入れ替わりました。事前に日本の軍艦新高は現地調査を行い、「韓国人は獨島と書き、日本の漁師らはリアンコ島と呼んでいた「竹島(韓国名・獨島)」を確認しています。この編入は無主地先占論に基づく領土化と日本側は主張しています。)P (ここでも、ひとつの疑問が生じませんか?。日本は島根への編入当時、獨島という島の韓国名を事前に確認しています。既に韓国名がついた島であったことを知りながら、無占有・無主地として「先占の法理」を日本が持ち出すことは、釣魚台(尖閣諸島)でもそうですが、明らかにおかしいと思いませんか?。日本では無名の島ですが、韓国は無名の島ではなかったのです。日本では「リアンコ島」と呼称された無人島ですが、韓国では正式名称があったのです。国際法上の「無主地」として「先占」の対象になる島は、無人島であるばかりでなく、通常は無名の島です。れっきとした名称がついている場合は、無人島でも名称をつけた国が発見した領土であるのが一般的です。J)
 
 確かに、韓国政府は、この明治政府の一方的な1905年の「竹島(韓国名・獨島)」の島根県編入は当初非公開であって無効であると主張しています(でも非公開とは言いすぎで日本では当時の新聞にも掲載されました)。しかし、日露戦争勝利後の1906年に「竹島(韓国名・獨島)」が島根県に編入された事実を初めて知らされた韓国は反発し、抗日運動も起こっています。しかも、日本は朝鮮半島の権益をめぐって始めた日露開戦と同時に朝鮮半島に軍事出兵し、事実上、朝鮮半島を軍事占領下に置いています。1905年9月に日露間でポーツマス講和条約が結ばれ日本の勝利が確定すると、日本は11月に韓国に第2次日韓協約を強要し、大韓帝国は外交権を奪われて日本の保護国となっています。(大韓帝国は、1906年に「独島が日本の領土というのは全く根拠がないことだ」として、事実関係をさらに調査するよう指示もしましたが。すでに外交権を日本に剥奪された状態であり、いかなる外交的抗議もできず、大韓毎日申報(1906.5.1)と皇城新聞(1906.5.9)等が、日本の独島編入措置の不法性を報道しただけだったと韓国側は主張しています。)

 その後、大韓帝国を保護国とした日本は、中国の間島に警官派出所を設置、間島の朝鮮人保護の名目で(清国の裁判権や課税権を排除する方針を採り)中国に進出しますが、1909年には清国と交渉の結果、日本は間島の権益と領有を清国に売り渡し朝鮮人保護の名目を捨て去りました。そして日本は1910年に朝鮮半島の領土を併合してしまいます。

 日本では明治時代初期から征韓論が盛んにあおられ、韓国領である「鬱陵島」への「停泊場」や漁業の足場としてしか利用価値のなかった岩島にすぎない「竹島(韓国名・獨島)」をあえて、島根県に編入した日本の当時の行為は、その後の間島での朝鮮族への日本の裏切りや、朝鮮半島併合で日本帝国の朝鮮植民地化を図った、朝鮮侵略へのさきがけとも取れる行為ではありました。こうした当時の歴史認識との関連についても、今日の日本の主張では無視する傾向があります。(一方、日本では、侵略へのさきがけなどではなく(たまたま朝鮮半島への軍事出兵と時期が重なるだけで)、当時盛んだった日本海のアシカ漁の中間基地として将来的に有望になるという漁民の請願を受け入れた形で、領土化を図って島根県に編入したと認識されています。)

 日本の敗戦時、アメリカGHQがが、「鬱陵島」、「竹島(韓国名・獨島)」を、沖縄や小笠原諸島と同様に、日本の行政権から外させます。(GHQはSCAPIN677号をもって、「日本の施政権が及ぶ地域と及ばない地域」を定め、欝陵島、竹島・獨島、済洲島、琉球列島、伊豆諸島、南方諸島、小笠原、硫黄群島、沖の鳥島、千島、歯舞群島、色丹島を挙げています。日本が行政権を失ったSCAPIN677号には、「竹島(韓国名・獨島)」が含まれていたことについては日本が否定できない事実です。GHQ判断の背景には旧日本陸軍参謀部が、竹島を“朝鮮区域”に入れた「地図区域一覧図」があったと言われます。

 しかし、1947年9月16日付けSCAPIN第1778号では「竹島(韓国名・獨島)」をアメリカは、極東空軍の射爆場として指定し活用します。当該射爆場の使用は、日本の文民当局を通じて隠岐及び本州西部の住民に通告した後にはじめて行われるとも規定されました。そして、韓国政府がアメリカに対して出した日本占領後の政策に対する要望書に対して、1951年8月10日のラスク書簡によってアメリカは「竹島(韓国名・獨島)」は日本の領土という従来とは真逆の意向が韓国政府に示されました。

 従って、1951年にアメリカとの間で結ばれたサンフランシスコ講和条約において、日本国は、朝鮮の独立を承認して、済洲島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄しましたが、その中に「竹島(韓国名・獨島)」の名称はなかったのです。ヴァン・フリートアメリカ大使の帰国報告でも、竹島は日本の領土であり、サンフランシスコ平和条約で放棄した島々には含まれていないというのがアメリカの結論であるとされます。

しかし、サンフランシスコ講和条約はアメリカとの単独講和ですので、韓国を拘束するものではありませんでしたし「竹島(韓国名・獨島)」が日本に復帰すると明確に記載したものでもありませんでした。そもそも韓国は日本と戦争状態にあったことはなく、戦時中の連合国共同宣言にも署名していないとの理由で連合国との平和条約への署名は拒否されています。
 
 李承晩韓国初代大統領は、「竹島(韓国名・獨島)」が日本領とのアメリカの意向は認めず、SCAPIN第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって、太平洋戦争終戦後の日本漁船の活動可能領域が定められたマッカーサー・ライン(その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記されていました。)を踏襲して、1952年1月18日、いわゆる「李承晩ライン」を設け、「鬱陵島」、「竹島(韓国名・獨島)」周辺海域の水産資源を実行支配します。日本は当時まだアメリカ占領下で(1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約は発効)、朝鮮戦争の緊張期でもあり、アメリカは、李承晩ラインの設定を黙認し韓国の竹島の実行支配が成立しました。

 1965年の日韓基本条約締結までに韓国軍は、この李承晩ラインを国境として、ラインをこえた日本漁船328隻を拿捕し、3,929人を抑留します。韓国側からの海上保安庁巡視船への銃撃等の事件も15件におよび、日本船16隻が威嚇攻撃もされ、日本人44人が死傷(うち5人が死亡)という不幸な歴史が続きました。

 1965年の日韓基本条約調印によって李承晩ラインは日韓両国間で正式に廃止されました。しかしその際、「竹島・獨島問題は紛争処理事項である」と記され、日韓両国間では決着しませんでした(「解決せざるをもって解決しとみなす」とした日韓両国の密約もあったとも言われます)。。韓国にとって竹島の実行支配とは、日本から独立後に自らが勝ち取った象徴でもあり誇りでもあるのです。その後、韓国の実行支配は今日まで継続され、韓国国家警察の慶北警察庁独島警備隊の警察官と、韓国が建設した灯台管理のため韓国の海洋水産部職員を「竹島(韓国名・獨島)」に常駐させています。また、海洋科学基地の建設計画が進められ、観光で立ち寄った韓国からの訪問者数は昨年18万人弱ともなっています。


 また、北朝鮮も韓国と同様に「竹島切手」を発行するなど「北朝鮮の領土」とも主張をしていることを、韓国も日本も忘れているようです。当事者は日韓2国だけではないのです。いずれにせよ、韓国が実効支配している現状を解決するためには、韓国政府の同意を得ること(説得し、歴史を動かすこと)なしには、解決は不可能なのです。実効支配が紛争状態と認められなければ実効支配の50年の継続で領有権が確定するという国際司法裁判所の判例も日本に不利な状況です。実現しない国際司法裁判所提訴で時間を浪費ばかりしてきた歴代政府の愚を繰り返しても、日本にとっては、なんの解決にもならないはずです。竹島の未来は、日韓基本条約で決着しなかった日韓の歴史認識の違いを乗り越えることにかかっていると思います。そして、歴史認識の問題、それは慰安婦問題の議論が避けて通れないことも明白です。


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