読書日記と読書ノート 第三部(2013年6月~2015年6月) 吉野三郎

退職してから読書中心の生活をしています。読んだ本の感想を日記に記し、要点をノートに書いています。その紹介です。

89、渋谷秀樹「憲法への招待」(新版)(岩波新書)-その1-(1/3)

2017-01-03 07:20:42 | 読書記録
(1)日記から
・2014年3月1日(土)
(「医学探偵の…」を)読了後は渋谷「憲法への招待」(新版)を70頁余り。前著が出たのが2001年。その後の憲法にかかわる政治や司法の動きを書き込んでいる。憲法を立憲主義の成典と捉える視点は同一だが、ハッと思わせる記述がいつかあった。8月革命説は、この時点(敗戦)で国民が主権者になったわけではないから無理がある。敗戦によってGHQに主権が移り、その承認によって現憲法がつくられたとみるべきだ、という。その通りだろう。だからといって、著者が憲法を改正すべきだという議論に与しているわけではもちろんない。他には、知る権利の自由権的構成や、『いじめ対策基本法』に被害者の具体的な権利救済制度が定められていない以上、掛け声倒れに終わってしまう、という指摘など。

・3月2日(日)
「憲法の招待」(新版)を読了。今まで気が付かなかったことの指摘や、なるほどと思う記述がいくつもあった。「集団的自衛権」に関する憲法解釈の変更について、「憲法慣習」を引きながら、一内閣でできることではない、と明確に言う。憲法慣習とは憲法典に記されていないが、長年にわたって事実として行われていて国民の多数が支持してきた憲法関連事実をいう。憲法の条文と同様の規範力をもっているから、明文で改正するのでなければ-憲法慣習に反する解釈は-認められないと主張する。憲法と同等の規範力を持った慣習を、安倍のように閣議決定で変更できるとしたら、憲法そのものの存在意味がない。しかしまた、この憲法慣習論は自衛隊の憲法適合性を導く根拠ともなりうるのではないか。こちらは9条で明文否定されているから、憲法慣習といえるまでには定着していない、ということか。天皇の公的行為の憲法適合性を論じている。これを天皇の象徴としての地位に基づく行為として合憲の根拠とする説を批判する。象徴はイメージであって、法的地位ではない。ここから公的行為の合憲性を導くことはできない。その通りだ。では、実際に公的行為としてなされている事柄をどう扱うべきか。著者は、それらを儀礼的事実行為と非政治的行為に限定すべきだという。この主張も理解できるが、
しかし、たとえば園遊会のような事実行為を公的行為として容認する論とならないか。事実行為で非政治的だから公的行為と認めて良い、とはならないはずだ。私的行為はあくまで私的行為とすべきだ。大相撲観戦を公的行為としたらおかしなことになる。民主主義は多数決制の意味で理解すると、マイノリティの人権を抑圧する原理となる、との指摘も重要だ。教えるところ、学ぶところが多い本だ。

(つづく)