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霞向こうの夏目漱石and崇拝者の秘める心

2012年07月12日 17時55分54秒 | エッセイ

  

ちょっと以前、ある関係の処の話で、和辻哲郎(1889-1960)の著書「古寺巡礼」(1919年出版)に触れた内容のことがでた。名前やその著書のタイトルなどは知っていたけれども、その本も含めて彼によって書かれたものは読んだことがないといっていい。哲学者、思想家という方面の硬そうな、此方などの近づかないイメージ。その同じ人、その名に、またじきに出会うことになるとは、それも非常に意外な形で出会うことになろうとは、思いもしないことでありましたね。そのある関係の処というのは。じつは大学のエクステンションの文学方面の講座であるのだが、その時に旧制の一高で学んだ人たちのこと、日本一の秀才校だからその後に名を成した人も多いけれども、男子だけの寮生活ということからもあるのか、そこでは同性愛も無縁ではなかったということ。そこを通り過ぎて女性との付き合いに入っていくというように変化をしていったもののようで。その時に名の出ていた堀辰雄然り、それからその時の演劇方面の内容に関連してその名の出てでていた中村真一郎(1918-1997)も、著書に自身の同性愛関係のことを書いている、というようなことも先生の話されたところによって、知る。

他に川端康成にしろ、どの名前も世に知られた彼らがそうした、同性を恋の対象とするような一高の時代を過ごしたということは初めて知るようなことであっただけに、昔その著作方面のことに関心を覚えたことのある、中村真一郎もか、というようなことで、当人の書いたその方面の体験を読んでみたいとその時に思ったのである。もっとも、昔から、例えば福永武彦の「草の花」という小説は同性愛者の間では知られたところで、作者の体験なしには書かれなかったと思われる旧制一高生の、下級生への真摯な恋、ついには叶えられないプラトニックな愛の模様もまた、作品内に描かれている。そうした内容の作品から、現実に彼らの世界でどのようなことがあったのか、想像のできることが色々とある。後に著名となる人たちの名前が、そうした形の中にでてきたとしても、とくに意外と感じることもないのかもしれない。中村真一郎については「私の履歴書」という著書を読んでみたけれども、そこには同性愛体験のことなどには触れられていない。「青春日記」という著書がある。そちらの中で触れられているのだろうか。

たまたま読んだ、四方田犬彦「先生とわたし」。そこで、和辻哲郎の名を見、その意外な若い時代の一面を知ることのできる引用に触れ、それが書かれていたという山折哲雄(1931-)「教えること、裏切られること」(講談社現代新書)で、確かめてみるというようなことになった。夏目漱石の弟子であった和辻哲郎ということでのそれはエピソードということになるのだけれども、他にもいた彼を師とする弟子たちの中、例えば独文学者、文芸評論等で活躍をした小宮豊隆(1884-1966)。彼は、漱石に自分の父親になって欲しいという手紙を書いた由。それも今の自身の感覚などからしても信じがたい行動のように感じられるけれども、それに対する漱石の返事。明治39年12月22日のもの。ということは小宮豊隆、帝大生の23歳位の頃のこと。この本書から引用させていただく。

 

  "僕をおとつさんとするのはいいが、そんな大きなむす子があると思ふと落ち付いて騒げない。僕は是でも青年だぜ。中々若いいんだからおとつさんに は向かない。兄さんにも向かない。矢つ張り先生にして友達なるものだね。"

 

父親になって欲しいなどということを、手紙に書くというのも随分唐突なことだと思うけれども、漱石も実際、困惑したことだろう。そうして和辻哲郎の方は、「同性愛的心情を告白するような手紙」を書いたということ。これもまた信じがたいような、師漱石に対する気持ちの表白。和辻の出した手紙は残されていないようであるものの、漱石の返信が残されているので、またここにそれを引用させていただく。大正2年(1913年)10月5日付。

 

 "私はあなたの手紙を見て驚きました。天下に自分の事に多少の興味を有ってゐる人はあってもあなたの自白するような殆ど異性間の恋愛に近い熱度や感じを以て自分を注意しているものがあの時の高等学校にゐやうとは今日まで夢にも思ひませんでした。                                               (中略)                                                                                                             私が高等学校にゐた時分は世間全体が癪に障ってたまりませんでした。その為に体を滅茶苦茶に破壊して仕舞ひました。だれからも好かれて貰ひたく思ひませんでした。私は高等学校で教へてゐる間ただの一時間も学生から敬愛を受けて然るべき教師の態度を有ってゐたといふ自覚はありませんでした。(「和辻哲郎全集」岩波書店 月報25 「和辻哲郎宛書簡より)

         

この手紙を書いた夏目漱石は、46歳。思いの告白をした和辻哲郎は、24歳。という年齢からすると、父親の年齢の尊崇する相手に、思い余る心情を告白しているということになる。師であり、父親のようであり、恋する人である人に向けて。手紙では父親になって欲しいと書いた小宮豊隆にしても、表現としてはそういう形をとったにせよ、その内にあったのは和辻と同様、というように推測できないこともない。ともかく、和辻からの手紙を受けた漱石の内面は、彼の作品「こころ」の先生から想像されるような、外から見える処とは異なる世界にあるものだったということになるだろうけれども、こうした優秀な若者たちに恋させるようなそれだけの魅力を漱石が持つ人であったということは、まぎれもないだろう。顔立ち、容姿、その雰囲気、いずれにもまた魅するものがあったということあっての、若者に恋に似た思いも抱かせたという部分のことも、思いたい。それも何年にも渡る思いという、その時間のことも思う。その思いの中には、師であり恋人のように夢想する漱石に抱かれたいというような、同性愛的願望も潜められていたのだろうか。ある時には。

作品「こころ」の発表されたのが、大正3年(1914年)。最初のタイトルは「心、先生の遺書」で、後に改題されている。和辻からの手紙を漱石が受け取ったのはその前年ということになるわけだけれども、年譜によればその年は一月以降、数か月間強度の神経衰弱となったりなどしている。3月末には、胃潰瘍の為に病臥。完治をみるようなこともなく、それはその後も繰り返されることになるわけだけれども、想像するにそうでなくても漱石の中に受容の余地のない、弟子から受けるそうした熱い心情が如何に困惑を与えるものであったか。考えてみたくもなる。「こころ」のような形での表白をみなければ、その困惑は治まらなかったのではないか、などとも思う。



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