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ジェームス・ディーン / 彼ほどに孤独でさみしい人間を他に知らないと或る人の言う

2016年06月26日 12時32分20秒 | エッセイ

 

                         

 

たまたま見たジェームズ・ディーン没後50年を記念して製作されたTV映画、2001年の「James Dean」。その最初に出てきたエビグラフに、先ずは気持をひかれた。いかにも、という印象の意味ありげな引用、というのは手法として当然な、ということになるだろうけれども、それがむかし一時期詩作品を愛読したことのある詩人アレン・ギンズバーグ(1926-1997)の詩句であることを知って、ちょっと感慨のようなものもあった。ただ、この「Song」という詩は、記憶にない。ゲイでもあったギンズバーグではあるけれども、その71行の詩の中の最後の部分の引用に映画作者のこめた思いに何があるのかも、ちょっと考えてみたくなる。ジェームス・ディーンの生涯イメージが喚起する何かしら、重なり合う回帰願望を見るからだろうか。

                                                       yes,yes

                                                   that's what

                                                     I wanted

                                               I always wanted

                                               I always wanted

                                                     to return

                                                   to the body

                                              when I was born

 

                                    "SONG"

                                                     Allen Ginsberg (1954)

 

「生まれたばかりの、その時の自分に戻りたい。いつもいつもそれを願っていた」、というような深い思いを抱いたことはないので感性の違いも思うけれども、この2001年の映画を見る限り、このエビグラフがどういうジミーに重なるのか、自身にはすんなりと入り込んでくるイメージがない。というのも映画の中で明かされるように、ジミーの生まれには父親に関わる難しい部分もあったことになるから、事実を知った後の生まれた時の自身への彼の思いはどうなのだろうかというはかり難さがある。9歳で彼は、母親を子宮癌で亡くしている。それと共に父親を離れインディアナ、フェアモントの叔母夫婦にあずけられる。母親の遺体と共に、列車で一人だけで向かった。父親は、妻の葬儀にも姿を見せていない。フェアモントでの成長。戦後父親は再婚。彼がまだ10代半ばの頃のこと、姿を見せない父親への思いや、そうした家族変化の、その年代の彼の心に与えた影響の大きかったこと、想像に難くない。

そんなフェアモントでの彼の心の揺らぎを受け止め、相談に乗ってくれたのがメソジストの牧師James DeWeerdで、闘牛、カーレース、あるいは演劇などへの関心を目覚めさせたのもまたその人であったということであるけれども、英文のWikipediaには、思いがけない記述がそのあとにつづく。その牧師DeWeerdとジミーとの間には数年に渡る親密な関係、性的関係があったということ.1994年に出版されたPaul Alexsanderの"Boulevard of Broken Dreams: The life,Times,and Legend of James Dean"に書かれ、あるいは2011年には表に出てきたところでは、共演したエリザベス・テーラーに母親の死後2年間ほど牧師に性的なabuseを受けていたと打ち明けたことがある、ということなど、いくらか隔たりのあるような記述が出回ってあれこれとあるようながら、ともかく当時のジミーにそうした体験のあったことは事実なのではないかと思える気になる。

 

                 高校時代はスポーツでも活躍 

            

             

自身にとってジェームス・ディーンといえば「エデンの東」、あるいは「ジャイアンツ」の彼。何度も見る機会のあったその二本の印象が強く、特にプライベートな部分が知識として入り込んでくることもなかったし、彼のセクシュアリティのことなど考えたこともなかったというのが事実。2001年のテレビ映画をたまたま見たことで、亡くなって間もなくの1958年の彼のドキュメンタリーを初めとしていくつかのビデオ、あるいはさまざまな記事等、覗いて見ることになって、改めて亡くなった後も変わらず関心を向けられているものだと思わされたようなわけだけれども、ひとつには彼が24歳という若さで亡くなっていることか。彼が演技イメージとしてモデルと考えたマーロン・ブランド(1924-2004)は、中年、老齢とその変わりゆくさまを見せてきたのに対して、ジミーには24歳の先がない。永遠にその年齢までの若い姿しか見せない。

その若さでの、アカデミー男優賞に2作ノミネートされるという活躍の只中での突如の死。その役柄に見せた彼の個性に特別なもの、抜きんでたものがあったということにもよると思う。その生き方にも?  という24歳までの彼の奔放とも思える、特有な自然体の印象を与える行動性。演技に出ているのではないだろうか。型にとらわれない、自分の思う通りの、感情、感覚につき動かされるがままの動き、表現。それに徹することができたことが彼の若さでもあるし、また能力であったことを思うし、彼の中の先行者としてのマーロン・ブランドイメージの刺激も、その意識を強化する支えになったのではないかと想像する。それと日常の中の自身と役における自身に境界のないような、どちらも同じイメージの中での自然体、それを自分の在り方としているかのようなジミー特有の、他とは異なると感じさせる流儀。

                                   

                              

                                              Marlon Brando (1924-2004)

                                    

  

 2001年のテレビ映画の中、エデンの東の撮影現場に最初にジミーが現われた時のシーン。父親役のレイモンド・マッセイ(1896-1983)に監督のエリア・カザンがひきあわせるのだが、ジミーは他の者から離れ、ひとりの世界に入り込んでいるかのような様子を見せていて、紹介された大先輩マッセイにも「あんたはおれの父親役には、老けすぎている」などと、当のマッセイを唖然とさせるようなことを相手も見もしない斜めに構えた、非礼さむき出しの態度で言う。演出があるとしても、実際にそのようであったのではないかと、ジミー役の演技に思わせる場面なのだが、監督のカザンは、非礼云々を超えて、ナイーヴで屈折した心を持つエデンの東のキャルに重ねて、その様子を見ていたことが、うかがえる。そうしたタイプとして見ていての、キャスティング。見方によっては、ジェームス・ディーンは日常においても個性派の「ジェームス・ディーン」を演じていたのではないか。そのディーンとカメラの前のディーンに、意識下では境がないかのように、ということを思わせる。

 

                                Raymond Massey                             

                          

 

                       

                        

 

没後ほぼ60年の2014年9月30日に書かれた"7 Facts About James Dean"という記事には、父親の問題、彼の悪習、マーロン・ブランド目標、ビリー・ザ・ッドになりたかった等のことが挙げられているのだけれども、5つ目に"He Confused Ronald Reagan"というのがあって、後に第40代アメリカ大統領になる当時はまだ俳優だった、最初のスタートはスポーツアナのドナルドレーガンの名が出てくる。テレビでの共演のあるレーガンも(例えば1954年の"dark,dark hours"で)、ディーンには困惑させられた、と。他の共演者も同様で、その脚本逸脱のジミーの自分流(spontaneityとある)はきらわれていた、ということ。いわば暗黙の裡の協調のようなものが、期待できないタイプ。異分子。そうした雰囲気が解るようなエピソードでもあるけれども、いわば他に迎合しない自分の演技スタイルを自ら選び、通すことにした彼のその感性ゆえにこその、獲得できた位置。そのことが思われる。

実際の撮影においても例えば先のエデンの東の父親役レイモンド・マッセイ。父の助けにとレタスで稼ぎ出した金を受け取ってもらえないキャルの嘆きの場面など、ジミーの過剰とも受け取られる感情の演技にマッセイが戸惑う場面など、テレビ映画のシーンには出てくるけれども、いわばたましいが演技をさせているということにもなるのだろうか。その心、たましいのことを思わせるのがジミー                                                          というような気もする。                                                                       これまた数を合わせるようにして2011年2 月、1931年2月生まれのディーンの生誕80年目に書かれた記事"80 Things You Didn't Know About James Dean"には、エピソード等彼についての諸々のことが書かれているのだけれども、その最後、80番目には、"A friend of Dean's,David Diamond,once said Dean was the "loneliest person I ever knew" ということが挙げられている。最後に置かれたことに、込めるものがあったようにも思われる。

 

                            David Diamond(1915-2005)                   

          

 

 

一般にある程度受け入れられる以前から、ゲイとして知る人ぞ知るという人であったアメリカの著名な作曲家David Diamondなのだけれども、1951年には作曲家の登竜門のようなローマ賞を受賞他、それ以前から受賞歴のあるような有望な作曲家だったのが、ジミーと友人になったという当時ということになる。20代前半のジミーの16歳年上。ということからして、その「友人」という言葉には、精神的にも庇護的な、あるいは"それ以上の関係"のあったことも感じられるが、そのDiamondが、「彼ほどに孤独なさみしい人間を知らない」、と上記のように、ジミーについて語ったという。それからまた、マーロン・ブランドの伝記作家Peter MansoにDiamondが話したところによれば、「ジミーは非常に自己破壊的で、壜を割ってそれで手首を切ろうとしたことさえある。何度も自殺未遂のようなことがあって、マーロンも警戒していたくらいなんだ」、ということなど。そうした事実。心の問題。振幅がありすぎるとさえ思える、ジミーの生きた日々。

先に触れた"80 Things  You Didn't Know About James Dean"の6番目には、このようなことが書かれている。"彼が有名になる以前のこと、住む部屋を確保できない時には自分の車を寝る場所にしていて、ゲイの男とのデートで食費無しで済ませていたことがあった" 。セクシュアリティの表向きについて言えば、1950年代の俳優にゲイはいなかった時代。クラーク・ゲーブル、スペンサー・トレーシー、ゲイリー・クーパー、モンゴメリー・クリフト、ロック・ハドソン、タイロン・パワー、ロバート・テイラー等々、ホモセクシュアルとは無縁の、女性憧れの異性愛者であり、結婚は当然のこと、映画会社はメディアを通じてもイメージづくりをする。じつは同性愛、バイセクシュアルなどということが表に出れば、俳優としてその先はない、ということが自明なほどに縛られた時代。というようなことからも、ジミーのことにしても、そのセクシュアリティ、身近にいた人間たちからのリアルな部分が表に出てきたのはずうっと後の時代。その身近な親しい関係にあった者に、ウィリアム・バストがいる。

 

                       William Bast(1931-2015)

                  

           

 

ジミーが演劇を学ぶためにUCLAに入り、一学期間在学した時に知り合い、同じアパートの部屋で暮らし、亡くなるまで親しい関係にあった彼は後にシナリオ作家として知られるようになるのだけれども、ジミーが亡くなった翌年、"James Dean"というタイトルで早々に伝記を書いている。むろんその中で互いの間のセクシュアルな部分などに触れるわけはないけれども、1994年にPaul Alexanderがジェームズ・ディーンについて書いた著書の中で、バストとの性的な関係についても触れた。それにたいしてバストは事実無根、と著者Alexanderを名誉毀損で訴えるということになった。今回、そのAlexanderの著書のことを知る前に、ウィリアム・バストのwikipediaを見た時に、パートナーとしてPaul Huson(1942-)の名がそこにあることに気づいた。その関係が49年にも及ぶことを他の記事で知り、つまりはゲイであると示されている彼。そして西海岸の街で、そしてニューヨークでも一緒に生活したジミーと、亡くなるまでの5年の間、彼が当時どういう関係にあったか、誰しも気になるところということになるはず。

その後にバストはある条件を示して訴訟をとり下げることになるのだが、2000年以降ホモセクシュアリティに対する人の受容意識も変化して2004年にはマサチューセッツで同性婚が合法化される、というような時代に。その後は歌手、俳優、ニュースキャスター等々のカミングアウトを見るようになって、事情はかつての時代とはすっかり異なる状況と変わり、そうした時代変化を背景に、バストもジミーとの性的な関係を認めるに至った。そのことでは、UCLAの学生の頃からか、同じ部屋に住むバストはゲイであることが知られていた模様で、何故そういう相手と同じ部屋に住むのかと、他の者たちにジミーは不審がられたりもしていたというようなこともあったようである。それはともかく、ジミーにはニューヨークでの、ジェラルデン・ペイジ。ハリウッドに移ってからのピア・アンジェリ、アーシュラ・アンドレスなどの女性関係も知られていることからの、バイセクシュアル面のこともある。どこまでどうなのか。関心がもたれるのも自然といえば自然。また、当然のことでもあるようで

それからまた、1975年、伝記作家ロナルド・マーテイネッティによって書かれた"The James Dean Story"には、1951年、まだ20歳のこれからという俳優だったジミーの援助者となった15歳年上の35歳、ロスアンゼルスの広告会社のエグゼクティヴ、ロジャース・ブラケットとのことが書かれている。身につけるに良いものを買ってやり、素敵なレストランに連れて行き、彼のキャリアに役立つように映画俳優等に紹介してやり、とその関係はと言えばゲイの年長者の、魅力感じる若者に対する愛情含みのもの、ということにもなるだろううか。ジミーはバストと同じ部屋に住んでいたわけで、ある者にはブラケットの愛情をジミーが自分のキャリアの為に利用していると映ったりもしたものらしい。一時期性的な関係があったと思われるのも自然かもしれない。。彼はジミーのニューヨーク行きの手助けをし、ブロードウエーでの最初のステージにも導いてあげている。

 

                       Rogers Brackett

                  

 

ブラケットは、伝記作家のマーティネッティに、「私はジミーを愛し、ジミーも私を愛した。ただの父と息子のような関係だけではなく、もっと二人だけの特別なものも(incestuous)あったね」、と話している。亡くなるまでつづいた関係には、ジミーの父親からは受けられなかった愛情を埋めてくれる何かしらが、年長の相手との結びつきの深さの中にはあったのではないかと思わせる。というその実の父親との間にあった埋めようのない距離というのは、9歳という年齢からの見捨てられたととられなくもない離れての生活、母親の葬儀に来ることもなかった父親へのしこりのような思いと共に、容易にはいかないものになってしまっていたものと思う。2001年のテレビ映画の中においては、むしろ父親の方が頑なに冷淡と思える、ジミーに対する態度。テレビに出演するようになる。電話で番組のことを伝える。見ていないという、返答。それも、関心なさそうな、避ける様子が電話で話す感じで伝わる。「エデンの東」の終了後、監督のエリア・カザンと父親の住む地域を通ったさい、ジミーがちょっとだけ寄らせて欲しいと、監督にお願いする。

そうして寄った、父親の家の玄関前。同行のエリア・カザンを紹介する。父親の後方にはその妻、ジミーの義理の母親。そこでも、実の親子の会話らしきものはない。父親の態度に親しみはないし、どこか訪ねられれたことに迷惑を感じているかのような、距離を置きたい相手に対するかの様子。家の中に迎えられることもなく、僅かな言葉のやりとりだけで、そこを離れることになる。そうした父親が感じさせる不自然さ。むしろ、冷淡さ。何故にそこまで、頑ななまでに突き放すように、実の息子に対するのか。その理由を知る場面が終わり近くになって、やってくる。それが実際のことなのかどうかは、解らない。知る限りの記事の中では見ていない。ともかく、この映画の終わり近いところで、既に俳優としての成功を得ているジミーが夜、父の家のそばでオープンカーの中、彼の現われるのを待つ場面になる。どうしても知らなければならないことがあるという、覚悟をもって待っている。

 

                          

 

現われた父のWintonに胸にあるものを奔出させるジミーの様子は、キャルに重なる。ただならぬやりとりに近隣の住人も出てきたりのことがあって、家の前から場を移してから、「どうして9歳の自分を手放したのか、母の葬儀にどうしてきてくれなかったのか。お父さんは、僕の父親だよ」、とジミー。それに対して、「私は、父親ではない」、と衝撃の過ぎるような言葉が父親の口から洩れてくる。 亡くなる前に妻は告白してくれたのだと。18の頃に知り合った家庭のある男性との間にできた子が、実はジミーであるのだと。父親も事実を知ってくるしみ、それによって9歳のジミーを突き放すことにもなった。以降のジミーの心に刻み込まれていく愛されていないという父親への思い。だがそれを求めずにはいられない心の底の不充足。この映画で示される、「本当の父親ではない」、というのが真実なのかどうかは解らない。ただ、作曲家のDavid Diamondが 「自分の知る限り最もさみしい人間」、と言ったというそのさみしさはどこから、何から生まれたものかということは、思わせる。

父親のWintonは、俳優というような世界に全く関心を示さない人間。ジミーの才能は深く心も通じていた母親から、ということだろう。ただもし、その母親が病死をせずにいたら、俳優ジェームス・ディーンがいたとしても、エデンの東のキャルは演じていなかっただろうし、父親との関係も別なものになっていたのだろう。というような"もし"は、想像だけのことであるけれども、セクシュアリティにしても似たような方向に向かったとはとても思われない。そうした彼の人の心に残る、残像。24歳より先のない、残像。 

 

              

                       

 

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ブリッジス / この家族の写真がなぜかワタシはとても好きでアル

2015年09月22日 01時32分09秒 | 日記・雑感

           

 

これは2010年の第82回アカデミー賞で作品「CRAZY HEART」で最優秀主演男優賞を受賞した時の中央ジェフ・ブリッジス(1949-)と、その左が甥のディラン・ブリッジス(1984-)、右がやはり甥のジョーダン・ブリッジス(1973-)。ディランとジョーダンは母親がちがうけれども、ジェフの兄ボー・ブリッジス(Beau Bridges1941-)の息子。みんな、俳優。 私は、若い頃からボー・ブリッジスが好きだったのだけれども、ジェフのことは殆ど知らなかった。知らないまで来たように思う。ただ、この写真をどこかでたまたま見た時に、ひどく魅かれた。なぜなら、羨ましいほどに身内の愛に満ちているではありませんか? 後ろから叔父さんのジェフにもたれているジョーダンの表情が格別に良い。ともかく、三人から伝わってくるものが何とも。 

 

                             

                     

ボーとジェフ兄弟

                  

                                     

                

                                  

            

                            

            

 

こういう姿を見せる兄弟というのは、あまり見ないのではないだろうか。体に腕を回し、顔を寄せ合うさまは、愛情いっぱい、肉親ならではのその深さが伝わる。八つちがいなんだけれども、どちらが年上か分からない。若い頃のボーの印象からも、こうした姿が彼にピッタリで、実は記憶にあるのは若い30代までの彼で、中年以降のボーの姿は見たことがなかったのです。

   

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アラン・チューリング / 国の英雄天才数学者もゲイゆえの受難とは

2015年09月13日 10時51分24秒 | エッセイ

1996年イギリスBBC制作の"Braking the code ──Biography of Alan Turing"を何年か前に見て、アラン・チューリングという天才数学者のいたことを、自身の場合には初めて知った。彼を演じていたのは、当ブログで2013年3月23日投稿の画家フランシス・ベーコンに触れた記事でも書いた、映画でフランシス・ベーコンを演じた、デレク・ジャコビ。ベーコンの場合でそうだったけれども、非常に適役、と思わせた一方で1912年生まれのアラン・チューリングが亡くなったのが1954年。満年齢では、41歳。1939年生まれのここで演じているジャコビは、50代の半ば過ぎ。演技は素晴らしいけれども、老けすぎていてチューリングには可哀そうと思えるほど。「がっしりとした体格で、声は甲高く、話好きで機知に富み、多少学者ぶったところがあった」と言われるチューリング。「学者ぶったところがあった」というのは、そうであるのが当然の分野の人であるのだから、改めて言う程のことでもないように思えるけれども、そうしたチューリングを、がっしりとした体格をイメージさせない年を取りすぎているジャコビが演じているので、実際の若いチューリングが見えにくい。

 

                          アラン・チューリング

                   

 

残された彼の画像から想像などもするのだけれども、アスペルガー症候群の特徴を思わせる特徴もある人だったと知ると、それも図抜けた能力を備えた天才にはありそうな傾向にも思えて、彼という人の実際の印象に近づけそうな気もする。実際の彼からのものだろう、ドラマ最初に近いところでの、まだ10代半ば、パブリックスクールの生徒の頃の彼の家での母親、恋していたクリストファー・マルコムとのシーン。何かを一気に話そうとする時の、吃音。どもり。それから、爪も噛むのか、ともかく指を口に持っていくクセ。そこに見える彼の傾向は、そのままジャコビ演ずる亡くなる年齢のチューリングまで、変わらない。

 

画像は1929年。クリストファーがチューリングの家を訪れたシーンで。

 

  

クリストファー

 

 

 

14歳で1550年創立のパブリックスクール、シャーボーン校に入ったチューリングがクリストファーに出会ったのが1928年、16歳の頃。アインシュタインの一般相対性理論を読んで彼が定式化しなかった部分に言及し、後にそれが正しい指摘であったことが示されたという程に、数学、科学に抜きんでた能力(初等微分積分学も習っていない1927年に、もっと難しい問題を解いていた)を見せていた男子、チューリングだったけれどもそちらへの更なる関心も、数学者になることが夢だったという一つ年上のクリストファーの影響大だったと言われる。向いている学問の向きが同じ二人の交流、そして後に自分が幼いころからゲイであることを意識していたと語っていたとされるチューリングの同性の彼への恋。だが、1930年のバレンタインデー一日前の2月13日に、その恋したクリスファー・マルコムは、小さい頃に感染牛のミルクを飲んでいたことから、牛結核症を患って亡くなってしまう。チューリング、17歳。その死を機に、彼は神を信じることを止めている。

 

                              (、クリストファー)          

               

 

 

 

ケンブリッジ大学で学び、1935年に卒業。先見的な論文を発表し、1936年から1938年ま7月までアメリカのプリンストン大学で研究。純粋数学とは別に、暗号理論もそこで学び機器の試作もしている。1939年9月には、イギリスがドイツに宣戦布告。そうした時代の巡りあわせ。まだ20代のチューリングは、戦いに不可欠の、相手ナチス・ドイツの作戦暗号を解読するための、国の機関のメンバーに加わることになる。ロンドンの北西80キロのBletcheley parkにあって、Station Xと呼ばれた暗号解読機関。戦後、Station X内の全ての物が、処分、壊滅され、消されてしまうのだが、そこでのイギリスの命運のかかった、ドイツ・ナチスの暗号エニグマの解読。その解読機の設計に果たしたチューリングの役割。功績。彼の天才あってこその達成があり、それによって英国は対独戦の窮地から救われたという事実。だが、暗号という機密事項を扱う仕事柄から、家族も含め、外部の誰もがチューリングの仕事については、知らない。戦後も1970年代に至るまでその業績は、秘密とされた。そうした事情の中、戦後、国立物理学研究所、それからマンチェスター大学に移って研究を続けていたチューリングが1952年、同性愛に関わる出来事で、逮捕される。公然と世間から辱めを受けることになった。

 

上記BBCの「Breaking the code」は、それをきっかけに彼の同性愛行為が知られるところとなる、彼の家であった盗難の説明にチューリングが警察に行っているところから始まるのだけれども、つまりは盗みに入った泥棒の手引きをしたのが彼の性関係を持った若者だったといういきさつから、彼がただの被害者ではなく若者との関係も問われるという立場にもなってしまう。隔世の感があるが、当時のイギリスにおいては、同性愛は違法。処罰の対象。後日、住まいに訪ねて来た刑事には、その若者とどういうセックスがあったのかも、問われたりする。相互マスターベーション。それを言わなければならないチューリングの、困惑、苦痛は解る。映画には、母親を訪れて自分の置かれて自分の置かれている窮地を、話す場面もある。カミングアウトせざるを得ない現実。俳優にとっても、普通ならば難しい演技では? フランシス・ベーコンを演じ、アラン・チューリングを演ずるジャコビの演技には、何処のシーンでも彼でなければ出せない憑依があるとさえ思わせる。超えている感がある。だが、やっぱり30代終わりのチューリングではなく、髪の白くなった50代半ばのジャコビのチューリング。イメージは、相当に離れている筈。自分がゲイであることを母親に告白する彼。 

こうした事件が無ければ、その2年の後に彼が、自殺とはされているけれども死を遂げるというようなこともなかっただろうが、何にしても同性愛を違法とし、それによって人を裁くというのはどうなのか、ということを現代の感覚から思う。チューリングが戦時に暗号解読に携わっていた当時も、彼がゲイであることは知る人には知られていたわけだし、それまでの私生活で同性愛関係を持った相手は当然いた筈ということからして、法は法ながら、そうしたセクシュアリティは人間の中に、あっておかしくはないこと、と一般に見られていたことはあったはずである。 裁判の結果、チューリングは同性愛ゆえに有罪となり、入獄か化学的去勢を条件とした保護観察かの選択を迫られ、後者をを選ぶ。化学的去勢とは、女性ホルモンを注入されるということだったか。そうした条件というのも、根拠でもあるのか人に対するものとして異常である。少し以前にイギリスのゲイのリポーターが、同性愛が法律で禁じられているアフリカの国に入って危険を犯しながらリポートをするというビデオを見たけれども、かつてのイギリスもそういう酷な法を持つ国であったということ。

チューリングの天才。その生前の業績、昨年Oxford university pressから出た「Turing:Pioneer of the information age」のタイトルのように、現在のコンピューター、デジタル世界は彼によって切り開かれ、その評価は高まる一方で、ニュートンにも比肩するともされるようになろうという存在。それだけのものを彼は人類に残し、またイギリスは戦時に彼の天才によって、解読不能と言われた暗号エニグマ解読を果たして国の窮地を救われてもいながら、ごく最近に至るまで彼の同性愛による罪を、当時の法で正しく裁かれたものであるゆえに、名誉回復の請願があろうともそれに応えるわけにはいかないと拒んできたのである。 漸くにして正式に恩赦が発行されたのが2013年の12月24日。まるでEveのプレゼントのような日の選ばれ方だけれども、過去の法は正しい法であったのか? 考えてみたくなろうというものである。宗教絡みの理由とは解るけれども、チューリングは無神論者だったのだから、彼自身には法に縛られる感覚はなかったのにちがいないと思う。いずれにしても、同性を愛の対象とすることは彼には自然なことであったのだから。異性愛者が異性を愛するように。

1990年代に制作されたエニグマ解読に触れたイギリスのドキュメンタリーフィルムなどを見ていると、今は年齢い高い、当時X stationで仕事に携わっていたひとたちが様々に登場する。生きていれば80代のチューリングのことが思われる。彼の60代、70代もあったかもしれないのである。自殺とされる死、その誘因となった同性愛ゆえの逮捕、彼の心身への加害というようなものがなければ。そしてどれだけの恵みとなる科学的達成を彼から世界は得ることができていたか、ということも思ってみたくなる。そうした死によって終えた人生ではなく、栄誉と共にあるのことに思いを馳せたくなる。彼が示したような特別な能力を与えられた人間というのは、本当にかぎられているはずなのだから。

 

                     2012年が生誕100周年だった 

             

 

                                             

                                   ◆◆◆◆

 

 

大恩あるチューリングを同性愛で罰した当時のイギリスのことを思う一方で、では現在の状況はどういうことになっているのかと思わされるようなことが出てくる。積極的にそうした情報に触れようとしているわけではないので、入りこんだ理解ができない。ただ、以前見た2004年BBC2制作のテレビドラマ「When I'm 64」などから、本当にこうしたものを一般向けに放映できるもの?  と思わされたほどに日本にいて考える感覚からは限りなく遠いものを感じた。というのも、60代の男二人の恋だし、裸で抱き合い接吻をする、その先にはベッドのセックスも当然あることが解る展開などある、ドラマ。やはり、日本に置き換えた現実をもイメージしてしまう。ありえないと感じる。

 パブリックスクールの教師を定年退職し、長年の寮での生活から一般世間に出るジムの夢は、経験したことのない恋愛。それも、相手は同性。ジム役は、上のBreaking the codeでは、チューリングを問い詰める刑事役のAlun Armstrong。その彼を迎えに来たタクシーの運転手が、Paul Freeman演ずる、老フーリガンでもあり、妻は亡くしているが孫もいるレイ。そのように偶然に出会った二人、とりわけゲイなどとは無縁だったレイも、ドラマの終わりではジムとの新しい生活に向けて、息子たち家族を離れて旅立つ。個々にとって大切なものが何かを、考えさせるドラマ。チューリングの生きた時代から、いかに遠くまで来たことか。

 

 

 

 

                                              ◆◆◆

 

Trailerしか見ていないけれども、2014年の映画、The Imitation Game。アラン・チューリングは、姿を変えてそこにもいる。

 

   チューリングを演じるBenedict Cumberbatch

 

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ものがたり世界の究極の愛にはウタレル (池波正太郎 / 男色武士道)

2015年08月07日 08時28分14秒 | エッセイ

 

1985年に新潮社から出た文庫本の短編集「あほうがらす」の中の一篇、「男色武士道」は、その終いに語られる部分によって、印象に、そして記憶に残る一篇になっているように思う。今、老いて死を迎えようとしている老武士千本九郎が、「この品を、わしが遺体と共に、土へ埋めよ」と長年彼に仕え、齢も七十を超える家来の者に、言う。その裃の切れはしで包んだものの中身は、「書状のきれはし」にすぎないということであるし、それを書いた相手とは、10代の終わりを最後に会ってはいないという間柄。だがそこには秘されている、とりわけ死を迎えようとしている彼には特別な訳がある、というのがこのものがたりにあるわけなのだが、感じるのは、こういう作品を考えた池波正太郎という作家その人への興味もあるということ。男色に触れてこのような時代小説を書けた人というのが、他に思い浮かばない。そういうことでは、山本周五郎のような作家に、一つ位は記憶に残る時代小説の男色作品を残してもらいたかったようにも、思える。そうしたセンスとは縁なさそうなタイプであったのは、残念。

 

                         

 

「あほうがらす」の中の短編に触れて書いてみたくなったこの機会、「池波正太郎短編全集」の「上・下」に収められた彼の他の作品もあれこれ読んでみることになって、男色ということに限っても思わぬ作品のあることを知った。自分を仇討ちとして狙っている相手とは知らずに、その若者の布団の中で男色行為に及ぼうとした中年剣術師範が、その全く無防備な状況ゆえに仇を討たれて命を失うという、「波紋」のような作品。「大石内蔵助」という作品では、息子の大石主税が京の陰間茶屋の幸之助という色子と性の初体験をする事を知る内蔵助は父親になるわけだが、それも当時のこととしては普通に違和感なく受け入れられる行為でもあったという一面を教える。その主税と幸之助の出会い、その関係模様、運命について書かれているのが、「あほうがらす」の中にもある一篇「元禄色子」ということになるのだが、池波は性行為初体験の主税、リードする幸之助の関係模様も彼ならではのという、男女に変わらぬ描写ですすめていく。

読んでいて、例えばその作品「大石内蔵助」など、初出がどういう雑誌に書かれたものなのか考えたくなるほどに、40代の内蔵助はどこまでも色好み、女と言えば目がないという好き者として、描かれている。比丘尼宿と呼ばれる娼家で関係を持つ、尼らしく頭を丸めた少女は16歳である。二人のとりあわせに思ったりなどする、作者の嗜好。内蔵助は5尺一寸(154センチほど)と書かれているが、池波は、こんなふうに書く。                                                              

 『内蔵助の小太りで色白な体躯や、鳩のように小さくて愛くるしい光をたたえた両眼や,かたちのよいふくらみをみせた唇から発せられるやさしい声音やらに、つよく、こころをひかれたらしい。』

これは、他の女とのことの部分に書かれている内蔵助なのだが、何か池波が自身魅せられたい対象として描こうとしているような、そういう小太りタイプが実は性的にも男色的に好きなのではないかと、思わせるほど。「愛くるしい光」などの表現はちょっと、40を過ぎた男にするには過剰。というような具合に、奔放と言えば奔放な池波の内蔵助表現なのだが、討ち入りの吉良邸における最後の部分では、「妻の大きく肉づいた下腹の、その臍下から陰所のふくらみにかけて、女性(にょしょう)にしては濃密に過ぎる陰毛のしげりを、内蔵助は、なつかしく脳裏にえがいていた。」、などのことがくるほどに、性との結びつきを離さない。女も男も、その感覚をもって作品の中で追う。というのが、独特な表現、言葉遣いに感じられる。

 

             

 

「あほうがらす」には、「火消しの殿」という作品も入っていて、この殿は大石内蔵助の主君、浅野内匠頭長矩である。内匠頭は火事災害に対する対応意識の高かった城主でもあったということなのであるが、この殿はまた男色好み、色子好みで小姓たちはその性欲満足のために、奉仕の欠かせない存在。新たに小姓に取り上げられた美少年沢口久馬も、同じように殿の欲望に応えることを求められる。ところが、僅か以前に城への出仕を仲介してくれた側用人の妾宅の女に誘惑されて、既に女の肉体の味を知ってしまっている久馬は、例え殿の求めであれ、男同士の行為ということに嫌悪感を覚える。耐えられないで、拒む。それでも殿の長矩は、久馬が未経験故に戸惑っているものと解し、待つのも一興かと、時間をかけて欲情を遂げるのも良しとして、強要は控える。だが何度か、拒むことがつづいた後、久馬は耐えがたさに、城を逃げ出してしまう。その後に、江戸城、松の廊下でのことが起き、即日処断をくだされ、内匠頭は切腹をさせられてしまうということが起き、赤穂浪士の討ち入りとつづくわけなのだが、久馬の眼を通して見た内匠頭に池波正太郎は、視点を持っていくことを狙って書いたもののようで、男色好み側からすればこの視点はちょっと苦い。 

美形ながら、男色を嫌悪すべきものと感じる男子、久馬を見せることには、かなりの不自然さ、無理があるように思う。浪人の父と子の二人家族。城に迎えられて将来も見えてきたこの機会、自分の性指向に合わないというだけで、「殿の為ならば如何なることも厭わず」の心もなく、寵愛対象として選ばれながら、その仕えるべき主君を拒むというのは、この時代のこととして不可解。これでは、こうしたフィクションの中にせよ、色子好みの一面を嫌悪されるような形で晒す破目になった内匠頭が、可哀そうにも思える。というようなことが出てくるくらいに、池波正太郎は性指向をともかく前面に出し、下半身のことを後のことにはしたくない性感覚派と思われるほど、色のことには執着する、それを感じさせる作品があれこれ存在するというのがどこからくるのかな、という興味は覚える。討ち入りの最中に、妻の下腹、陰部に向けての肉体部分を懐かしく大石内蔵助に回想させる、ユニークすぎるそうした性に粘りつ着く感性。 

 

               

            

 

そうして、最初に触れた「男色武士道」のことなのだが、ここにはなにか心の美しさを感じさせるものがある。心にとどまる宝のような記憶のあること、それは何ものにも代えがたいのではないか、と思わせてくれる。生涯というものの中での、究極の得難いもの、とも思えるような宝。                                                                        登場するのは、ここでも殿の小姓で寵童の噂のある15歳の細身の美少年鷲見左門。そしてその男色、断金の間柄、太くたくましい19歳の千本九郎。事の発端は、徒士組の若者佐藤勘助がすれちがいさま「尻奉公」の言葉を、左門に投げつけたことによる。殿の寵愛を受けているのは事実ながら、男色行為があるのは事実ではない。その侮辱は、左門には耐えがたい。実のところ、勘助は左門に欲望を抱いていて、以前呼び出して強引に接吻などに及び、抵抗されてそのさいに唇に傷を負ったりなどしている。そうしたことへの腹いせなどもあっての、尻奉公云々のいやがらせの言葉なのである。左門は、そのことを、既に元服していながら小姓として殿が離さないために束ねとしてとどまる千本九郎に話す。九郎は、聞き捨てならないと言う。殿をも愚弄する言葉。武士として主君とと自身へのその侮辱は晴らさなければいけないと、左門を説得する。

だが、主君が気遣う程に体力もなさそうな左門に、屈強な勘助と一対一で勝負ができるわけがない。初めから結果は目に見えている。自分には討てないと九郎の膝に突っ伏す左門に、「断金のちかいをたてたるおぬしの恥は、そのまま、おれの恥じゃ」と九郎は、助太刀のことを言う。その夜、九郎の指図通りに殿や病身の父親への手紙をしたため、討ち果たした後にしばらく身をひそめるための金を九郎から受けた左門が、佐藤勘助を誘い出す。勘助は無論、果し合いのために左門がやってきたなどとは夢にも、思わない。戸外に出ると、なよなよとした風の左門に欲情を覚え、さあ行こうと左門の手をとる。その瞬間の、左門の抜き打ち。勘助は激怒する。斬り合いになれば、左門が敵う相手ではない。刀を飛ばされる。そこで、潜んでいた千本九郎が飛び出して助太刀に入り、勘助を討ち果たす。そして、左門は九郎の指図通りに、そのまま姿を消してしまう。

その夜を最後に、彼らは生涯、二度と会っていない。事件は左門に名誉を与え、召し抱えたいという大名家や名のある幕臣が出てくる。千本九郎の方は、主君が突然病死して、後継ぎがいなかったため、所領を幕府に没収されたことなどあり、浪人の身に。今や、大名に召し抱えられている左門は千本九郎を気遣い、知り得た彼の寄宿先に手紙などするのだが、それに九郎は応えない。左門が事件の真実を話したことにより、是非九郎を召し抱えたいという大名が現われる。時に、九郎は22歳。その彼は、如何に事件について問われようとも、毅然と、一徹に、それは左門ひとりの力で成したもので、自分は一切関わっていない、と返す。大名の取り寄せた左門の証文を見せられても、左門は気が狂ったのであろうと、否定する。                                                                                  鷲見左門は延宝7年に54歳で病没したとある。6人の子を持った。その死後3年を経た天和2年の夏に千本九郎が61歳で病没。「それがしがご奉公は一代かぎり」と、彼は妻も子も持たなかった。その死に臨んでは、左門との思い出の品を、自分の遺体と共に土に埋めよと遺言する。なにか資料でもあって彼らの没年も知られているような書き方がされているけれども、他の池波作品で日付さえ入っている場合なども見て、あくまでもフィクションでのもの、と思われる感が強い。

 

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ノーベル文学賞作家とベニスと美少年愛

2015年01月27日 14時55分27秒 | エッセイ

前記事でダーク・ボガードについて書いた際、出演した「ベニスに死す」で共演した、ポーランド人美少年を演じたビョルン・アンドレッセン(1955-)の画像なども、改めてまた見たりなどしていた。映画出演の頃の、あるいは少なくともその後数年の間のものと思えるような彼の美しすぎる画像に感じ入り、それから成長して中年に至った彼の画像なども見て、ちょっと言葉を失くするような思いも覚えた。などと言ったら彼に申し訳ないけれども、美しすぎると形容するしかないような美少年ぶりだった昔日の彼に対して、それの消え失せた後年の姿をそこに見ざるを得なかった、というのは、やはり確か。

  

 

そんなことも印象に残ることだったのだけれども、そうしたことと共に「ベニスに死す」のモデルになったひとたちのこと。これは、1929年にノーベル文学賞を受賞したドイツ人作家トーマス・マン(1875-1955)の、同名タイトルの小説の映画化であったわけだけれども、彼自身のベニスでの体験をベースとして書かれたもの。というわけで、映画の中のアンドレッセン演じるタ―ジオは、マンが出会い、その美しさに心を奪われた、実在の人物であったということ。

 

            小説「ベニスに死す」                                                                                                                   

        

 

映画ではマンに当たる人物グスタフ・アッシェンバッハは50代。そして名と共に、容貌なども友人で亡くなったばかりの作曲家グスタフ・マーラー()1860-1911)を模したということだけれども、実際にマンがベニスで少年に会ったのは、1911年のことだから、彼は若く36歳。そしてポーランド上流階級の少年は、1900年生まれだから、その時、10歳か11歳という年齢。映画の一人で旅行に出ているアッシェンバッハとは異なり、その時にトーマス・マンは兄のハインリヒ、妻、そして子供と一緒。ということからして、その旅先ベニスにおいて美少年に心奪われるとは、それはかなり特異なことではないか、ということも思われる。いやいや、特異などではなく、普通に起こりうること、と見る向きもあるのかもしれない。例え家族と一緒であろうと、魅力ある何者かに気をとられるということはあるだろう。ただ、心の内に置いておくだけのものとして。小説を読んでいるわけではないのであらすじを読んだだけの知識になるのだけれども、著名な作家であるアッシェンバッハは、少年の後をつけるというようなこともする。家族のいる部屋を覗き見たりもする、というほどにただならない胸の内模様を感じさせる。36歳の妻子ある男の、11歳になるかならない少年への、恋。これはやはり、普通にあることとは思えない。

 

          兄のハインリヒ(左)、とトーマス・マン

            

 

帰国してすぐに彼はこの小説にとりかかり、翌1912年に出版している。そうした経緯などを見て、どのように考えたらよいのかということは出てくるように思う。立派な大人が、まだ子供といっていい少年に恋をするという、禁断ということになるだろうことを書き、公にする。マンが本当の同性愛者であるとするなら、おそらくはそれはできないだろうという常識的な推測は抱く。自身の本性を知らしめるというような表現行動は、敢てとらないだろうから。よって、芸術家としての審美観、感性を刺激するものとして入りこんできてしまった、特異な対象。ケース。できごと。という彼のセクシュアリティからすると例外的な性質のもの。という側面があって、ということからで、それへの妻の理解もなければならなかったのでは? ということは当然出てくるように思えるのだが、だがしかし、そもそも彼のセクシュアリティそのものに、本来は異性愛者というような一線を引けない背景もあったようである。そのあたりのことを妻が知っての上の結婚であったのであれば、そこは了解されたのかは解らないけれども、少なくとも愛し合う夫婦間であれば、夫が少年に恋をした、などということをが妻に知られるところとなれば、破局的な事態に至ってもおかしくはない。「ベニスに死す」が彼の代表作のひとつであり、文学的価値あるものであることとは別に、その辺りの内情も興味深くはある。彼の実体験がベースあるだけに。既に作家としての確たる地位を獲得していた作家の世界は、また別ということか。

   

    真ん中左がトーマス・マンの出会った少年     

 

ビョルン・アンドレッセンがタ―ジオを演じた映画の撮影時1970年の彼は、15歳。日本で言うなら、中学3年生。トーマス・マンが会った少年は、10歳から11歳のところだから、小学校の4、5年というところで、実際の少年の感じは、映画とは大分違っていたのではないかと、思う。もっと、ずうっと年下の感じだった筈。上の画像は、まさに出会ったその年のベニスで撮られたものなのだけれども、この画像から、前に座っている二人の妹の上の兄、右にいる姉の弟、という感じでとらえれば、その年齢からの感じは分かるような気がする。後方に立っているのは、友達のヤン・コダフスキー。ヴワディスワフ・モエスという男爵が彼で、旅行先のベニスで自分を凝視しているドイツ人作家のことには気づいていて、後年小説のポーランド語訳が出た時に、自分がモデルになっていることが解ったという。ただ、そのことを公言はしなかった。モデルの身元が明らかになったのは、マンの死後しばらくしてから、あるいは1971年の映画公開の時ともされる。

マンは、1901年に、「ブッデンブローク家の人々」という1929年のノーベル賞受賞理由となる長編小説を書いている。その時でも、まだ26歳。1903年には、中篇の代表作「トニオ・クレーゲル」。その作品の中のハンスには、彼が少年時代に思いを寄せていたアルミン・マルティン、あるいはハウル・エーレンベルクという青年に恋愛に近い友情関係にあったことなどの反映があるとされる。彼のセクシュアリティを思う時の手掛かりとして、浮かんで来ることではある。そこで、後年ベニスで、ローティーンの少年に胸を熱くして、その姿を追うとは?  ということになるのだけれども・・・・・・・・・。

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同性パートナーとの愛、ダーク・ボガードの人生のことなど思ってみる

2015年01月15日 22時40分15秒 | エッセイ

"ボガード"と言えば、先ずはハンフリー・ボガート Humphry Bogart。「カサブランカ」で知る彼が最初で、他にも似た名前の俳優がいることを知ったのはその後だから、他には聞かなかった名であるし、印象に残った。ダーク・ボガードDirk Bogarde(1921-1999)。知ったのがいつ頃のことかは覚えていない。イギリスアカデミー賞の主演男優賞をとった、彼の個性ならではと感じさせる演技の「召使」が1963年のものだから、彼は40代の初め。1965年には「ダーリング」で同じ賞を再度受賞。ゲイとしても知られるイタリアのルキノ・ヴィスコンテイ監督の作品「地獄に堕ちた勇者ども」(1969)、「ベニスに死す」(1971)、「愛の嵐」(1973)に出演。

                                                                                                                                                                                                 

ベニスに死す

     

 

1960年代の終わり頃には彼のことを知っていたと思うけれども、いずれにしても彼は中年という年代だったわけで、その顔立ちなど、当時中年に魅力を感じることの多かった自身の関心に入るタイプであった、というのは記憶にあります。ヴィスコンティ作品などよりも若い時代の映画になる、1963年の「召使」を見たのは、80年代に入ってからNHK辺りの名作映画番組のようなものでだったように思う。名の似たボガートなどとは全く別タイプで、そこはアメリカ映画の中に置かれる人物とは、ヨーロッパというだけでイメージも異なるし、心理描写の絡みも、陰影濃いものが漂う感じにもなる。「召使」のような作品はアメリカでは生まれないように思う。ともかくダーク・ボガードの漂わせる心の陰りを表現するに巧みなような、それが個性にも合うような感じ、雰囲気。それは、生涯独身で、そして愛ある同性のパートナーとの長い同居というような、そういう人生を送る人ならではの、役への嵌り具合、出せる味というのもあったのでは? などのことも、思う。

                           

                   

                                      

 

Derek Jules Gaspard Ulric van den Bogarde という長い名の本名。オランダのフランドル地方が父祖の地。という彼の名を、生活を共にしたアンソニー・フォーウッド Anthony Forwood(1915-1988)はどのように呼んだのか、興味がある。"ダーク"のDirkはDerekから来ているもののように思えるけれども、あるいはそちらで呼んだのかもしれない。Anthonyは、"トニー"だったんでしょうね。                                                                                   前記事で触れたレイモンド・バーとその生涯のパートナー同様、ボガードのパートナーとなったフォーウッドもまた1949年以来俳優として映画に出演。1952年の「Apointment in London」ではボガードと同じ映画に。ボガードは主役で、フォーウッドは、出演者の一人という処だったけれども、当時既に二人のつきあいは始まっていたものかどうか。Wikipediaではつきあいの始まり年、後で示すように「??」、となっている。フォーウッドが亡くなった1988年の年まで、という記載。ともかく、その1952年をとれば、ボガード31歳、フォーウッド37歳。共に壮年の時代。フォーウッドは、1956年に俳優としてのキャリアを終えていて、その後はボガードのマネージャーとなる。

 

      アンソニー・フォーウッド

   

 

フォーウッドには結婚歴があって、1942年に女優のグリニス・ジョンズ Glynis Johnsと結婚。そして1948年に離婚。二人の間にはやはり俳優になった息子がひとり。ガレス・フォーウッド Gareth Forwood(1945-2007)。妻だったグリニスは、その後3度の結婚をしているのだけれども、子供はガレスひとりだけ。

 

         グリニス

       

 

ということからすると、ひとり息子のガレスは、微妙に普通とは異なる親子関係の中で成長した男の子、ということになると思う。8歳の時に両親が離婚。彼が青少年の頃に母親が再婚をしていたとすれば、義理の父親ができていて、その一方で実の父親は著名な俳優であるボガードと特別な関係で、一緒の生活。母親の方で成長した思うのが自然だからその通りとして、離れて住む実の父、そして母、それぞれに愛されながらということはあったとしても、どのような気持ちでその時代を過ごしたのか、ということは思う。自身、二人の息子を持つゲイである父親のA・Wとつきあった経験から思うに、父親と特別な関係にあるボガードに対して、ガレスは普通に親近感を持ち、良い関係のつきあいができていたのできないかと思える。というより、そうであったと思いたい。親子の絆は深いものであるし。二人の父親がいるかのような感覚だったものか?

 

               ガレス

           

 

ボガードとアンソニー・フォーウッドは、アムステルダムに住み、その後イギリス、それからフランスと生活の場所を変えたことになるのだが、何といっても互いがあっての生活、という絆の深さを思ったりなどする。互いの間がどのようであったのか、想像するのみであるけれども仕事柄注目を浴びることが多い有名人であるボガード。結婚をしない、そして同性であるマネージャーとの生活を選ぶ。そうなれば疑いなくゲイ、という眼で周囲から見られることになるだろう、それに伴う偏見などを意に介さないほどに愛し合っていたということ。そのことを思う。ボガードには、例えばハリウッドに進出するチャンスもあったわけだけれども、その場合に有利な結婚というような形での女性のパートナーがいるという道を、選んでいない。フランスの女優キャブシーヌ(1928-1990)とつきあったことは言われるけれども、本当に愛しているのは誰よりもフォーウッド、ということは常にあったのではないかな。あくまでも、想像。

ボガードは、フォーウッドとの間はプラトニックなもの、と問われればそのように言っていたということだけれども、それは当然の答で、同性婚も可能な現代とはおおよそ異なるゲイ環境の中でのことである。ただ、性的な関係についてはいずれなくなっていくことは充分考えられるし、その先の深いつながりは実際プラトニックと言ってもおかしくはない、言葉通りのものになることもあるわけで。1988年にフォーウッドが亡くなった時、73歳。ボガード、67歳。

           

         

            

          

 

誰しもが、老いの時を迎える。ボガードのこと、人生のことを思う時、俳優として成功し、そして充実した人生ではあったのだろうけれども、苦しみ多いものでもあったことなども思う。1987年、フォーウッドは肝臓癌の末期症状で死にかけていた。それにパーキンソン病。そしてヘビースモーカーだったボガードは、その年の11月に軽い脳梗塞を起こしている。末期状態の最愛の人のそばにあること。そうした現実に向き合わされなければならないことのある、 われわれの人生。1988年の5月にフォーウッドは亡くなる。ボガードの人生の精神的な支えになってくれていた無二の存在であったことは間違いがない。終末医療を受ける状態のフォーウッドであったから、既に覚悟もし、安楽な死を迎えることを願う現実にあったとしても、その死によって彼を失ったことには、心の空白があったことと思う。1996年にボガードは心臓の手術を受け、その影響によって体に麻痺が残り、車椅子での生活となる。主にデイリー、テレグラフ紙に書いたものを中心にしての、自伝のまとめをやっている。1999年の、フォーウッドと同じ5月に、彼は心臓の発作でロンドンで亡くなるのだけれども、前日には、私なども映画での記憶の残る、彼の友達であったアメリカの女優ローレン・バコール Lauren Bacall(1924-2014)といくらかの時間を過ごしたとのこと。彼女、バコールはハンフリー・ボガートの妻だった女性。似た名前から、なにかしら、縁のようなものも感じてしまう。その遺灰は、フォーウッドとの生活のあった南フランスの家の土に、撒かれたとのこと。遺言によるものなのでしょう。心は、そこから離れなかったということを、思います。

 

          

 

Wikipediaの、フォーウッドの場合のこうした記載。配偶者(Spouse)の記録の下に、パートナーとの記録もある。ボガードの方にはないことを思うと、そちらにも入れておいてもらえればということを思う。彼の記録の重要な一部に違いないのだから。むろん、本文を読めば解ることであるものの、やはりそんなことも思う。

 

                

 

 

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最後までクローゼットだった著名なゲイたちのこと

2014年12月11日 20時05分48秒 | エッセイ

アメリカのLGBTのweb紙、ADVOCATE。

http://www.advocate.com/

各月刊の、印刷媒体のADVOCATEもある。

「代弁者、擁護者、主張者、唱道者」の意味合いのある言葉、紙名、誌名であることからして、「ゲイの為の」というその意図するところは、明らかでしょう。創刊されたのが1967年であるということを、今度wikiで見て知って、ちょっとおどろいた。というのも、多分その創刊間もない頃のことだったと思う。友人のアメリカ人のところで、私はページ数の多いタブロイド版のADVOCATEに接している。それが創刊年を、今知って感慨のようなものを覚える。豊富な内容で、ニュース、政治、オピニオン、アート、エンターテイメント等、ベースは現在と変わらなかったのではないかと記憶するのだけれども、覚えているのは音楽情報の辺りで新しいグループに触れた記事。Grateful Deadの名をそこで初めて見た記憶があるように、何かそれまでとは違った傾向の音楽が次々と出てきているのを知ったこと。Doors、Jefferson Airplane、Johnny Winterなどのことも、そこで読んだ記憶がある。

webのADVOCATEを覗くようになったのは、最近のこと。そのタブロイド紙のことを思い出し、予感通りにこうした形でも続けられているのを知ったのだけれども、アメリカやヨーロッパ以外のゲイ等に関する出来事、情報などもとりあげられるわけで、関心を覚えることに色々と触れることができる。各地、例えばアフリカ、あるいは中東などにおけるゲイ世界事情、というようなことなど記事で知ることができるようなら、関心はやはり向く。descrimination(差別)、あるいは偏見、宗教絡みのことなどもあって当然のようにそうしたことによる、深刻な問題も生じてしまうような地域。日本はまだ恵まれている、ということなど思ったりすることなどあるのだが、10月の9日のトップ記事に、「They died in the closet」というのがあった。その"They"は、アメリカで活躍、活動、生きた著名な人物たち。既に亡くなった人たちであるけれども、カミングアウトすることのなかった、ゲイと考えられたひとたちのこと。

男優、女優、弁護士、政治家、宇宙飛行士、FBI長官、ピアニストなどであった11人がとりあげられている。アメリカでも、かつては「カミングアウト」などというのは俳優であれば、それで「終了」、終わりということで、絶対に秘密にしなければならないことであったのだから、それはクローゼットにならざるを得ない。ゲイは、差別、偏見の只中に置かれている、性癖としてあった。そういう時代。とはいえ、現代においては状況がすっかりと変化をしている、と言えるわけでもない。俳優たちがカミングアウトによってキャリア生命を絶たれるというようなことはないにしても、差別、偏見は当然のように存在し、少年がそうしたことからのいじめによって自殺に追い込まれてしまう、というようなことが現実にあるわけで。

 

たまたま取り上げられた彼ら、11人。クローゼットとされながら、こうしてゲイとして表に出されてしまっている。それは生前からすでに暗黙の裡にそうしたひととして知られてしまっていたことはあるはずだし、クローゼットとは、ゲイであることをただ当人が公言しないということによるだけのもの、という理解で良いのかもしれない。ADVOCATEに取り上げられた順序に従うと、最初が元アメリカ下院議員、元ニューヨーク市長のエド・コッチ。Ed Koch(1924-2013)

 

キャサリン・ヘブバーン Katherine Hepburn(1907-2003)。個人的には、イタリア俳優のロッサノ・プラッツイと共演した「旅情」(Summertime 1955)を何度も見ているせいか、その映画の中の印象が強い。

 

アンソニー・パーキンス Anthony Perkins(1932-1992)。イングリッド・バーグマンと共演した彼と、「サイコ」での彼の何という違い。若い頃の彼を長沢節は「ミュータント」と、確か言った。それほどにスタイリッシュ、特異な魅力があったということ。

 

サリー・ライド Sally Ride(1951-2012)。宇宙飛行士。

 

リべランス(本名 Wladziu Valentino 1919-1987)。派手な衣装での演奏で知られたピアニスト。Advocateでは、彼が最も、ゲイとされることに拒絶反応を見せるのではないかと見ている。

 

ロック・ハドソン Rock Hudson(1925-1985)。エリザベス・テーラー、ジェームス・ディーンと共演の「ジャイアンツ」などが、先ずは浮かぶ。最後は、エイズによる死というのが、労しい。

 

 

ロイ・コーン Roy Cohn(1927-1982)。マッカーシズムの時代には、赤狩りの急先鋒。その後も悪名をとどろかせた人物。自身は同性愛ながらゲイの権利拡大には、反対。

 

バーバラ・ジョーダン Barbra Jordan(1936-1996)。政治家。

 

レイモンド・バー Raymond Burr(1917-1993)。テレビシリーズ、車椅子の「鬼警部アイアンサイド」のレイモンド・バーの私などはファンでした。長年のゲイのパートナーがいたことを知ったのは、かなり最近。

 

ラモン・ノバロ Ramon Novarro(1899-1968)。無声映画時代の剣劇俳優。最後は不幸な事件で命を失うことになったことを思うと、痛ましく思う。

 

エドガー・フーバー J.Edgar Hoover(1895-1972)。2011年にレオナルド・ディカプリオが演じた伝記映画「J フーバー」があるけれども、1924年から1972年まで、FBI長官。部下のひとりClyde Tolsonとは40年以上のつきあい。一緒に休暇をとり、毎日昼食を共にし。そして、二人共、生涯独身。

 

先に書いたように、クローゼットか否かにつては、当人が公に自身がゲイであることを表明したか否かというだけの処で、周りはみんな知り、承知していたというような形もあるわけで、なにか微妙な感じもする。人によりけり、場合によりけり。ここにあげられた著名人たちの中の特に3人の女性については、全くの未知識で、映画を通して知るキャサリン・ヘブバーンがレズだったと知らされても、そうだったの?  という印象しかない。ADVOCATEのようなそちらの専門紙だと、彼らについて様々に情報のあることなんだろうけれども、個人的に関心を覚えたのは、レイモンド・バー。「アイアンサイド」の彼のファンだったし、彼がゲイだったということを知ったのも、せいぜいこの1、2年というごく最近のことであるから。ロック・ハドソンやアンソニー、パーキンスなどのようにはるか以前からそういう知識のあった者とは、ちょっと異なる。

それで、色々と見てみたところでは、車椅子の鬼警部「アイアンサイド」のスタートしていた1960年代には、彼は既に生涯のパートナーRobert Benevides(1930-)と深い愛情関係にあったということになるわけなので、そんなことはむろん此方などは知る由も無し。

                 

                        

 

 

二人が知り合ったのは、テレビシリーズでRaymond Burr主演の「弁護士ペリー・メイスン」のセットで、1950年代の半ば過ぎということになるだろうか。放映が1957年から66年までのシリーズ。60年代に入る前後に二人はカップルとなって、俳優だったRobertは1963年に俳優を辞め、その後は「ペリー・メイスン」の番組に関わり、その後はパートナーのRaymondと共同でランの栽培、ブドウ園の経営など。1993年にRaymond Burrが亡くなるまでの二人の長い関係。パートナー。現在ならば同性婚をしているところなのかもしれない。Raymondは彼の遺産の全て、所有するものの全てを、Robert Venevidesに残した。羨ましいほどの相愛を、思う。

ADVOCATEの"They died in the closet"というタイトル。ちょっと、考えさせる。例えばのこと、Raymond Burr、どこまでのクローゼット?   

                                   

 

                               

                               

                                                                  

 

 

 

上が、レイモンドの晩年の肖像画と、Robert Benevides。

 

 

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バーニー・フランク / ハーバード出身のユダヤ系議員はカミングアウトも同性婚も議員初で

2014年03月14日 18時12分59秒 | エッセイ

Barney Frank(1940年3月31日生まれ)のことを知ったのは、多分YouTubeでだったと思う。おそらくはゲイ関連のビデオを見ていて、ということで、それも一年より以前のことではない。その辺りの記憶が曖昧になっているのだけれども、いずれにしてもカミングアウトしている政治家の彼が、同性婚をしたということを、知ったという訳なのである。アメリカ下院議会議員が、である。当然のことながら日本などでは考えられない、そうした事実を知るにつけ、天と地ほどにも違う国の間の内情を改めて感じることになるのだけれども、最初に印象に残ったことのひとつにBarneyという彼の名がある。cartoonのキャラクターにありそうな、ちょっと並の名前のイメージとは異なる、なにか名前のみで親しみを感じような名、という印象。

 

                     

                                        

 

それから、いわば白人的なユダヤ系ではなくて、中東的な肌色の感じというのか、人種性というのか、そうしたタイプのユダヤ系であること。というのも、私が昔愛し、今も心の中に残りつづけているAarnoldも同じようなタイプであったことから、似た部分を感じたということがある。Arnoldの、離婚したイタリア系の妻との間の二人の息子は、全くの白人タイプの外見であったのだけれども、最初に会った時のArnoldの印象は、浅い褐色系のエネルギッシュなラテン系といったところで、ユダヤ系ということは浮かばなかった。そうしたアングロサクソンやゲルマン的白人ではないゆえにまた魅力を感じたということもある。私が、24歳。彼が、43歳の時。夜のスナックでの出会い。因みにBarney Frankの祖父母は、ロシア、ポーランドからの移民。

Barneyは、ハーバードを卒業する前に父親を亡くしている。その後、ハーバーードのロースクールで学ぶと共に政治的な活動に入っていて、1972年にはマサチューセッツ州議会議員当選。1974年から2年間ほどアメリカンフットボールのチーム、New England Patriotsのオーナーの娘Catherine Sullivan、当時同じBoston school committeeのメンバーだった彼女と交際。だが結局のところ、自身がgayであることの自覚からその交際も終えることとなり、彼女が女性とのデート相手の最後となって、以降は女性とは一切なし、ということに。1981年には、アメリカ下院の選挙にマサチューセッツ州選出で当選。以降2013年までの議員生活となった。

1987年5月30日にカミングアウト。その月の5月7日に、親しい関係にあったコネチカット州選出の共和党議員、Stewart Mckinney(1931-1987)が亡くなっている。バイセクシュアルだったMckinneyの死因はエイズによるものであったのだが、医師は、その原因として1979年の心臓手術の時の輸血のさいに、血液からの感染した可能性の強いことを指摘した。議員という彼の立場を考慮して、同性との性行為によるエイズ感染によるものとすることは、できなかったということなのだろう。多くのgayたちが感染していた当時の状況からして、Barneyが怖れを感じなかったはずはないし、親しい友人のエイズによる死が彼の気持に大きな変化を与える一因になったことは、間違いのないことなのだろう。その直後にカミングアウトしているということは。

Barneyの選択。エイズに感染する可能性、感染した場合に同性との性関係、gayであることが知られること。それよりもgayであることをカミングアウトしておくことで、そうした不安を消してしまう。どうするかということで、優秀なエリートは考えたことと思う。その後、彼はエコノミストにしてLGBTの活動家であるHerb Mosesと1998年の7月まで、11年つづく関係を持っている。当時二人の取り合わせに、議会周辺では最強のゲイカップルと噂されていたのだとか。その後に、2012年7月7日に結婚をすることになるJames Readyと知り合っているわけである。サーフィン特技の彼とは、gayの政治基金調達のためのパーティで出会っている。

 

                          

 

                      

                   

                   

 

                      

 

 

年齢的には、Daddyと息子、という感じになるのだろうけれども、長いパートナー関係の後で結婚という形まで行ったということだから、様子からしても相性が良さそうに思える。Daddy Barneyがいつまでも元気でいてくれたらね。

           

               

 

 

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カミングアウトした娘をunconditional love(絶対の愛)をもって受けとめた両親

2013年12月13日 22時02分24秒 | エッセイ

2007年、アメリカの1時間38分のドキュメンタリー映画「For The Bible Tells Me so」(監督、Daniel G. Karslake )を遅ればせながら見て、印象にのこること、考えさせられること、色々とあったのだけれども、カミングアウトをした娘を全的な愛をもって受け入れた一組の両親のことは、とても印象深い。元ミズーリ州選出の米下院の民主党議員、そして2004年の大統領候補、Dick Gepharldtがその父親。いわば、彼女はセレブの娘。Chrissy。両親の卒業したノースウェスタン大学を、1995年に卒業。2009年には、ジョージタウン大学のロースクールを終えているのだけれども、カミングアウトしたのは、2004年、父親が大統領候補になった年に重なる。その選挙キャンペーンに彼女のカミングアウトは、不利になるのではと予測されもしたものの、現実には国全体に及ぶGayグループ等の支持を得ることにつながり、プラスともなった。

だが、政治家の家族。その一員として彼女は悩みぬいたはず。1997年に大学時代に出会った彼と結婚をしたものの、やはり同じ大学以来の同性の友人がいて、その彼女と自分が本当に求めた恋に落ちる。けれども離婚をして自身にとって本当のしあわせを分かち合える、その同性の恋人を選ぶことは、政治家である父親にとってどのような打撃になるのか。そのことも考えざるを得ない。深刻、むずかしい状況におかれた。だが、彼女は、カミングアウトをする決心をする。ところで、両親に話すために待ち合わせた店で、彼女が切り出そうとする前に、母親のJaneがChrissyの話そうとする内容を察していたように、そのことに触れた。つまりは、「夫のMarcではなく、彼女の方をあなたは選ぼうとしているのね」、ということ。

Chrissyとすれば、話そうとする内容が内容だけに、特別な思いをもって準備をしてきたであろう言葉の切り出しを、そうした形でズバリ言い当てられ、持って行きどころを失ってしまうようなことになるとは思ってもいなかったのに違いない。母親が見透かした通りに、彼女は、同性との愛を選び、それを両親に伝える決心をしてやってきた。そして、予想外のことに母親は既にそのことを察し、そしてそこで初めてChrissyが同性愛であることを知った父親のDickは、彼女が予想もしなかったことに、即座にあるがままの全てを受け容れてくれた。両親に話そうとするまでに彼女がいかに悩んだか、またこれまでに彼女が抱えてきたもののことを父親は思い、unconditional love、絶対の愛をもって彼女を護る姿を見せてくれたのである。

何という父親だろうか。人間の理想のような心を持った人。そのようにしか思われない。本当に我が子を愛している人ならではの、その包容する愛の深さ。宗教云々、同性愛云々などを超えての、その愛情。その母親と共に。その心の豊かさには、言葉がないほど。素晴らしい両親、と思うしかない。

         

           Chrissyの両親

           

 

                        Chrissy

                        

                        

 

 

 

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ハコちゃん(岩下尚史)という方の顔、お姿を初めて見る

2013年06月04日 23時28分47秒 | コラム

                    

                         

  

6月4日の今朝も、朝関心のある部分だけだけれども聴くことの多い、ニッポン放送の「高嶋秀武の朝ラジ」を聴いて、途中でスイッチを切ることが多いものの、今日は忘れてしまっていて8時からの番組が流れていた。申し訳ないけれども、8時からの「垣花正のあなたとハッピー」は特には聴いていない番組なのである。垣花君の話す声が聞こえていて、「ハコちゃん」という人の名を言っている。以前にも、たまたま聴いていた時にその名前の人が番組に出ていて、印象としては、オネエ風な話し方をする苦手なタイプ。というようなところで、何を言っていたかの記憶などはないのだけれども、今朝も聴こえたその名前に、声を聴く前からこましゃくれたような魅力のないオネエタイプ中年がイメージされて、とても聴けないなという感覚になり、ラジオのスイッチを切ってしまった。

 

切った後で、そのハコちゃんというのはどういう人なのか、ということを今朝は考えた。それがなければ、彼のことは今も知らないまま。そして、いやな苦手なタイプ、という印象を持ち続けていたことと思う。というより関心もなく、忘れていたことと思う。ところが今朝、ネットで検索をしてみて、その人の画像が先ずは眼に入った時、イメージした人物とは全く別であることを知った。んん? こんな人だったの?  という処。つまりは、個人的な印象として、素晴らしく良かったということになると思う。感じが良いではないですか、と思い感じたというわけ。Wikipediaでその人のことについて見てみても、立派な仕事をされている確かな自身の世界を持っている人物ということが伝わる。YouTubeの対談ビデオを見て、もっとその人のことが見えてきた。ほんの僅かな間に、全く別の人をそこに認めるようなことになったということ。

 

1961年生まれということだから、今年で52歳ということになるんですか。かなりテレビなどにもでておられたようなので知られた人、ということになるのだろうけれども当方、テレビを見ないということもあるのか、全く知識無し。よってそのハコちゃんという名前のみラジオで知っただけなのであるけれども、何をしている人であるかも知らない。ということで、とりわけYouTubeの対談ビデオを見ていての表情、話し方などには興味を覚えた。服装などのセンス、洗練などにも彼という人ならではのものの表われているのを感じたけれども、思わされたその精神的に備わったもののこと。Wikiによれば、「十代の頃から、能、歌舞伎、新派劇、声曲舞踊に親しむ」ということであったようで、早くからそうした世界に興味を抱くことで、吸収し深めていったものが、彼という人の土台を確かに造っていったんだろうな、と。

 

というようなことで、ハコちゃんなる名前もいただいている岩下尚史さんという興味深い人のことを新たに知り、いずれまたラジオなどで声を耳にすることがあれば、今度は別のイメージを以て耳を傾けることにしようと思っているところ。

 

                                              *  *   *

 

このYouTubeの対談ビデオを見ていて、かつて知ったある人のことが思い浮かんできた。タイプとして、非常に似ているのではないか。顔立ちなどは、岩下さんの方が良いとは思うけれども、だが身だしなみなどの洗練、全体の輪郭、あるいは伝統などへの造詣を備えた、高いものを感じさせる印象。そして、ホモセクシュアリティ。中年。そうした共通性。その人に会ったのは、遙か遙かに昔の私が18歳位の高校生の頃で、何度かはセックスの関係も持ったように記憶する。彼は、K大の学生時代には歌舞伎研究会にいたという人で、当時もOBとして研究会とのつながりを持ち、企業の人ではありながら自身でもその方面の活動をつづけていたという人。岩下さんをビデオで見ていて、私の知るその人に絡めて、恋愛的、性的関係の方面のことなども、岩下さん当人には余計と思われることながら、想像などしていたところもある。

 

あるいはその方面でも似た傾向があるのではないかな、などという思いと共に。かつて知ったその人の場合など、知るだけに。

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最新のオイレンシュピーゲル誌ながら初めて知る雑誌にして

2013年05月08日 16時48分14秒 | コラム

              

 

 

大学図書館の外国雑誌の棚で今日見かけて、大胆な表紙画像、という印象を覚えたものなのだけれども、このキスは挨拶のものなのではなくて、恋人同士、あるいは同性婚をした夫夫という間柄でのキスと見たら良いのでしょうね? ドイツ語の雑誌なので中を見ても分からなかったのだけれども、ここに、I've been looking for freedam、とあるので言わんとしていることは分かるイメージの画像であるわけなんですね。欧米のGayに絡む映画、テレビドラマなど一般に流されているものを見る機会が私なども多いですが、本当に日本とは別の世界、環境がそこにはあることを感じさせられます。偏見は、あるいは理解の難しさは何処に於いても存在するとしても、現実に法的に同性婚、civil unionのようなことが法的に認められているという世界があちらには現にあるということ。ということで、こういう表紙画像も普通に万民向けに出ている、という現実。日本に於いては、所詮あちらの国のことだから、と他人事ならではの受け止め許容。これが日本人同士などということになれば、印象からして、それはもう、、、、、、、、。

 

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ゲイ/画家/フランシス・ベイコンを知る

2013年03月23日 19時05分37秒 | コラム

                                 

                                                         

                          

  

現在、国立近代美術館で「フランシス・ベーコン展」が3月8日から5月26日までということで開催されている。見に行こうかと思ってはいるけれども、どうしてもというほどの関心があるわけでもないことから、どういうことになるか。絵の前でどういうことを思うものか、考えたりしているのみ。                                                      実のところは先月だったか、W大学の中央図書館で雑誌「美術手帖」を手にとり、そのベーコン特集号で彼のアトリエの模様などを見てその特異さに目をひかれるまで、彼のことは知らなかった。彼について書かれたその記事で、彼の同性愛関係の相手(ジョージ・ダイア、後に自殺)のことなども知り、その独自の表現世界や人物などに、それとなく関心を抱くことになった。そのセクシュアリティがゲイにあることを知れば、その表現に見られる影響などにも考えは向く。日を置かずに、彼を描いた映画1998年のLove is The Devilを見た。フランシスを演じているのは、デレク・ジャコビ Derek Jacobi(1938-)。彼は、1986年のBreaking the Codeでも、やはりホモセクシュアルで天才数学者のアラン・チューリング(1912-1954)を演じている。デレク自身、実生活でイギリスに於いてCivil partnershipの施行された4ヵ月後の2006年に、27年間パートナー関係にあった俳優のリチャード・クリフォードと同性結婚をしている。サーの称号を与えられた俳優。アラン・チューリングにフランシス・ベーコンとホモセクシュアルでもある人物の役を、ホモセクシュアルの彼が演ずるという巡りあわせになったものだけれども、感心させられるほどの演技者という印象、強し。不思議と外見的にフランシスに似たところのあるタイプ。

                                         デレク・ジャコビ

                                         

 

 

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今野雄二「きれいな病気」を今読んでみる

2013年02月06日 08時57分10秒 | 文学

                     

                                                                                              

少し前、その名を知っている50台のあるラジオ局の人物が自殺死をしたということを、何かで知って、とても意外に思った。番組を聴いた記憶も定かではなかったが、イメージとして自殺をするような人とは思えなかったということがあったと思う。ネットで画像を探して見てみると、私の好みに入る顔立ち。何が彼を自殺というような行動に向かわせたのか?  そんなことがあって、他にも私が知らないそうした自殺による死を選んでしまった意外とも思えてしまうような、その名を知る人がいるのではないかと、ネットで見てみることになった。眼に入った中のひとりが、今野雄二。初めて、知った。首吊りによる自殺をしたというのが、2010年の8月、66歳だったということ。現在からは、2年半程前のことになる。テレビなどで見ての記憶にあるのは、70年代以降、90年代辺りまでなのではないかと思えるけれども、彼と66歳という年齢のイメージが、どうもうまく重ならない。多分50代以降の彼というのは、見ていないのではないか。その彼と自殺という最後を、どのように結びつけたら良いのか、想像するのもむずかしい。

                                                                                                                                            

そうした事実を知ってから、Wikipediaを見ていて「きれいな病気」という小説集のタイトルを眼にし、そうしたもののあったことを思い出した。この作品集が出たのが1989年の11月。だが、そこに収められている7つの短編作品が書かれたのは、最後のものでその3年以前の1986年の雑誌「野生時代」ということで、1984年から発表の始められたことが「あとがき」から分かる。多分、私は雑誌の方で、チラリ程度に見たものと思う。別の分野にいたと思っていた彼が小説を書いているというので、ついにそういうことも始めることになったかと、その才能の幅のことなども思ったものだけれども、チラリとしか見なかったのは、内容に対してはさして関心を抱かなかったということからだと思う。登場する人物たちも、とくに知りたいと思うような方面の人間たちでもない。設定なども彼の感性流に従っていかにも現代のそれらしきエリアの、といったふうにこちらが勝手に抱いたイメージをもって、関心向かないものと、敬遠してしまっていたようなところがある。

                                                                                                   

小説と言えば、同じ頃、私はゲイの雑誌に幾度か、連載の形で小説を書いたりなどしていた。一回について400字詰50-60枚見当という処で、4回ほどで終了。4作ほどを、そのような形で連載。他にも色々と書いたりなどしてきたものだけれども、もちろん、それは、ゲイの雑誌のこと。対象とする読者が、一般雑誌とは全く異なる。ただ、70年代辺りでは、私も一般風俗雑誌の類に普通の男女絡みの読み物を書いていたということもあるので、今度今野雄二の「きれいな病気」の各短編を通して読んでみながら、書く側の心理面の反映などにも自然と眼が向いたのだけれども、もちろん成り立たせている処の、異なる種という面のことは思いつつ。読者に誘う要素の違い。色濃く性絡みのものを含んでいるけれども、大野のそれらの作品には、それを突き抜けた向こうに、別の讀み方をさせること、あるいはすることを狙っているような意味の重層を意識させる表現に仕立てている、と思わせるものも含まれている。通常の、感覚、感情移入をして入れる世界とは、異なるスタイルを持ち込んでいると、今度読んで感じたりなど。

                                                                                                

メデイァに登場した彼の若い時代から、そのSexualityがGayであるはずというイメージで自身などは見ていたけれども、これらの小説を書いた時には、既に40台に入っていたというわけで、カミングアウトしていたのかどうかは記憶にないながら、周辺などでも衆知の、公然と認めているにひとしい状態にあったものか。例えばのこと、臆することなく男色行為を赤裸にストレートに突き出し見せている思い切りの良さは、なかなか他には見ないものではなかったか、それは現在の日本に於いても変わりないような、と思わせる。ということの背後には、そうしたSexualityによって云々される次元を超えた先に、狙いのkeyとなるものを置いている、という知的な確信、自信があってのこと、などということを思ったりするけれども、進んだ意識、日本人的ではない、アメリカ的な感性の濃い影響。そうしたことも、浮かぶ。選んだ大学がICU(国際基督教大学)である彼のことだし、人とのつながり、文化、風俗多々、作品の何処かに反映されることになる筈の、それら背景のことなども思わせる。

                                                                                               

 というようなことは、今度読んでみてその印象を強くしたような部分であるのだけれども、80年代当時にチラリと覗いた程度だった時には、一作も通しては読んでいない。ほんの部分からの印象しかなかったことで、今度一応通して読んでみて、それなりに見えてきたところがあったということ。タイトルの「きれいな病気」というのが、中の一篇で女の言っている言葉からのものであることが分かるのだが、本の裏表紙に見える英語で書かれたタイトルがSWEET SICKNESS。日本語のタイトルには見えないニュアンスが、そこから伝わってきてこの方が分かりやすく感じられるとは思うのだけれども、SICKNESSなるものをSWEETととれる感覚が受け止める側にあるかどうかが問題。この場合のSICKNESSは、この短編集の殆どに表われる、ある対象に対する憧憬、崇拝。その性的行為としての、普通にはSMなどと言われる形への発展。隷属し、奴隷となることに悦びを覚えるような行為、関係。例えばの処、その種の行為、絡みのあるようなことをSICKNESSと呼び、良い感覚の愉しみとしてSWEETと感じられるか。今野は、多少の気取りをもってそのようなタイトルとして、提示をすることにしたものか。自身の洗練を、そうした形で表現したい?

 

『 厚い胸板の上で、筋肉の盛り上がった太い腕を組み、傲然と真理を見下ろす、このブーツをはいた褐色の仁王像の股間からは、漆黒の大砲が堂々と天を向いて、そびえ立っていた。 』              

                                                           「strange rainbow」

その股間から発せられる小便や精液の交じり合った悪臭のようなものにも、全身まみれたいと願うほどに恍惚とする真理に、振り下ろされるベルト。快楽のうめき声を上げる。

 

『上半身だけ裸になって便座に腰を下ろし、大きく足を開いた男の足元で、もうひとりの男が膝をつき、長い舌をブーツのつま先にはわせながら、自らの男根を盛んにしごきたてていた。』

                                                                 「perfect sex」

形態諸々。但し、通常のセックスとされるようなものは、そこにはないという世界。

 

『その初めての夜、葉子がほんとうの女の涙を流したのは、正行の武骨な掌が自分の裸の尻っぺたに振り下ろされたときだった。熱い掌が自分の肌にまっ赤な跡を残していくときの、えもいわれぬ痛みに、彼女は脳髄までがとろけていくようなよろこびを味わっていた。』

                                                              「burning hand」

正行は、50に近い成熟したたくましい男。葉子は、それが初体験の17歳。父親コンプレックスの強い彼女と、妻帯する正行との間に、通常の性の関係も思いを受け容れられる余地もなく、くるしんだ末に、アイドルタレントの葉子は自殺する。

 

Sexualityに絡むことにおいて、Gayなどの場合のturn on対象というのは、かなりはっきりもし、限られてくるということが、普通には考えられること。自分の好み、求める形。書く場合においても、関心を覚えない、対象、傾向方向などは選ばないだろうから、「きれいな病気」中の7篇を通して見えてくるものから、作者のturn on傾向がかなり読めてしまう、と此方などは思う。入り込んだ自身の生の感覚を添えつつ、ということなくしては描けないもの、こと性的行為に絡むものに関しては、当然そのようにあるものと見る。ということにおいて、壮年のたくましい男、Daddyイメージ、そうした魅力ある男を求めるに、それに心身共に奴隷のように隷属する形で充たされようとする、被虐的にその魅力の餌食になりたい、その形に於いてこそ尽きない悦びが得られる、というマゾ感覚をモデルを通して形を変えて繰り返し示しているあたり、作者の思いの深い処、かなり見えてきているように思う。あとがきにある、「現実よりも、よほど現実的と思える虚構の世界」という言葉に、自身の内にあるリアルなものの投影が作品の中で成されたことがうかがえる。彼が最も魅せられる、至上の男の魅力に対して自身が斯くありたいという、感覚的位置。彼のSWEET  SICKNESSも、そこから考えられそうにも思えてくる。

というようなことは、実の彼を知るわけではない、作品から受ける想像でしかないけれども、読者に別の讀み方をさせることをも目論んでいる、重層的にも描かれた内容、とも思われる部分も併せ持つ、ということにおいて、作者の意図の大きなところはそちら、という見方もできるということ。ということでは、通俗小説のように、見たままの浅いものではないよ、ということも言えるし、巻頭にエビグラフが置かれているというあたりにも、その意図が感じられること。トーマス・マンの言葉として最も愛する者は敗者である。そして苦しまねばならぬ━━━」、と。どの人物、どのような行為にその最も愛する者のモデルが見えてくるものか、読むことを通して見てみたくなる処だけれども、それから数十年後に自ら死を選んだ彼にもそのエビグラフが向けられるとすれば、などとも考えたくなるのは、イメージとして最も愛する側のタイプの人のように彼が映るから、ということもあるように思う。崇める対象を、追う側の人間。そちらのタイプ。ということの内に沈殿し、重みを増す、苦しみ。そのようなことが彼の人生の時間を通して、どのような形で現実にあったものかどうか、それは解らないけれども。

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J・R/記憶に残る街/アムステルダム

2012年11月19日 15時48分33秒 | エッセイ

                 

 

今は本当に便利なもので、此処にいながらにして遠い国の街並みを画像で見ることができる。Googleでの航空写真、地上の都市街路ナビ。それを利用して、昔住んだことのあるアムステルダムに「出掛けていく」。何十年ぶりかで見る辺りの様子。 上の画像は、住んでいた運河沿いのその通りの、ほぼその位置。                                                                                               12歳年上のユダヤ系オランダ人の画家の住まい。二階分使っていた、その上の方の階に数か月住んだ。日本にいる時に知り合い、性的な関係もあった、やはりユダヤ系のアメリカ人。この人はアメリカの大学の教師だったのだけれども、研究の関係で日本にもよく来ていて、私がヨーロッパに行くことを知って、ワルシャワだとかパリ、アムステルダムの知人のアドレスを教えてくれたのである。もちろん、いずれもホモセクシュアル。そのようなことで、アムステルダムに着いた時、駅からJ・Rに電話をした。うまい具合に連絡がとれて、会いに来てくれた。駅前のカフェでコーヒーなど飲み、話したのだけれども、最初から彼に魅力を感じた。そのまま、階こそちがえ、実質一緒同然の恋人同士としての生活をするようになった。

数か月過ごし、日本に帰り、また翌年会いに行ったりなどしたけれども、やはり色々とむずかしいことなどもあり、帰った後、再び会えることはなかった。でも、お互いの愛する気持ちは変わらなかったと思う。手紙のやりとりはつづいたけれども、それもいつか途絶え。何年か前、ネットで検索した時に彼が1996年に亡くなったことを知った。その時には、アムステルダムのユダヤ系の美術資料館にメイルをしてみたりなどした。そして、残されている作品の紹介などを受けた。今もネットで絵の一部を見つけることができるけれども、彼との間にあったことを、色々と思う。自身の人生にとって、そうした彼との出会い、記憶も宝。

 

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YouTubeで触れるアメリカのLGBT状況の一端☆励ましのメッセージ

2012年09月21日 07時03分10秒 | コラム

LGBT(レズビアン,ゲイ,バイセクシュアル,トランスジェンダー)青少年への、It gets better project。

偶然にその関係のビデオに触れて感じのは、そこに登場する人たち、その所属先が、誰もが見ることのできるYouTubeのような場でゲイとして、あるいはレズビアン、バイセクシュアルとして表に出てきていることへの、強い印象。公然と出てくることなしには、その訴える力とはなりにくいのだから、それはそうなのだろうけれども、勇気ある人々、心に強いものを持つ人々ということを、やはり彼らには感じさせられる。別の国、別の環境、世界なればのこと、というのは確かと言うしかなく、日本などでは考えられない、彼らのaction。                                                                                             2010年の9月にこの活動を立ち上げたのはアメリカの作家、メディア評論家のDan Savage(1964-)、そしてその夫 Terry Millerということだけれども、夫夫ということからして同性婚の二人。やはりそうしたベースがあって立ち上げられた活動なのではないかとも、思われる。

このプロジェクトに参加をしているのは、個人、恋人同士、同性婚をしている二人他、さまざまであるけれども先に書いた所属先、ということでの会社、大学等のことに触れると、著名な名称の場所が網羅されてしまうのではないか、というほどの広がり。CBSのEmployeesもある。ホワイトハウスのスタッフ。VisaのEmployees、AppleのEmployees、Disney、FacebookのEmployees、ソニー映画エンターテイメントのEmployees、Harvard Business School、コロンビア大学、イェール、ハーバード、California Academy of Science、UCLA、スタンフォード、イェール大学の神学部、等々、限りがない。年齢、男女さまざまに、登場するひとりひとりが、ゲイとしてあるいはレズビアンとして等、自分のセクシュアリティにどのように悩み、あるいは苦しみ、それを受け入れるようになったか、なれたかというような体験に触れてくれている。教授もいる、大学院生、政府系機関の職員、スタッフ、様々な企業の社員など、それぞれに今は社会の中で活躍する人々ながら、セクシュアリティゆえの他と自身の差異を成長段階で向き合わされてなやみ、あるいはそれゆえにひどいいじめを受けた体験を持つ人などのいることを知らされる。

当時のくるしさを思い起こし、涙ながらに語る人、自殺を考えた人なども。何故にそれほどにセクシュアリティゆえのいじめがひどいのか、と感じる。アメリカの高校がどういうものか、こちらには知識がないので、このビデオに登場する彼ら、男性女性、その何処にいじめにかかる側である他の者たちが性の異質などを感じとるのかが、不思議に思える。カミングアウトをするか、特別にゲイやレズビアンのように振舞わない限り、普通には相手がゲイなのか否かも分からないのではないか。私などの感覚ではそうなのだが、どうもそれだけではない、何かしらちがうものを感じれば、例えば真面目すぎるとか、自分たちとは違う雰囲気のなにか、それだけでも暴言のような言葉でからかいの対象とする、というようなマッチョ主流のような風潮? 同性愛者に向ける、" queer"だとか、"fag"の言葉を投げつける。暴力さえもふるったりする。というような、なにか、日本で育った自身などには分からない、異質なものがあちらにはあるように思える。とりわけ高校時代を通り抜けるのがいかに大変かを、彼らは知らせる。人生の最悪の時期だったと、言う。

現にその時代にあるティーンエージャーが置かれている、彼らが過去に経験したような状況。セクシュアリティによるいじめによって自殺する青少年のいること。こうしたプロジェクトが立ち上げられたのも、その深刻さあってのことであるはずだけれども、青少年たちがその時代を乗り切れずに死を選んでしまう。それはあまりにも、自身の人生を大切にしないこと。その時期を乗り越えれば、必ずやpositiveに自身のセクシュアリティについても、周囲の世界についても考えられる時が来る。愛する人との出会いもあるはず。そうした自身に出会うことなく、死を選んだり、死を考えたりすることは絶対にするべきではない。"It gets better"。ビデオに登場する大人となった彼らすべてが、心からその言葉を口にする。"It gets better.So much better"。

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