携帯破壊者~FOMA destroyer

三ヶ月に一度書くくらいの日記コーナー。

ぼくの、わたしのかんがえた変態剣士 「What is Jujuts?」裏

2008-10-04 22:58:40 | Weblog
没鬼剣 - だって、思いついたから - 文投げ部
>みんな、「ぼくの、わたしのかんがえた変態剣士」を書けばいいと思う。そして山口貴由先生を尊敬すればいい。

を執拗に紹介するナンバーファイブさんの変態的な小説構想に痺れたので、僕も書いてみました。
なんだか、こじんまりまとまっているのがちょっと恥ずかしいですね。


※※※

いずれの武道もそうであるように、柔術の興りがいつであるかの特定は困難であるが、その道統の一方が失われ、稗史よりその姿を消した時期を特定することは必ずしも不可能ではあるまい。ジュジュツがその片割れたる呪術を失うのは、寛永六年、駿河大納言の真剣大試合においてのことである。


久能山にこもる修行僧たちの全滅が伝えられたのは、寛永四年盛夏のことであった。
駿河藩領内にあって寺領800石を拝領する古刹、臨画寺の住持は当年168歳、呪力を持って世に知られ、元亀天正のむかしには郎党を率いて風摩忍軍の侵攻を阻んでいる。大御所、二代秀忠と用いられること決して軽くなかったこの一族が、稗史に残す足跡はあまりに少ない。わずかに手児奈草にその記述を見られるばかりである。


滅んだ山を前にして凪愚理斎の心は静かであった。
青春の長い日々を過ごし、血を、汗を、涙を流した仲間たちが、夜と霧の中に消えていく。
凪愚理斎は振り返らなかった。足元を生臭い風が吹く。


臨画寺高弟、中出水牛坊が師から月山への使いを了えて帰ったのは、それから十日ほどもたった午後のことである。常ならば鼻を覆うばかりに香が炊かれ、タントラの性臭を消しているがさなきだに暑い季節、山中のこととあって全山には腐臭が満ち、嘔吐を催すばかりの有様であった。水牛坊は虫を吸い込まぬよう口元に布をあて、ごく冷静に検分した。虐殺があったのだ。いずれも素手で肉体を叩き割られるようにして果てている。
ジュジュツ者のこもる寺院はそのまま地上の異界である。七里結界を踏み破って侵攻できる軍勢などあろうとは思えぬ。水牛坊はしばし瞑目した後、着座。降魔坐に組んで結印、光明真言を唱えて観想、三昧境に入り、必殺の呪法を展開する。

おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん

全山の死骸…修行僧、寺内で働く俗人たち、瑜伽母たち、いまや腐れ落ちてもとの容貌も定かでない人々が真言に従って立ち上がり、それぞれに規定の位置取りで着座、結印。腐って割れた喉から、穴の開いた胸から、声なき声で真言に唱和する。水牛坊は亡者の中から一体の瑜伽母を選び取り、対面座位で交わった。
いまや水牛坊は自らをして男女合体尊と自らを合一させたのである。すなわち亡者どもは彼を中心とした曼荼羅を描いて配置され、地上の仏国土とも言うべき金剛圏を形成する。空を飛ぶ鳥の目線あらば、このときここに雲を突く舟形の光背を認めたであろう。全山の禽獣これに触れて往生せぬものはなく、一木一草に至るまでが功徳を与えられて成仏を遂げた。
舟形光背の成長は今や頂点に達し、一本の杭…キーラとなった。水牛坊が、亡者が、獣が、虫が唱える真言がキーラを動かす。その矛先を、実のところ、水牛坊は知らぬ。ただ知るのみである。一たびキーラの呪法が成ったなら、標的は過たず破滅するのみであると。どこにあろうと関係ない。文殊の知恵の三千世界を遍照するがごとく、キーラの利剣は過たぬ。



拳田凪愚理斎は唯識論的直観に打たれて天を仰いだ。
ふもとの村で女郎を買うべく値段交渉にいそしんでいる折りの事であったが、凪愚理斎は交渉を降りた。
一見の客が値切りに値切ろうとしているのを苦々しく思っていた店主は、店でも評判の悪い女をつけたが、凪愚理斎は構いつけない。
のみならず、少し多めに金を出した。前金で、である。
女を部屋に引き込むや、手に唾して尻を打ち、背後からねじ込む。可能な限り速やかに事を了えるのだ。時間がない。焦燥が凪愚理斎の腕に常ならぬ力を宿し、掴み締めた女の尻肉をひとむしり、ふたむしりと千切った。黄色い脂肪と滲む血が、薄汚い夜具にぼたぼたと染みを作る。
だが女が悲鳴をあげる暇もあらばこそ、一声おめいて女を突き飛ばした凪愚理斎が吐精するのと、飛来したキーラが村を灰燼に変えたのは全くの同時であった。


水牛坊は首をかしげた。凪愚理斎が死んでいないのである。
この殺戮の山にあって死体のない者こそが殺戮の張本人であろうと踏んだ水牛坊は一切の遅疑なく呪殺にかかったのだが、これを免れてなお命があろうとは全く解せぬ。
思えば始めから奇妙である。凪愚理斎が元々、臨画寺の修行僧であった以上、結界の役に立たなかったこと自明であるが、ならばなぜ彼奴は素手での殺戮に拘ったのか。死骸はごく狭い範囲に散らばっており、おそらくは多対一の格闘戦を行ったことを示している。これほど多くの呪術者が集まる場にあって、呪術による攻防が行われた形跡もない。水牛坊はようやくに漸悟した。
「柔術…!」


古来、呪術と柔術は寄り添うようにしてその道統を伝えてきた。
印度において花開いた後期密教は、その性質上闘争を避けては教線を拡大できないものであった。
既存仏教とも、外道たる異教徒とも折り合えぬ最も先鋭化した呪術の体系は、母国を離れてなお異質であった。
いや、素朴な仏教観を持つ異国人たちこそ、後期密教を最も嫌悪したかもしれぬ。彼らが闘争の手段…ジュジュツを生み出したのも、無理からぬことであった。
特に中国南方にあって隆盛を極めた禅宗との闘争は熾烈を極めた。禅僧たちはその公案体系によって呪詛を論理的に解体し、事実上無力化してしまう。棒喝を常とする禅僧は物理的闘争において常に密教者を上回り、その教線拡大は至難を極めた。密教者がこれに対応すべく生み出したのが柔術である。
その剛拳は魂を打ち離し、その拳打は頭頂部を縦に打って飛び出た脳を草鞋に乗せる程であったという。


―――だが、
と水牛坊は自問する。彼奴が柔術者であったとして、それだけで全山を殺しきれるとは思えぬ。
なんとなれば、柔術では呪殺を防げぬからだ。禅僧ならぬ凪愚理斎はいかにしてキーラを、それ以前の数々の呪法を防ぎえたのか。純粋な呪術の力で押し負けたとは思われぬ。呪的ファイア・パワーで己と伍すものは海内にあるまいと自負している。
ならば彼奴は明鏡止水を得て善悪の彼岸を離れ、いかなる悪意もその身に触れえぬようになったのか。そうとも、思えぬ。
水牛坊は戦慄する。彼奴は未だ知られざる、外法の中の外法を行ったのだ。


燃え落ちた家屋の下から凪愚理斎の姿が現れる。彼は生き埋めに遭っていたのではない。
キーラは着弾の衝撃で屋根を吹き飛ばし、梁を、柱を折り、地上のあらゆる建造物を炎上させた。
圧倒的なカタストロフの中で、一人凪愚理斎のみが静かである。さすがに無傷ではなく、衣服も汚れているが、表情は冬晴れの朝のように清らかであった。凪愚理斎が立ち上がると、一瞬の架空熱量で炭と化した女郎の死骸がぼろぼろと落ちた。ぶるん、と腰を一振りする。
―――柔術・如是畜生菩提発心。
人は煩悩を纏わりつかせて生存している。それは事実ではあるが、此の世の苦しみの根本である。それに対して禁欲をもって当たろうとする教えもあろう。肯定したうえで制御すべしとする教えもあろう。
後期密教では男女交合を以ってその灌頂儀礼の一となすが、なおあくまでも禁じられるのが吐精であった。師もその長い人生にあって射精をしたのはわずか数回であると聞く。
―――ならばこのキーラを放った者もまた、射精を知らぬ者であろうな。
凪愚理斎は心中ニンガリとする。

彼の開眼した新しいジュジュツ…射精に伴う虚脱を以って呪的に透明となる秘術、如是畜生菩提発心は、およそ偶然の産物であった。明らかな失敗によるものと言っても良い。彼は射精の禁止を守れなかったのである。
この事は彼のジュジュツ者としての位階を大きく引き下げたが、しかしとき気がついてしまったのだ。
―――射精とは、なんと気持がよいのだろうか、あの満足感、そしてその後に訪れる寝入りばなのような、凪のような、精神の均衡…
この一瞬の粗相こそが、彼を柔術家たらしめたと言っても過言ではない。


両者は敵手を知っている。その倒すべきを、所在を明白に知っている。
さてしかし、ここで両者は困惑する。両者はその困難を、事実上はその不可能を知っている。
水牛坊の攻め手は潰されている。また、凪愚理斎もまた七里結界をいったん出てしまった以上、再度の潜入は不可能である。
拮抗した軍勢が矢戦に陥るように、数度、二人はジュジュツの戦いを交わした。呪詛の余波を浴びて壊滅せる農村三十余村、東海道を行きかう旅人にも漸く狂相が見えた。
この膠着が解消されるには、寛永六年、駿河大納言の催した、いわゆる駿河城御前試合を待たねばならない。


その日、東西にあって登場した両名、いや四名を見て居並ぶ見物の者どもはあっと言葉を失った。
片や僧形に剃り上げ袈裟をつけていながらも、下半身は全くの裸形で女を背中から貫いての登場であり、
片や蓬髪垢面、獣のごとき体臭を風に乗せて流し、これは座禅に女を乗せ、対面座位での登場である。
審判を勤めた三枝伊豆守はじめ心ある武士どもの眉をひそめる中、試合は粛として執り行われた。
二人の女が時折、声をあげる。白砂を踏む音がする。

仕掛けたのは凪愚理斎である。さすがというべきか、柔術家の体術は座禅を組んだままでの膝行を可能としており、間合いを詰めるになんの支障もない。またこの姿勢であれば女が対手の正面に位置し、致命傷を避けうることも注目に値する。
一方で、水牛坊は下がれない。後背位をとる以上、後退は脱落を意味するのだ。
かといって、間合いを潰されてしまえばもはや打つ手なく圧殺されるのみである。残る間合いが二間となり、一間となり、凪愚理斎は叫んだ。
「中出っ、貴僧の負けだ!」
水牛坊はニンガリと笑った。
水牛坊は一声おめくと、女を突き倒した。女は白砂の上に突っ伏して肩で体を支える形となり、いよいよもって移動は不可能となった。さながら突き立てられた一本のキーラである。にじり寄る凪愚理斎がおうっと一声おめき、完全に脱力した精神は呪的に透明となった。
ついに間境を越え、殺到した拳撃が水牛坊を捕らえんとした刹那、光明真言があふれだす。

おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん

戛然!
引き抜かれた男根からは怒涛のごとく精が射出され、眼前の凪愚理斎を打った。
呪術が効かぬものには物理的手段をもって制する…ジュジュツの基本的な理であったが、この土壇場にあって、よもや顔射で人を撃つとは!…
凪愚理斎の顔面は憤怒のために赤く染まり、その色を保ったまま落ちた。
呪詛の余波は流れ魂(ながれだま)となって会場にこぼれ、幾人かを狂わせ、幾人かを獣とし、幾人かを修羅と化し、幾人かを成仏させたとされるが、そのいずれもが地上的な生命を失っていたことはいうまでもない。駿河大納言のその後については、ひろく知られる通りである。


水牛坊のその後については諸説ある。その場を去らず立派に立ち腹を切ったとも言う。
射精禁を犯した以上、ジュジュツ者としての将来は絶たれたも同様であり、その将来を絶たれたものが朽ちゆくばかりであるのは、吐精して折れ曲がった男根がごとくである。