我々は民主主義の考え方で物事を見るのに慣れてしまっている。
民主主義に反対すると、専制君主主義になると思っている。
あれかこれか。まるで性能の悪いパソコンのようだ。
ところが、日本の君主主義の考え方からすれば、どちらも極端だ。
君とタミがあるとすれば、君がタミを奴隷的に扱うのでなければ、タミが君の専制を嫌って君主政を打ち倒すのでもない。
君とタミが仲の良い親子のように互いに思いあって国づくりをするのが、日本の君主政である。
ところが欧米ではこの考え方が消滅しまった。日本でももはや消えてしまっている。
これは民主主義の御用学者が、自分たちの視点で解釈して抹殺してしまったのである。
今日民主主義に反対するものはマイノリティであり、白眼視される。
しかし日本はどちらなのだ。君主がいる民主主義国家?
論理的に全く筋が通っていない。
日本的君主主義の立場からいえば、国民は民主主義という欧米人が編み出した虚構論理を信じさせられているのである。
デモクラシーとうのはまだわかる。民衆が権力をもつという意味あいならその通りであろう。
しかしこれに民主という言葉を当てはめるのはまずい。民が主となる。
語源から考えれば民は奴隷を意味する奴隷が主人になる。これは国家の統治機構を逆さまにすることを意味してしまう。
故にこの国民主権だの民主主義だのという言葉を安易に憲法に入れてもらいたくないのだ。
故にここではカタカナで「タミ」と表記する。
こんな世の中であるが、私は数少ない君主論者として、物事を解釈してみる。
世間がご立派な憲法を立て、陛下がそれを認めようと、
原則は、天が、タミのために君主を立てたと考える。故に君主は天の意思を自分の意思として、タミを愛でる。天とは何かといえば神であり、森羅万象を司っている意思である。森羅万象が神の肉体であり、そこには意思があると古代人や私は考えている。
人間に肉体があり、意思などの目に見えない心があって動きがあるのはその神のあり方の相似だとも言われている。
すなわちミクロコスモスとマクロコスモスの発想は、日本の古来から存在した。
あるいは人間の肉体は神殿に例えられる。
世界は日本がドイツのヒトラーの如く、世界制覇を狙って他国への侵略を繰り返したと断罪した。
しかし、石原莞爾がいう如く、ペリーが日本に大砲で脅しをかけなければ、日本はおとなしくしていたのである。アメリカが日本を搾取し始めたがゆえに日本は動き始めた。
太閤時もそうである。仕掛けたのはポルトガルである。
神功皇后の時でさえ、実は熊襲新羅の結託があったといわれている。いまは侵略として評判の悪い神話だが、新羅が熊襲をたきつけたとすれば、そりゃあ日本だって怒る。がこのあたりはあくまで異説。
「神功皇后が三韓征伐を先にしようか、熊襲を先に討とうか、と云う事があった。その時の御神勅に「西方に国あり、これを先ず先にせよ、そうすれば熊襲の如きは戦わずして、従う」と云う御神勅があった。」
つまり新羅と熊襲は関係している。本体は新羅だから、新羅を打てば熊襲は崩れるということになる。
そこで大陸侵攻となった。
今でいえば、○○○のスパイが日本の○○党や、○○○という組織を使って日本を混乱せしめようとするようなもので、枝を叩いても終わらず、結局は元を絶たねば解決しないということ。