国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

4、大本との邂逅(第三次大本事件のさなか)

2016年03月13日 | 第三次大本事件

  大学卒業後、私は名誉も地位も興味がなく、アルバイトの延長のような仕事についた(一応一部上場の正社員ではあったが仕事の内容はアルバイトと変わらない。)。しかしこれが意外にきつかった。

 ここから約5年は他の人の苦労話と変わらない。

 若者の労働を搾取して経営者が肥え太る。それが当たり前といわんばかりの時代で、上司は平気で部下を罵倒し、つるし上げることもたびたびだった。パワハラが日常茶飯事だった。

 上場ではあっても今でいえば職場は完全なブラックだった。組合はあってもなれ合い。ただ、今考えるとその後経験した組合のない企業よりはましだった。

 今考えるとあたりまえなのだが、そういう世間の見えない部分を私は知らなかった。アルバイトしかやったことのない仕事経験の浅い学生や女性と同じだった。

 ブラックの問題はこのころからあったが、訴えるすべがなかった。労基にはできるだけトラブルにならないような言い方をされた。

 延々と続く労働の中で手に職を付けるために専門学校にいって技術を習得してやり直しを試みた。

 しかしここでも徒弟制度を利用したブラック地獄が待ち構えていた。専門職では先行者が後発組を食いつぶす。無給で雑用に使う。

 この地獄のような日々に私は青春時代を消耗した。スタートを誤ったといわれればそれまでだが、おそらくどんな企業に勤めても問題ある部署に回されたのかもしれないそういう経験が必要な時期だったと思っている。

 何故かといえば、真理の探究をしながら自分自身の信仰に問題があったからだ。

 個人的には無神論とまで言わないまでも不可知論者であり、もし自分に使命があるとすれば大転換が必要であった。もうだめだというところまで追い詰められなければ、魂にこびりついた垢ははがせないものなのだ。

 私が勤めた企業や事業所の多くは他社に吸収合併されて消滅した。その後も私が勤めてこれはだめだと見限った会社はほとんどがつぶれている。そういうところは人がしょっちゅうやめるから募集も多いし入りやすい。だが続かない。

 最初の会社は一部上場だが競争の激しい分野で業界5位くらい、入った頃からどこが生き残るかとささやかれていた。寄り合い所帯や逆にカリスマ経営の企業は長くは続かない。結局利益をきちんと確保しながらシビアな経営をしているところが生き残っていった。しかしそういうところが従業員にとって居心地がいいかというとそうでもない。会社は生き残っても職員の入れ替わりは激しい業界で今生き残って幸せなのは経営者だけ。

 今考えれば入った会社の生き残りは難しいと判断できたかもしれない。一流の会社で底辺に回されるより、三流の会社で頭角を現したほうがよいと考えたのだが、三流の会社は能力的にも、予想外だったのは人間的に問題を抱えている人も多く、足の引っ張り合いも尋常ではなく、OJT教育などというものもどれほど上層部がカリキュラムを組んでも、現場はまた違ったルールが支配していた。

 履歴書がどんどん黒くなるのは必ずしも人物のせいだけではない。業界によってはそれが当たり前のところもあるが、書類上は不利になる。

 犯罪に手を染めなかったのが不幸中の幸いだが、社会の黒い部分はたくさん見てきた。あるていどの柔軟性は必要だがどこまでが境界線なのかはなかなか難しい時もある。引き返せないような悪事は断じて避けるべきだろうし、身体を悪くするような仕事は修行といえども避けるべきである。仕事を辞めるのは勇気がいることであり、なんの準備もなければ立場も弱い。

 サラリーマンとしては逃げ道は必ず確保しておけというのが鉄則である。退路があってこそ一か八かの賭けができる。ドラマのように自ら退路を断つというのはかっこはいいが無謀であり、自分に酔っているだけではないか、省みたほうがいい。

 光秀は利休になり替わる準備をして本能寺を襲った。ところがあらかじめ豊臣とも連絡を取っていたと出口王仁三郎は書いている。大事業をやるためには絶対に相手に知られないで計画を進める必要はあるが、信頼できる協力者が必要と言うことでもある。

 もし社で上司に貶められ、嵌められるようなことがあっても、ただで転ぶことのないよう常に策を練っておかなければサラリーマンの社会では後手に回り不本意な結果に陥れ、一生悔しい思いをすることになる。そして家族がある人は無謀な挑戦はできない。

 世間を知らぬ女性や順風漫歩できた人には理解しがたいだろうが、ドラマで展開するような卑劣な事態というものは現実に起こりうるものである。

 策が成功するにはやはり自分の側に正義と徳があると成功の確率はあがるがそれ以外の要素ももちろんある。私がこのような不遇な境遇に落ち込んだのは振り返れば、自分の側に問題を抱えていたせいなのかもしれない。

 この地獄のような日々の中で池袋の書店で大本神諭に出会った。それまでは谷口雅治氏の生命の実相で大本の存在は知っていたが、終末預言をした過去の宗教としてしか知らなかった。

 初めてそのなまりの入ったおふでさき(自動書記)を漢字に直したという「大本神諭」を読んだ。

 衝撃であった。内容もだが、その文体や言葉の力に揺さぶられた。言葉が私の想像力を揺さぶった。かつてない経験で、心の底から揺さぶられた。大本神諭天の巻、地の巻をすぐさま買いこみ、亀岡のおおもとの本部へ話を聞きに行った。

 またその後巨人出口王仁三郎という本も買い込み、感銘を受けた。そこから大本を研究し始めた。

 仏教畑を研鑽してきた自分にとって、神道系の思想をすぐに受け入れることは難しかった。世界観がかなり違う。仏教系はどちかといえば抽象的だが、神道系は国家観が明確で、現実的である。大本は神道系新興宗教に分類されているが、出口王仁三郎に言わせれば最古の教えの復興に過ぎない。いわゆる古神道の部類に入る。

 「ぶつではたちゆかんぞよ」と言うお筆書き、神示があるが、これは仏つまり仏教ではだめだという意味と物質の学つまり唯物論的な科学では物事は行き詰るという二重の意味を示している。大本はぶつではたちゆかんぞよといいながらミロクの世などという仏教的な言葉が随所に使われるのはいまだによくわからない。これはどういうこととなのか。物質の学の否定と、仏教も借りて神道を説くという事なのだろうか。仏教に染まった我が国の精神を救おうとする方便なのか。

 日本は本来神道の国であり、仏教は外来宗教である。この戦いがあったのは物部と蘇我氏の頃であるとは知っていたが自分の中で仏教を根本的に否定したのは初めてで、それまでの人生をやり直すぐらいの衝撃だった。いわゆる自分の立て替え立て直しである。

 「天皇」とは日本ではスメラミコトというのがほんとで「天皇」という表現は中国の道教思想からきている。天皇、地皇、人皇という別があり、ほんとは神武以降は人皇何代というらしい。では天皇とは言わないのか、地皇とは誰なのか。このあたりの概念は私の中でも混乱している。

 ただ日本ではスメラミコトといえば一般的な意味合いでの天皇陛下を指すのでその意味で使ってゆく。

 大本の文献を読み解いてゆくと大本は官憲に弾圧されたものの、実際のところ天皇親政を否定していない。現地へ行ってみると当時は第三次大本紛争が起こっており、信者が分裂して、天皇制とのかかわりなどわからなくなっていた。私が会った大本人のうち、4種類の意見があった。

1、弾圧した官憲を天皇陛下と結び付けて、天皇制の側VS民衆の宗教大本と考えている人

2、信仰と天皇制を切り離して考え、霊界物語は読み、宗教として式典にも出席するが、天皇制についてはあまり考えない、重きをおかない人。

3、大本の教義は天皇制の真の姿を説くもので、天皇親政を支持する人。

4、天皇制についてはあまり声高に語らない、タブーと考えている人。

 大本を外部から評している人の中には1説を取る人も多い。4代目の教主補(教主を補佐する男性)にあたる出口栄二氏が2の説をとり天皇家を特別なものと考えておらず、世界の将来は共和政に近い状態になると主張されていた。

 またいずとみずの会の特徴は出口王仁三郎の出自について、有栖川宮熾仁落胤説繰り返し強調し、出口王仁三郎こそが救世主ということを非常に強く打ち出していた。日出麿という当時存命だったが弾圧の拷問で心神喪失状態にあった出口王仁三郎の後継者を軽んじ、スサノオを中心とした独特の教義を確立していった。

 同じ文献を読んでいて、なぜこうも意見が違ってくるのか、と思った。文献を素直に読んでみれば「おおもと」の教えは皇道であり、戦前から皇道大本にほかならない。それが時代錯誤であろうと、戦前の天皇制がファシズムといわれようと、出口王仁三郎の思想は我が国の皇道を説いたもので、戦前という時代に迎合して仮の姿をとったものではない。むしろ当時の国家神道が不完全で、古い神道を消化しきれていなかったために、勢いをもってきた大本が天皇に対立するものと誤解されて弾圧されたのが真相である。

 ところが官憲に弾圧された経緯から天皇について話すことをタブーと考えている信者もあった。そのため戦後数十年もたつと、天皇制と大本との関係性が分からなくなっていた。おそらくこれを明確に答えられる人は少ないようだ。残念ながらこの点について当時大本内で明確な知見を有する人と出会うことはできなかった。あたかもそれは問題の核心ではない、なにか別の話とでも言うかのように言葉を濁す人が多かった。

 しかし私はおおもとの弾圧の原因は第一次も、第二次もそして第三次の原因もここから起きたとみている。

 四代目の教主補出口栄二氏は出口王仁三郎自らが探し出した人物でありやはりこの人も母親は有栖川宮熾仁親王の落胤であるという。それほどの人がまちがえることがあるのか。血統に意味があることはわかるが、教義理解が正しいとは限らない。それを納得するまでに私自身も相当時間がかかった。

 この方は戦後教団存続の期待を背負っていった。しかしこの方の大本解釈は「皇道大本」ではない。

 戦後の吉岡発言を金科玉条にして、戦前の皇道大本の思想や活動を時代のしからしむところとして、方便として否定的に扱ってしまっていたのである。世界の行く末として共和政をイメージし社会主義的思想と批判されても仕方のない言動ひろめていった。

 私はこの方の論文集を購入し、その思想をかなり調べた時期がある。この方の解釈をしてゆくとダイナミックな世界宗教である大本が、なんだか一地方の一新興宗教に過ぎないように感じられた。二代目教主補出口日出麿氏まではその言動は感動するところが大きかったが、この四代目教主補の思想は腑に落ちなかった。

 四代教主補は四代教主とともに大本の後継者からは外され大本信徒連合会という組織をつくり独自に活動しながら、地位保全の訴えを起こしていた。教団内で後継者争いが起き、訴訟にまで発展するというのは教団としては誠に醜く恥ずかしい事態である。

 出口王仁三郎の孫にあたる出口和明氏は別にいずとみずの会というのをつくり、また独自の解釈を展開していた。スサノオ、出口王仁三郎救世主、皇胤などがキーワードである。

 二つの外部団体は大学や出版界にパイプがあり、一般的な書物で出口王仁三郎が紹介される時には第三次大本事件についてここから詳細な情報が流れ、本部の公式見解VS巷に流布する情報が錯綜して、「皇道大本」という問題の核心は深く埋もれていった。

 大本が皇道つまり天皇制の真の姿を開示して天皇の世界統治を補佐するという考え方は、先の戦争とのからみや侵略の思いが広がって今の時代には危険思想ととらえかねない。そのために今はこれを公言する機会はほとんどない。

 しかし統治が強制ではなく、全世界市民の望みであるとなれば話は変わってくる。

 統治には覇道と皇道があり、覇道による統治は力によって押さえつける統治であるが、皇道による統治はタミがキミを愛し、タミが望んでキミが統治、キミが憲法を制定する。王仁三郎は天立君主立憲と言った。それが神に意思にしたがうという神政復古を意味している。

 ところがこの考え方は現在古い封建的な間違った思想という引き出しに入れられている。戦前の軍政が覇道ですすめられたため、天皇制は覇道との誤解が定着してしまったため、国民の大半が天皇制の存続は望んでいるが天皇を頂点として国づくりをすることに拒否反応を示している。

 覇道ではない皇道政治という概念自体が欧米の統治概念にないために21世紀のこの時代での欧米をルーツとする政治学では日本の政治形態を正しく分析理解できないのである。

 ただアジアには中国古代の徳治という思想が残っている。この徳の意味は本来は単なるモラルではなく、神の徳を意味し神徳による皇の統治こそが本来の統治形態であるといっていたものが伝説として残っているのである。

 大本の信者も一部はこのことを理解している人もいるようだが、常識人として日本の天皇陛下が世界の王として君臨すると解釈している人は少ないようだ。大本の信者とて、出口王仁三郎を救世主と考える人は多いが天皇陛下を世界の君主と考える人はおそらく稀だろう。

 くりかえすが現代の国民は天皇親政を「理解しがたい。独裁といえば、ヒトラーと同じではないのか。。。」と天皇による覇権政治と同じ引き出しに入れ、戦前の悪夢を思い起こしてしまう。出口王仁三郎がそんな天皇親政などという思想を持っていたなどありえない・・・・そういう感情が起こり、文献を読むときに素直に読めず、異なった解釈をするようになる。大学宗教学を教えていた出口榮二氏も「出口王仁三郎は当時の思想に合わせて説いたのだ。今そんなことを言えば時代錯誤だと。」と考えた。出口榮二氏は「大本はそういう天皇絶対性のもとに生まれた宗教であり、ある程度社会制度に、政府の宗教政策に迎合してゆかなければ成立しえなかったのです。」そう考えていた。

 後継者となる主要人物である榮二氏がこれを言い始めたから、戦前から大本で戦ってきた古参の人たちは納得いかないだろう。戦前は皇道大本で出口王仁三郎と結びついてきたのである。教義がまったく違う。  

 中国大陸に作る国を明智光秀の名を冠して明光国にしょうとさえ提言していた。太古は世界が日本であり、その頂点に天皇陛下がいた。それが人心の乱れで天変地異が起こり、世界が分断された。これは過去6回起きているという。だが今はそれをありていに語れない。天皇の一族はアジアを追われて極東に追い詰められた。国という区画がなく大陸と日本が地続きの頃の話である。

 さらに島国になって日本が国としてはじめて宣言したのは神武天皇の時であった。ハツクニシラスというのはそのためである。

  神武の東征というのは何らかの原因で九州に居を構えていた天皇が復権運動を起したと考えられる。(天変地異と異民族の侵攻のためという話もあるが大本ではその詳細は明確に語られていない。)

 神功皇后の三韓征伐、豊臣秀吉の大陸進出、西郷隆盛征韓論なども復権運動と解釈したがゆえに、出口王仁三郎は彼らを高く評価している。つまり太古史の記録がなければ、天皇家のやったことは武力による他国侵略、征服に他ならない。しかし、他民族に追いやられ、国民が苦しんでいるとすれば、復権運動であり、民からオオミタカラへの開放運動でもあった。

 歴史書の多くは大陸から帰化した人間が編纂し、古事記の序文にさえ陰陽思想が混入されている。都合の悪い歴史はカットされるか歪曲されている。

 日本に潜伏していた半島や大陸の間諜が必死で太古史を奪い、抹殺しようとしたのも、歴史が国の屋台骨ともなることを知っていたからだ。養子として蘇我氏に入った韓子の子孫が入鹿の代で書庫に火を放って日本の太古の歴史を無きものにしたのは、蘇我氏が天皇記、国記の重要性を理解していたからと思われる。

 バックボーンに本来日本の統治権はアジアに及んでいたがゆえに中国すなわちchinaの語源は支邦シナであり、日本側が「本邦」といわれていたのではないだろうか。これらの記録はほとんど評価されず、偽書として名高い古文書にしか残っていない。

 葦原アシハラはアジアのことであり、素戔嗚の尊の統治はアジア全域に及んでいたのである。しかし、統治しきれなかったとみるべきであり、それが古事記素戔嗚の物語として残っている。

 アジア全体が日本であると理解されていた時代があったとすれば、それを元に戻そうとする運動が起きてもおかしくはないだろう。

 ただアカデミックに認められた記録は現在ない。徐福は多くの書籍を秦皇帝に送ったが焚書坑儒でで失われてしまった。古代日本の天皇が世界の中心であったなどということがわかれば、中国秦の皇帝はその権威を当時の日本の天皇に譲り渡さなくてはならない。いまや契丹古伝や偽書といわれる古史古伝がその片鱗を伝えているにすぎない。またスサノオが朝鮮に降臨したことも神話として残っているにすぎない。学者は神も認めなければ神話も作り事と見なす。

 出口王仁三郎は戦前の軍政と同じようにアジアを武力で支配することを望んでいたわけではない。五台山で宗教者会議を開き、宗教が和合することで精神的なルネッサンスを興し、精神的に和合しようとしていた。この機運は今も存在し、おおもとの現在の活動の主軸になっている。

 大本であろうと皇道であろうと「力による支配」を欲しているのではない。

 人類が世界平和を達成するためにはどういう形態がいいかという話の中で、出口王仁三郎は太古の青写真から世界が一つの王でまとまることを預言した。

 その頂点が天皇陛下であるということは戦後のタブーになってしまったが、平和的な形で、世界が望む形で、それが実現することが筆先にも出ている。どれほど時代錯誤であろうと狂気だといわれようと大本と出口王仁三郎の原点はそこにある。

 ただそれを今の時代公言してしまうと袋叩きにあってしまう。それでは団体は立ち行かず、信仰を失うものもあらわれてしまう。

 そうこうしているうちに、本当のことが分からなくなって枝葉末節のことを議論する者が現れてきた。出口王仁三郎が落胤であろうとなかろうとどうでもよいことである。それは本人が言っているのに、それを膨らませて別の物語を作ってしまう。確かに出口王仁三郎が仕組みの中で重要な位置をしめており、それに血統が関わっている可能性はある。しかしそれが天皇に取って代わるという意味ではない。むしろ天皇陛下を盛り立て支える形で祭祀を行おうとしていた。古事記の中にオオタタネコの話が出てくる。崇神天皇がどうにも災害がおさまらないので神に祈ると、しかるべき人物が祀る必要があるということなのだ。つまり天皇以外の誰かが祭祀をしなければならないケースもあるということだ。古事記などではこれがオオタタネコであった。

 霊界物語を読んでいくとよく総説の部分に皇道のことがかかれている。

 大本は日本の皇道を解き明かしたものであり、失われた祭祀や伝承、明らかにされていなかった部分を開示したものであり、天皇制と対立する者でもなければ、出口王仁三郎が天皇になろうとしたわけではない。

 ところがそれが王仁三郎が天皇になろうとした、あるいはそれに匹敵するもののように誤解されての大弾圧となった。

 そのため、天皇制をあまり快く思っていない信者も少なからずいることが分かった。

 大本が正しく、天皇が間違っていたという構図がどこかに刷り込まれると、おおもとの文献を読んでいても皇道大本の意味が入ってこない。

 後継者と目された人の中に、ゆがんだ説を取る人が現れて第三次大本事件が起きたというのが私の見立てである。

 実際、信者の話を聞くと誰が悪いとの陰口が多かったが、もとはといえば指導者になるべき人が間違った論説を展開したことが原因なので、それは古参の人にとっては理解しがたいことだろう。

 議論したことはあったが、それぞれ思い込みとお家騒動的な内輪もめの様相話が激しくなり、私はこのような団体に近づくことに嫌悪感を覚えた。

 話にならなかった。

 私は真理を求めてここに来た。その意味からすれば、出口王仁三郎の著作はどれも深く重みがあり、大本神諭には暗示的な真実が含まれているが、教団で接する人に温かみを感じる人は少なく、なにかというと様々な名目で金ばかり要求されてうんざりした。いっそのこと、様々な名目での金の要請をやめてしまってはどうだろう。大本の名目を変えた様々な金銭要求は日本の税や社会保険の型となって現れ、一部国民は貧困にあえいでいる。

 国民の大本は皇室である。それを大本を説かねばいかんと思ってやったところが、頭の空気の抜けた智者や学者や新聞記者らが、大本に皇道があり、皇道は大本であるととったものですから、大本事件が起こり検挙された。

                              出口王仁三郎全集

 

 皇道政治とは天津日継天皇の御神政であって、祭政一致、一大家族制の実現実行である。

                           出口王仁三郎著作集 第2巻 p226

 

 神のため大君のため国のため

               つくすわが身に二心あるべき

 精霊の世界を救う神の使いを

               この世の神と見るはうたてき

 厳身魂より尊しと狂いたる

               人の言葉を聞くはうたてき

                                31巻余白歌

 

 騒ぐ信徒に上の言葉をどう思うか聞いてみたい。納得できるかどうか。出口王仁三郎の言葉が審判になる。

 これを読んで、出口王仁三郎が一時の方便で皇道を説いたと思うなどと言い続けるのはどうかしている。

残念ながら出口栄二氏の解釈は間違いであり、第三次大本事件の原因は結局栄二氏の側の思想の誤りから生じていたと私は確信した。

むろん教団も栄二氏どちらも人間で有る限り細かい解釈で間違いはあったかもしれない。

しかし根本的な教義解釈を当時の責任者が間違っていたことは致命的であり、その立場を追われたのは神意のしからしむるところといえよう。

 だが、いくつかの疑問は残る。四代目教主直美様は出口王仁三郎が、出口直の生まれ変わり、将来の教主として指名していた教主である。だとすれば、本来の継承者は出口直美ということになる。その教主も教団から追放されたという事件は祭の主体と運営、教えの主体である教団が、分離しているという今日の日本の型をそのまま出してしまっている。

 だとすれば、出口直美の系統をいつか教団にもどすということであろうか。出口日出麿氏はなくなる前の数年間心神喪失状態ではあったが、時々そのときの争いにするかのように短いことばで筆をとっていた。いずとみずの会派の人々はこの出口日出麿氏の状態に一切の神秘を感じておられないようであるが、しばしば時期にマッチした言葉が大本の会報誌にとりあげられていた。

 なかよう(仲良う)。。。

 そんな内容であったかと思われる。