投稿者:maff 投稿日:2003/09/18(Thu) 08:56
著者:尾形守
発行:ホープ出版
分類:信仰書
librarian様
お知らせありがとうございました。掲示板開設おめでとうございます。
この書評は自作ではなくて借物です。偶然ネットでみつけたのですが、とっても面白いのでコピペしちゃいます。出所はここです。韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm
ノンクリスチャンの書評ですが、とても鋭い!
「伝道のために仏教や神道の伝統をキリスト教に取り込めばいい」という結論はいただけませんが(ノンクリスチャンなので仕方ないのですが)、それまでの分析は的確です。信者でないだけに、
>「「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである」
>「両者(シャーマニズムと聖霊運動)が融合していることは、客観的には自明の事実」
なんてぼかしのない言葉で書かれていて新鮮です。
今、日本の教会はちょっとした韓国ブームですが、冷静に韓国のキリスト教を理解するために、この本や書評はとてもいいと思いました。
韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm から
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「日本に100人に1人しかいないクリスチャンが、なぜ韓国には4人に1人もいるのか?」と帯にある。小生の興味もそこにあった。
題名と目次からもわかるように、日韓のキリスト教の成長を比較し、日本での布教のための参考にしようとする目的の本である。だから、信者でない人にはその点が鼻につくかもしれない。だが、日韓の宗教的な歴史や風土の違いということを考えてみるには、良い本と言える。丁寧に調べてある労作である。
第一部だけでも、読んでみることをお勧めしたい。
小生の長年の疑問は、韓国における宗教的文脈であった。
すなわち、土着のシャーマニズム、高麗時代に入って今も信者の多い仏教、そして李朝時代に支配的になり今も韓国人の精神背景をなす儒教の祖先崇拝、これらとキリスト教は、本来相容れないはずなのに、なぜ融合しているのか。
第2章に答えはある。まず、シャーマニズムは明らかにキリスト教受容の下地になっている。日本では神道は国家神道や天皇制として制度化され形式化していくが、韓国では民間の庶民の宗教として残る。その結果、シャーマニズムが聖霊運動と結びつくことによって、韓国の教会の成長の要因となる。著者はそれを「道備え」であり、外見上似ているからと直接結び付ける見方は正しくないとするが、両者が融合していることは、客観的には自明の事実であろう。
さて、最大の問題は、儒教である。
小生の長年の疑問点であったのは、「韓国人がクリスチャンになる際の最も大きな障害は祖先崇拝をやめるように要求されることだ」と、著作でも指摘される点であった。著者は言う。
「韓国クリスチャンは祖先崇拝への機能的代用(functional substitutes)を取り入れてきている。キリスト者の家で持たれる先祖のための記念崇拝も行われている。その際、多くのクリスチャンは牧師や長老を家に招いて、先祖の命日に記念礼拝を執り行っている。これは慣習化してきており、教会の反対なくして増え広がっている。」(41ページ)
ここを読んで、疑問が氷解した。「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである。祖先礼拝と一神教と両立するわけはないのだが、現実的な折衷線で、牧師や長老も参列しているのだ。この点について、小生は批判的ではない。むしろ、キリスト教が布教の上でマジョリティを得るためには、そうした妥協も必要だろうと思うのである。
第三部は、今後、日本は韓国キリスト教から何を学んで布教すべきかというところで、非信者の方には退屈と見られがちだろうが、ここも結構面白い。特に、小生が気になるのは、著者が「文脈化」という言葉で表現する点だ。すなわち、キリスト教布教において、国ごとに文化的・歴史的・宗教的等に、異なる土壌、「文脈」がある。だから、それに合わせるべきだと言うのだ。
これはとりもなおさず、第一部で著者の述べた、「道備え」とか「機能的代用」と機を一にするものである。それは小生も、必要なのだろうと思う。ただ小生が、不満なのは、著者が「文脈化」が必要だと認めつつも、日本での適用において、それは教義にもとる点があるとして、あまりに慎重な点である。もちろん、根本的な教義は捨てがたいだろう。しかし、新興宗教は日本でもあれだけ勢力を伸ばしたのに、キリスト教が伸び悩んだのはなぜだろうか。
韓国でシャーマニズムの祈りと融合し、また、祖先崇拝に聖職者が参列するところまで妥協している点をちゃんと直視し得ずして、日本の神道と非妥協であった点のみ評価したとしても、今後、日本での大きな布教拡大は望めまい。
日本の仏教の葬式や初詣や、神前の結婚式や雛祭りや七五三や宮参りやお祭や、そういう多神教的な、しかし、日本の民衆の精神に深く情緒的に根を下ろしている冠婚葬祭の伝統をすべて否定し去るなら、永遠にマイナーであろう。その点に結局こだわり続ける著者と日本のクリスチャンたちの姿勢自体が、やはり明治以来の、上層階級の観念的宗教理解から発展していないと言える。
民衆への布教に必要なのは、韓国の「ケンチャナ精神」であろう。
著者:尾形守
発行:ホープ出版
分類:信仰書
librarian様
お知らせありがとうございました。掲示板開設おめでとうございます。
この書評は自作ではなくて借物です。偶然ネットでみつけたのですが、とっても面白いのでコピペしちゃいます。出所はここです。韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm
ノンクリスチャンの書評ですが、とても鋭い!
「伝道のために仏教や神道の伝統をキリスト教に取り込めばいい」という結論はいただけませんが(ノンクリスチャンなので仕方ないのですが)、それまでの分析は的確です。信者でないだけに、
>「「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである」
>「両者(シャーマニズムと聖霊運動)が融合していることは、客観的には自明の事実」
なんてぼかしのない言葉で書かれていて新鮮です。
今、日本の教会はちょっとした韓国ブームですが、冷静に韓国のキリスト教を理解するために、この本や書評はとてもいいと思いました。
韓国の本を読んで http://member.nifty.ne.jp/taejeon/book/book04.htm から
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「日本に100人に1人しかいないクリスチャンが、なぜ韓国には4人に1人もいるのか?」と帯にある。小生の興味もそこにあった。
題名と目次からもわかるように、日韓のキリスト教の成長を比較し、日本での布教のための参考にしようとする目的の本である。だから、信者でない人にはその点が鼻につくかもしれない。だが、日韓の宗教的な歴史や風土の違いということを考えてみるには、良い本と言える。丁寧に調べてある労作である。
第一部だけでも、読んでみることをお勧めしたい。
小生の長年の疑問は、韓国における宗教的文脈であった。
すなわち、土着のシャーマニズム、高麗時代に入って今も信者の多い仏教、そして李朝時代に支配的になり今も韓国人の精神背景をなす儒教の祖先崇拝、これらとキリスト教は、本来相容れないはずなのに、なぜ融合しているのか。
第2章に答えはある。まず、シャーマニズムは明らかにキリスト教受容の下地になっている。日本では神道は国家神道や天皇制として制度化され形式化していくが、韓国では民間の庶民の宗教として残る。その結果、シャーマニズムが聖霊運動と結びつくことによって、韓国の教会の成長の要因となる。著者はそれを「道備え」であり、外見上似ているからと直接結び付ける見方は正しくないとするが、両者が融合していることは、客観的には自明の事実であろう。
さて、最大の問題は、儒教である。
小生の長年の疑問点であったのは、「韓国人がクリスチャンになる際の最も大きな障害は祖先崇拝をやめるように要求されることだ」と、著作でも指摘される点であった。著者は言う。
「韓国クリスチャンは祖先崇拝への機能的代用(functional substitutes)を取り入れてきている。キリスト者の家で持たれる先祖のための記念崇拝も行われている。その際、多くのクリスチャンは牧師や長老を家に招いて、先祖の命日に記念礼拝を執り行っている。これは慣習化してきており、教会の反対なくして増え広がっている。」(41ページ)
ここを読んで、疑問が氷解した。「機能的代用」という術語で粉飾されてはいるが、要するに、儒教と妥協しているわけである。祖先礼拝と一神教と両立するわけはないのだが、現実的な折衷線で、牧師や長老も参列しているのだ。この点について、小生は批判的ではない。むしろ、キリスト教が布教の上でマジョリティを得るためには、そうした妥協も必要だろうと思うのである。
第三部は、今後、日本は韓国キリスト教から何を学んで布教すべきかというところで、非信者の方には退屈と見られがちだろうが、ここも結構面白い。特に、小生が気になるのは、著者が「文脈化」という言葉で表現する点だ。すなわち、キリスト教布教において、国ごとに文化的・歴史的・宗教的等に、異なる土壌、「文脈」がある。だから、それに合わせるべきだと言うのだ。
これはとりもなおさず、第一部で著者の述べた、「道備え」とか「機能的代用」と機を一にするものである。それは小生も、必要なのだろうと思う。ただ小生が、不満なのは、著者が「文脈化」が必要だと認めつつも、日本での適用において、それは教義にもとる点があるとして、あまりに慎重な点である。もちろん、根本的な教義は捨てがたいだろう。しかし、新興宗教は日本でもあれだけ勢力を伸ばしたのに、キリスト教が伸び悩んだのはなぜだろうか。
韓国でシャーマニズムの祈りと融合し、また、祖先崇拝に聖職者が参列するところまで妥協している点をちゃんと直視し得ずして、日本の神道と非妥協であった点のみ評価したとしても、今後、日本での大きな布教拡大は望めまい。
日本の仏教の葬式や初詣や、神前の結婚式や雛祭りや七五三や宮参りやお祭や、そういう多神教的な、しかし、日本の民衆の精神に深く情緒的に根を下ろしている冠婚葬祭の伝統をすべて否定し去るなら、永遠にマイナーであろう。その点に結局こだわり続ける著者と日本のクリスチャンたちの姿勢自体が、やはり明治以来の、上層階級の観念的宗教理解から発展していないと言える。
民衆への布教に必要なのは、韓国の「ケンチャナ精神」であろう。
maff様
投稿ありがとうございました。とても興味深かったです。未信者の人だけに、へんにかばわずにずばっと書かれていますね。
これからも書評や情報をよろしくお願いします。
コメントありがとうございます、ってか、
私じゃないんですが・・・投稿したの(苦笑)
検索して、投稿されている内容をみましたが、
こっちの記事は摂理などをとりあげたものじゃありません。
誤解なきよう。