【「アステロイド・マイナーズ」第1巻“星を継ぐもの”たちの物語】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ac984bc2fe16b6ca05727eae82937926
先日、USTREAMのテスト放送の雑談でしていた話~「王立宇宙軍」の事について書き留めておきます。
(↑)この記事の続きでもあります。
■シロツグ・ラーダットという主人公
「王立宇宙軍」は1987年に制作されたアニメ映画です。ガイナックスの第一回制作アニメ…というより、この映画を制作するためにガイナックスが創立されたんですよね。1950年代の地球に似ている“もう一つの地球”が舞台で、その中の湖のほとりにあるオネアミス王国で組織された“宇宙軍”が人類初の有人人工衛星を打ち上げるまでの物語。その制作にあたってガイナックスは「もう一つの地球」を創造くるために実に詳細な設定を組み上げました。…その時、買っていたロマンアルバムが、ちょっと見つからないのですが…実に細かく、その文明と文化~風俗を設定していました。服装は元より、冒頭の場面にある葬式の作法、貨幣(丸い硬貨ではない)、新聞、等々。
あと、この“地球”には月がありません。この設定の理由は簡単で、月があると月着陸まで観えてしまうからですね。あくまで有人人工衛星の打ち上げまでを一区切りというか、宇宙開発の幕開けの“場面”としての焦点を合わせているのでしょう。
その人類の一大イベントとしての有人人工衛星打ち上げですが、その物語の主人公にあたるシロツグ・ラーダットは当初、実にやる気のない人物として描かれている。そもそも彼は宇宙開発というものにまるで興味がない。
水軍(オネアミスにおける海軍)の戦闘機のパイロットになれなかったから宇宙軍に入った。落ちこぼれでも入れる所が宇宙軍だった。…物語はそこからはじまります。自堕落な生活を送っていた彼が、リイクニという少女と出会い、ある意味“彼女の気を惹くため”に、突然やる気になって誰も志願者のいなかった宇宙飛行士の候補生に志願して宇宙を目指し始める…。
これ最初、僕には“感動の精度”を下げる行為に観えたんですよね。宇宙飛行士の候補生になってからもシロツグは(人格人生を変える程)“変わって”はいない。もの凄くやる気に満ちた男になったわけではない。だから、彼に焦点を合わせて観て行くと、ともすれば「やる気のない宇宙開発がなり行きで成功してしまう物語」…というと言い過ぎですが(汗)でも、そう観えてしまう部分もある。
だから、クライマックスでシロツグが「各部門!応答しろォ!!」と皆を奮い立たせるシーンも、上滑りに感じない事はない。…だってシロツグ、お前、そんなにやる気がある奴だったか?って思ってしまう。これが「プラネテス」のハチマキみたいな奴、宇宙に行きたくてしょうがない奴、宇宙に狂おしい程の渇望を抱えている奴だったら、その絶叫はあらゆる人々の胸にズシリッと響いたかもしれない。…でもシロツグはそんな奴じゃないんですよね。そうすると今まで“必死”の積み上げをしてこなかった者が、ここでふいに“必死”になっても出てくる効果はたかが知れているんじゃない?と冷めた観方も首をもたげてくる。
また、ヒロインと思しきリイクニと、最後までどうとなるワケでもない所も、こう座り心地が悪いというか…満足感を妨げている感がある。
実際、僕の「王立宇宙軍」に対する評価は、もう“一つの地球”を創造くりこんだ執念と、映像の美しさ、坂本龍一の音楽(CD持ってます!)そういった部分に偏っていたわけです。で、ずっと考えていたのですが、ある時、シロツグがああである事の意味に気づいたんですよね。
ああ、そもそもこの「物語」はシロツグが主人公というわけではなかったんだ~と。彼はある焦点として主人公のように振舞っているだけなんだと。無論、リイクニが主人公でもありません。宇宙軍を指揮するカイデン将軍でもありません。それが今回の話です。
そして、この話を進めるにあたって、この「物語」の前提となる話、あの頃のあの人々の中にあった“二つの信仰”の話からはじめようと思います。
■ゼロ年代以前の二つの信仰
ゼロ年代以前の日本のおたく界隈(?)~大体、1970年代~1980年代あたりを主体としていますが~には、凡そ二つの信仰があったと僕は思っています。この頃の若い世代の感覚は、“ノンポリ”、“シラケ”、“ポスト・モダン”、“価値相対主義”といった、無信心の無神論者というか(日本では信仰心が無い事は普通というかカッコいい?スタイルだったりするんですが、海外ではむしろ軽蔑されたりするみたいですね…よく知りませんが(´・ω・`))のある種の諦観の感覚で生きていたと思うのですが、少なくともおたく界隈では(と言うか僕はおたく界隈の話しかできない)二つの信仰があり、意識的にしろ無意識にしろ、多くの人がその影響下にあったと思います。
【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67
【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9
一つは(↑)この以前の記事でも書いた、ノストラダムスの予言を主たる託宣とした“終末思想”です。この信仰に対する「物語界隈」の変遷や終焉は記事の中に書き綴ってありますが、「1999年に人類は滅ぶ」という時限装置をベースにしていた事もあって、そのリミットが滞りなく経過してしまった今はほぼ霧散してしまいましたね。…それは今にして思うと良かったのか、悪かったのか。まあ、おかしなカルト宗教に取り込まれる要素が一つ減った事を思えば良い事なんでしょうけどね…(考)
これが「1999年に僕らはどうせ滅びるんだ教」としたなら、もう一つはその対になるような信仰と言えると思います。既に、冒頭で書いていますね。それは“星を継ぐもの”の物語であり、何が何でも宇宙へ出るんだという信仰。「宇宙へ出るのは絶対に正しい教」とでも言えばいいのか。…何故、宇宙へでないといけないのか?そこには必然性も、然るべき根拠も、本当の意味ではないんです。だから、それはやっぱり信仰だったんだと僕は思う。
「王立宇宙軍」を作った人たちに焦点を合わせてみると、たとば彼らは自主制作映画で特撮ヒーローものを多数制作しているのですが、その中で「愛国戦隊大日本」というのがあります。
【Wikipedia:愛國戰隊大日本】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E6%88%A6%E9%9A%8A%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC
まあ、内容は調べてもらえればと思いますが、ともすると右翼、左翼、両方の神経を逆なでするかなりヤバいネタのパロディ作品となっていて。(まあ作った本人たちは「多くの反響を呼んだ……いや、反共を呼んだ!」なんて言って、してやったり顔でしたがw)ある意味、この頃の僕らおたくの世の中の見え方を顕す、代表的な作品だったと思っています。つまり、あの頃の僕らって、こういうヤバいもの、あるいは権威的なものの価値をチャカし、解体して行く事がすごく楽しく、また、カッコいい事のように思えて、それらの作品に対して喝采を送っていた。
こういう文脈で書くと、その事について批判的なように受け取られるかもしれないですけど、僕は必ずしもそうは思っていないし、また、そうであった事の評価はここでは問いません。ただ、そうだったよなあ、という事だけが言いたい。(というか、僕は今でもヤバいネタとかのパロディは好きで、そこらへんこの頃に刻み込まれている)
また、僕は今、さかんに信仰、信仰と言い立てていますが、これに反発するおたくも多いんじゃないかと思っている。この頃のおたくは信仰心が嫌い/カッコ悪いというか、何か一つの事に囚われていると、そう受け取られる事自体を嫌がる風潮、これもまたあったと思います。
まあ、とにかくあらゆる価値を解体して回っていたような…。正義、伝統、革命、国家、家族、競争、幸福、etc…。しかし、そうやって一通り相対化して価値を無効化して行って「結局、何も残らなかったねえ…」と気が付くのが1990年代後半の話…なんでしょうね。
しかし、それらの評価に晒されながらも、ある種信仰的に……僕は信仰だと言ってしまうんですけど、残り続けたもの。その価値を解体しきれなかったものが「1999年に僕らはどうせ滅びるんだ教」、それと「宇宙へ出るのは絶対に正しい教」だったんだと思います。どんなに物事を相対化しても、僕らは宇宙へ行くという事には絶対の価値を見出していた。捨てる事はできなかった。これは、おたく文化というものが、もともとSFファンを中心に発展醸成されていった経緯が大きい。当然、アポロの月着陸というインパクトは外せないですが、「2001年宇宙の旅」(1968年公開)「スター・ウォーズ」(1978年公開)などの影響も大きいでしょう。
「愛国戦隊大日本」を作った、ガイナックスの面子も宇宙の事になると“このように”大真面目になる。いや、「大日本」は真面目に作ってないという意味ではないですけどね。でも、宇宙に対する“敬虔さ”を感じずにはいられない所がある。
僕個人の体験の話をすると、SF好きの先輩と酒を飲んでいる時、その先輩が「人類は月へ行きたいという気持ちだけで、月へ行こうとしたんだ!」みたいな熱弁を振るっていたので「いや、あれは大陸間弾道弾が作りたかったからでしょ?つまり兵器開発ですよ。月の往還はその出力と精度のデモであって…」みたいなシラケた事をしゃべって(←こういう奴だった)危うく殴られそうになった事があるんですがw…いや、こんな事を言いつつ、僕も間違いなくこの宇宙信仰の信徒の一人なんですよw(ちょっと、ひねくれているだけでね)
こういう宇宙に対する“信仰”を前提として「王立宇宙軍」は作られていて、この信仰に対する共感がないと、この作品を“分かる”事はできても“感じる”事はできないじゃないかと思うんです。
同時にこの宇宙信仰はどんな世代でも少なからず持っているようにも思います。別に、この世代のおたく層に限定されたものではなくって。だから「王立宇宙軍」に載せられた“気持ち”は世代を越えて伝わるものがあるはずです。
■星を継ぐ物語
さて、本題にもどりましょう。「王立宇宙軍」を繰り返し観ていて、その“宇宙信仰”の深さに気がついたんですよ。いや、本から「宇宙大好き!」作品である事は分かっていたんですが…。そうではなく、これは信仰としか言いようがないような…「宇宙に行けたなら全てが救われる」とでも言うかのような思いが作品に載っていると。
何が救われるって、そりゃあ…人類そのものですよね。それが人類の使命だと信じている信仰なんですから。救われる…って言葉だとちょっと伝わらない所があるので、別に言い直すと“報われる”と言った方がいいかも。これは“人類が報われる物語”なんです。だから「王立宇宙軍」の主人公とは、その“報われる”人類そのものなんです。
“もう一つの地球”の設定を執念じみて創造くり上げていったのは、何も彼らが設定厨だからというだけではない。物語の精度のために月一個を消し去ってしまう彼らです。そこには人類というキャラクターを明確に作り上げて行く意図があります。そしてシロツグがこの物語の中心に選ばれるのも、また、大きな意味を持っている。それは彼が人類の代表だから。宇宙に行かせるのはどうしても彼でなければならなかった。
同時に彼がリイクニとどうなったか分からずに物語の幕を閉じてしまうのは、この物語の中心に添えられてはいるが、彼が主人公の物語を描こうとはしていない…その事の一つの顕れになると思う。
最初っから宇宙に行こうという気力に満ちた者が、その思いを遂げて宇宙へ行くのは分かりやすくはあるでしょうが、しかしそれは「英雄が宇宙へ行く物語」であり一人の人間の願いが叶う物語なんですね。だから、天才科学者グノォム博士(「プラネテス」で言うロックスミス博士にあたる)が途中で死ぬ事にも意味がある。それは願いを叶えようとした英雄を退場させるという意味です。
シロツグは別に宇宙なんか行きたくはなかった、成り行きでその座席に座っているだけだ。でも!この物語は、彼こそを宇宙に行かせなければならなかったんです。基本的に愚かで、時に小賢しく、中途半端にやる気があり、中途半端にやる気がなく、そして大して宇宙に興味がない彼は“だからこそ”人類の代表であり、でもそれでも、宇宙へ来た来れた事は祝福であり、救いであるんだと、そう信じる。これはそういう信仰だから!そうとしか言いようがない。
しかし、それでもその信仰が少しでも共感できるのなら、クライマックスの打上げの中止か?続行か?のシーンは分かるようになる。観える。あれは(特に宇宙へ行きたくもなかった)シロツグが現場を奮い立たせるシーンじゃない。飛び立とうとする人類が、これまでやって来た人類を奮い立たせようとするシーンなんです。
それは、あらゆる価値を相対化し、実はこの世は無意味だと知る、そういう遊びを日常としていた僕らにとって、どうしても手放せなかった“価値”だからこそ、何ものにも代え難い輝きを放っている……。
ちょっと待てよ、俺やめないぞ。何が“くだらない事”だよ。
ここでやめたら俺たち(人類は)、何だ?ただのバカじゃないか!
ここまで(人類が)作ったものを、全部捨てちまうつもりかよ?
今日の今日までやって来た事だぞ?
“くだらない”なんて悲しい事言うなよ!
(人類は)立派だよ!みんな歴史の教科書に載るくらい立派だよ!!
俺(人類)はまだやるぞ!死んでも!上がって見せる!嫌になった奴は帰れよ!
俺(人類)はまだやるんだ!充分!立派に!元気に!やるんだ!
各部門!応答しろォ!!
(人類の)電圧いける!(人類の)油圧充分!(人類の)ポンプやれる!
(人類の)燃料、行ける!
発射台条件付きでよし!
………………………………やってみるか。…秒読みもどせ。
( `;ω;´)<うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!(←泣いている)
(※オマケ:発射シーンの動画。期間限定で消します)
http://www.websphinx.net/mv/movie/royalspaceforce-1.wmv
だから、それは“信仰”なんですよね。「宇宙に行けたなら、全部、許してもらってもいいんじゃないの?」って言う信仰。
人間って全然大した事ない生き物に見えるけど。気が付くと愚かで、気が付くと怠惰で、気が付くと殺し合ってばっかに見えるけど。
でも。宇宙に行けたのは、良かったんじゃないの?宇宙に行けたのなら、胸を張っていいんじゃないの?
戦争も、飢餓も、差別も、不平等も、怠惰も、正義も、日常も、犯罪も、愛憎も、平和も、出会いも、別れも、絶望も…
あって良かったんじゃないの?人類の在り様全てを良かったと思えるんじゃないの?宇宙へ行けたなら。
これは、そういう「物語」。そして「星を継ぐ」のは、まだ、その先へと繋がって行く「物語」。
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/ac984bc2fe16b6ca05727eae82937926
あやめちゃん「ところでV2号って何だかミサイルみたい」
フォン・ブラウン「ミサイルだよ。アルコールと液体酸素を燃料にして300Kmをマッハ4.5で飛ぶ…人殺しの道具さ」
あやめちゃん「月へ行きたいんじゃなかったの?」
(「まんがサイエンス」第2巻より)
先日、USTREAMのテスト放送の雑談でしていた話~「王立宇宙軍」の事について書き留めておきます。
(↑)この記事の続きでもあります。
■シロツグ・ラーダットという主人公
「王立宇宙軍」は1987年に制作されたアニメ映画です。ガイナックスの第一回制作アニメ…というより、この映画を制作するためにガイナックスが創立されたんですよね。1950年代の地球に似ている“もう一つの地球”が舞台で、その中の湖のほとりにあるオネアミス王国で組織された“宇宙軍”が人類初の有人人工衛星を打ち上げるまでの物語。その制作にあたってガイナックスは「もう一つの地球」を創造くるために実に詳細な設定を組み上げました。…その時、買っていたロマンアルバムが、ちょっと見つからないのですが…実に細かく、その文明と文化~風俗を設定していました。服装は元より、冒頭の場面にある葬式の作法、貨幣(丸い硬貨ではない)、新聞、等々。
あと、この“地球”には月がありません。この設定の理由は簡単で、月があると月着陸まで観えてしまうからですね。あくまで有人人工衛星の打ち上げまでを一区切りというか、宇宙開発の幕開けの“場面”としての焦点を合わせているのでしょう。
その人類の一大イベントとしての有人人工衛星打ち上げですが、その物語の主人公にあたるシロツグ・ラーダットは当初、実にやる気のない人物として描かれている。そもそも彼は宇宙開発というものにまるで興味がない。
水軍(オネアミスにおける海軍)の戦闘機のパイロットになれなかったから宇宙軍に入った。落ちこぼれでも入れる所が宇宙軍だった。…物語はそこからはじまります。自堕落な生活を送っていた彼が、リイクニという少女と出会い、ある意味“彼女の気を惹くため”に、突然やる気になって誰も志願者のいなかった宇宙飛行士の候補生に志願して宇宙を目指し始める…。
これ最初、僕には“感動の精度”を下げる行為に観えたんですよね。宇宙飛行士の候補生になってからもシロツグは(人格人生を変える程)“変わって”はいない。もの凄くやる気に満ちた男になったわけではない。だから、彼に焦点を合わせて観て行くと、ともすれば「やる気のない宇宙開発がなり行きで成功してしまう物語」…というと言い過ぎですが(汗)でも、そう観えてしまう部分もある。
だから、クライマックスでシロツグが「各部門!応答しろォ!!」と皆を奮い立たせるシーンも、上滑りに感じない事はない。…だってシロツグ、お前、そんなにやる気がある奴だったか?って思ってしまう。これが「プラネテス」のハチマキみたいな奴、宇宙に行きたくてしょうがない奴、宇宙に狂おしい程の渇望を抱えている奴だったら、その絶叫はあらゆる人々の胸にズシリッと響いたかもしれない。…でもシロツグはそんな奴じゃないんですよね。そうすると今まで“必死”の積み上げをしてこなかった者が、ここでふいに“必死”になっても出てくる効果はたかが知れているんじゃない?と冷めた観方も首をもたげてくる。
また、ヒロインと思しきリイクニと、最後までどうとなるワケでもない所も、こう座り心地が悪いというか…満足感を妨げている感がある。
実際、僕の「王立宇宙軍」に対する評価は、もう“一つの地球”を創造くりこんだ執念と、映像の美しさ、坂本龍一の音楽(CD持ってます!)そういった部分に偏っていたわけです。で、ずっと考えていたのですが、ある時、シロツグがああである事の意味に気づいたんですよね。
ああ、そもそもこの「物語」はシロツグが主人公というわけではなかったんだ~と。彼はある焦点として主人公のように振舞っているだけなんだと。無論、リイクニが主人公でもありません。宇宙軍を指揮するカイデン将軍でもありません。それが今回の話です。
そして、この話を進めるにあたって、この「物語」の前提となる話、あの頃のあの人々の中にあった“二つの信仰”の話からはじめようと思います。
■ゼロ年代以前の二つの信仰
ゼロ年代以前の日本のおたく界隈(?)~大体、1970年代~1980年代あたりを主体としていますが~には、凡そ二つの信仰があったと僕は思っています。この頃の若い世代の感覚は、“ノンポリ”、“シラケ”、“ポスト・モダン”、“価値相対主義”といった、無信心の無神論者というか(日本では信仰心が無い事は普通というかカッコいい?スタイルだったりするんですが、海外ではむしろ軽蔑されたりするみたいですね…よく知りませんが(´・ω・`))のある種の諦観の感覚で生きていたと思うのですが、少なくともおたく界隈では(と言うか僕はおたく界隈の話しかできない)二つの信仰があり、意識的にしろ無意識にしろ、多くの人がその影響下にあったと思います。
【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67
【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/95ba00d703b749add8ff08fcfee0a7e9
一つは(↑)この以前の記事でも書いた、ノストラダムスの予言を主たる託宣とした“終末思想”です。この信仰に対する「物語界隈」の変遷や終焉は記事の中に書き綴ってありますが、「1999年に人類は滅ぶ」という時限装置をベースにしていた事もあって、そのリミットが滞りなく経過してしまった今はほぼ霧散してしまいましたね。…それは今にして思うと良かったのか、悪かったのか。まあ、おかしなカルト宗教に取り込まれる要素が一つ減った事を思えば良い事なんでしょうけどね…(考)
これが「1999年に僕らはどうせ滅びるんだ教」としたなら、もう一つはその対になるような信仰と言えると思います。既に、冒頭で書いていますね。それは“星を継ぐもの”の物語であり、何が何でも宇宙へ出るんだという信仰。「宇宙へ出るのは絶対に正しい教」とでも言えばいいのか。…何故、宇宙へでないといけないのか?そこには必然性も、然るべき根拠も、本当の意味ではないんです。だから、それはやっぱり信仰だったんだと僕は思う。
八郎太「地球は人類にとってゆりかごだ、だがゆりかごで一生を過ごす者はいない」
五郎「八郎太、だまされてるぞ。そいつはツィオルコフスキーのついたウソだ。20世紀初頭に宇宙旅行を夢見たロシアのおっさんが、それを叶えるために一発吹いたのさ。大先輩は頭がいいから自分の欲望を人類全体の問題にすりかえたんだ。たしいたおっさんだよ」
(「プラネテス」第2巻より)
「王立宇宙軍」を作った人たちに焦点を合わせてみると、たとば彼らは自主制作映画で特撮ヒーローものを多数制作しているのですが、その中で「愛国戦隊大日本」というのがあります。
【Wikipedia:愛國戰隊大日本】
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%9B%BD%E6%88%A6%E9%9A%8A%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC
まあ、内容は調べてもらえればと思いますが、ともすると右翼、左翼、両方の神経を逆なでするかなりヤバいネタのパロディ作品となっていて。(まあ作った本人たちは「多くの反響を呼んだ……いや、反共を呼んだ!」なんて言って、してやったり顔でしたがw)ある意味、この頃の僕らおたくの世の中の見え方を顕す、代表的な作品だったと思っています。つまり、あの頃の僕らって、こういうヤバいもの、あるいは権威的なものの価値をチャカし、解体して行く事がすごく楽しく、また、カッコいい事のように思えて、それらの作品に対して喝采を送っていた。
こういう文脈で書くと、その事について批判的なように受け取られるかもしれないですけど、僕は必ずしもそうは思っていないし、また、そうであった事の評価はここでは問いません。ただ、そうだったよなあ、という事だけが言いたい。(というか、僕は今でもヤバいネタとかのパロディは好きで、そこらへんこの頃に刻み込まれている)
また、僕は今、さかんに信仰、信仰と言い立てていますが、これに反発するおたくも多いんじゃないかと思っている。この頃のおたくは信仰心が嫌い/カッコ悪いというか、何か一つの事に囚われていると、そう受け取られる事自体を嫌がる風潮、これもまたあったと思います。
まあ、とにかくあらゆる価値を解体して回っていたような…。正義、伝統、革命、国家、家族、競争、幸福、etc…。しかし、そうやって一通り相対化して価値を無効化して行って「結局、何も残らなかったねえ…」と気が付くのが1990年代後半の話…なんでしょうね。
しかし、それらの評価に晒されながらも、ある種信仰的に……僕は信仰だと言ってしまうんですけど、残り続けたもの。その価値を解体しきれなかったものが「1999年に僕らはどうせ滅びるんだ教」、それと「宇宙へ出るのは絶対に正しい教」だったんだと思います。どんなに物事を相対化しても、僕らは宇宙へ行くという事には絶対の価値を見出していた。捨てる事はできなかった。これは、おたく文化というものが、もともとSFファンを中心に発展醸成されていった経緯が大きい。当然、アポロの月着陸というインパクトは外せないですが、「2001年宇宙の旅」(1968年公開)「スター・ウォーズ」(1978年公開)などの影響も大きいでしょう。
「愛国戦隊大日本」を作った、ガイナックスの面子も宇宙の事になると“このように”大真面目になる。いや、「大日本」は真面目に作ってないという意味ではないですけどね。でも、宇宙に対する“敬虔さ”を感じずにはいられない所がある。
僕個人の体験の話をすると、SF好きの先輩と酒を飲んでいる時、その先輩が「人類は月へ行きたいという気持ちだけで、月へ行こうとしたんだ!」みたいな熱弁を振るっていたので「いや、あれは大陸間弾道弾が作りたかったからでしょ?つまり兵器開発ですよ。月の往還はその出力と精度のデモであって…」みたいなシラケた事をしゃべって(←こういう奴だった)危うく殴られそうになった事があるんですがw…いや、こんな事を言いつつ、僕も間違いなくこの宇宙信仰の信徒の一人なんですよw(ちょっと、ひねくれているだけでね)
こういう宇宙に対する“信仰”を前提として「王立宇宙軍」は作られていて、この信仰に対する共感がないと、この作品を“分かる”事はできても“感じる”事はできないじゃないかと思うんです。
同時にこの宇宙信仰はどんな世代でも少なからず持っているようにも思います。別に、この世代のおたく層に限定されたものではなくって。だから「王立宇宙軍」に載せられた“気持ち”は世代を越えて伝わるものがあるはずです。
■星を継ぐ物語
さて、本題にもどりましょう。「王立宇宙軍」を繰り返し観ていて、その“宇宙信仰”の深さに気がついたんですよ。いや、本から「宇宙大好き!」作品である事は分かっていたんですが…。そうではなく、これは信仰としか言いようがないような…「宇宙に行けたなら全てが救われる」とでも言うかのような思いが作品に載っていると。
何が救われるって、そりゃあ…人類そのものですよね。それが人類の使命だと信じている信仰なんですから。救われる…って言葉だとちょっと伝わらない所があるので、別に言い直すと“報われる”と言った方がいいかも。これは“人類が報われる物語”なんです。だから「王立宇宙軍」の主人公とは、その“報われる”人類そのものなんです。
“もう一つの地球”の設定を執念じみて創造くり上げていったのは、何も彼らが設定厨だからというだけではない。物語の精度のために月一個を消し去ってしまう彼らです。そこには人類というキャラクターを明確に作り上げて行く意図があります。そしてシロツグがこの物語の中心に選ばれるのも、また、大きな意味を持っている。それは彼が人類の代表だから。宇宙に行かせるのはどうしても彼でなければならなかった。
同時に彼がリイクニとどうなったか分からずに物語の幕を閉じてしまうのは、この物語の中心に添えられてはいるが、彼が主人公の物語を描こうとはしていない…その事の一つの顕れになると思う。
最初っから宇宙に行こうという気力に満ちた者が、その思いを遂げて宇宙へ行くのは分かりやすくはあるでしょうが、しかしそれは「英雄が宇宙へ行く物語」であり一人の人間の願いが叶う物語なんですね。だから、天才科学者グノォム博士(「プラネテス」で言うロックスミス博士にあたる)が途中で死ぬ事にも意味がある。それは願いを叶えようとした英雄を退場させるという意味です。
シロツグは別に宇宙なんか行きたくはなかった、成り行きでその座席に座っているだけだ。でも!この物語は、彼こそを宇宙に行かせなければならなかったんです。基本的に愚かで、時に小賢しく、中途半端にやる気があり、中途半端にやる気がなく、そして大して宇宙に興味がない彼は“だからこそ”人類の代表であり、でもそれでも、宇宙へ来た来れた事は祝福であり、救いであるんだと、そう信じる。これはそういう信仰だから!そうとしか言いようがない。
しかし、それでもその信仰が少しでも共感できるのなら、クライマックスの打上げの中止か?続行か?のシーンは分かるようになる。観える。あれは(特に宇宙へ行きたくもなかった)シロツグが現場を奮い立たせるシーンじゃない。飛び立とうとする人類が、これまでやって来た人類を奮い立たせようとするシーンなんです。
それは、あらゆる価値を相対化し、実はこの世は無意味だと知る、そういう遊びを日常としていた僕らにとって、どうしても手放せなかった“価値”だからこそ、何ものにも代え難い輝きを放っている……。
ちょっと待てよ、俺やめないぞ。何が“くだらない事”だよ。
ここでやめたら俺たち(人類は)、何だ?ただのバカじゃないか!
ここまで(人類が)作ったものを、全部捨てちまうつもりかよ?
今日の今日までやって来た事だぞ?
“くだらない”なんて悲しい事言うなよ!
(人類は)立派だよ!みんな歴史の教科書に載るくらい立派だよ!!
俺(人類)はまだやるぞ!死んでも!上がって見せる!嫌になった奴は帰れよ!
俺(人類)はまだやるんだ!充分!立派に!元気に!やるんだ!
各部門!応答しろォ!!
(人類の)電圧いける!(人類の)油圧充分!(人類の)ポンプやれる!
(人類の)燃料、行ける!
発射台条件付きでよし!
………………………………やってみるか。…秒読みもどせ。
( `;ω;´)<うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!(←泣いている)
(※オマケ:発射シーンの動画。期間限定で消します)
http://www.websphinx.net/mv/movie/royalspaceforce-1.wmv
だから、それは“信仰”なんですよね。「宇宙に行けたなら、全部、許してもらってもいいんじゃないの?」って言う信仰。
人間って全然大した事ない生き物に見えるけど。気が付くと愚かで、気が付くと怠惰で、気が付くと殺し合ってばっかに見えるけど。
でも。宇宙に行けたのは、良かったんじゃないの?宇宙に行けたのなら、胸を張っていいんじゃないの?
戦争も、飢餓も、差別も、不平等も、怠惰も、正義も、日常も、犯罪も、愛憎も、平和も、出会いも、別れも、絶望も…
あって良かったんじゃないの?人類の在り様全てを良かったと思えるんじゃないの?宇宙へ行けたなら。
これは、そういう「物語」。そして「星を継ぐ」のは、まだ、その先へと繋がって行く「物語」。
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ウチにはサウンドトラックの LP 版がありました。あれは妹が買ったんだっけ、私と代金を折半したんだっけ?さすがにもう処分しちゃいましたが、カセットテープに落とした奴は今でもすぐ手の届く場所に置いてあります。ものすごく繰り返し聞いたので、だいぶ痛んじゃってますが…。考えてみれば CD で買い直してもいいですね。本編の方は LD BOX と、サウンドリニューアル版の DVD は買ってあるのですが。
そうですね。付け足しておきます。
僕も映画館で観たくちなのですが、本文で少し触れたように、最初はシロツグのやる気のなさが、しっくりと受け止めるのを阻害しちゃってたんですよね。
ああ、そうかあ~、と、その意味が分かったのは、レーザーディスクを買って観たときくらいの頃で…。
また、当時は「ナウシカ」→「ラピュタ」と正統派宮崎アニメがブイブイいわせていた頃で、リイクニに、勝手に宮崎ヒロイン的なものを期待してw勝手にがっくりしていた事もありましたw(汗)
一アニメファンですが、LDさんに感謝を。
宇宙へいく方法が、ロケットじゃなくて、そのへんに生えている木を上っていければ、楽しかったでしょうね。
シロツグがリイクニとマナに、どんなおみやげを持って帰ったか、気になります。
マナに、お星さまを届けたのでしょうか。
お土産は難しいですよねえ~w着水した国のものとか買って持っていったかも(あるいは星の砂とか)超高空を通って一周していますけど、まあ、その国に弾道軌道で旅行に行ったようなものですしw