ピビンパな日々

韓国で働きながら日々感じたこと、思うことをすこしずつ。

地震と被災の傷あと。

2011年05月19日 09時06分53秒 | 韓国体験記

お昼を済ませ、本社からの英語のPPTを眉をしかめながら見ていた午後。

韓国からの引越しを大急ぎで済ませ、東京の日本法人のオフィスに移って3週間経っていた。

同じグループ(うちの会社では部ではなくグループと呼ぶ。)のみんなもそれぞれミーティングやら、打ち合わせて席をあけていた。

時計を見上げると、3時からのウェブエージェンシーとのミーティングにはまだ時間があった。

 モニターに首ごと吸い込まれそうな位の前のめりの姿勢で、ざっと見では半分以上何を書いてるのかわからない英語の文章を見ていると、急に頭がクラっときた。

 

 (あ、眩暈。めがねかけるの忘れてた…)

 

と、デスクの上に出していためがねに視線を落とした。

その瞬間、それが眩暈じゃなかったことが直ぐにわかった。オフィス全体が横に大きく揺れてる。

次第に揺れが大きくなって、周りの日本人はデスクの下にもぐった。外国人や韓国人はやはり地震に免疫がないからか、そういった行動にはなかなか瞬時にでないらしかった。真後ろにあった数台の液晶テレビが落ちそうなのを眺めながらも、1m先のそれまでどうしても手が伸びなかった。

それほど揺れが大きかった。

時間にしたらどのくらいだろう、すごく長かった。2分くらいはずーっと揺れてた気がする。 

周りに座ってた同じグループの人たちと何か会話を交わした気がするけど、覚えていない。

泣きじゃくりながら動けないでいるどこか他のグループの女の子を非常階段まで送り、急いで会議室に行ってグループ長とメンバーにみんな避難してることを伝えたのは覚えている。

 

ビルの1階に降りてみると、赤坂の街は人でごった返してた。

高層ビルや古い建物が多く、外にいる間も向かい側のビル3つがよこにジオラマのおもちゃをよこにゆすってるみたいにぐらぐら動いてるのが見えた。

…電話を握りながら、必死で仙台のママさんに電話した。必死で岩手の伯母さんに電話した。

なんか嫌な予感がしたから。最近もずっと東北の方で地震が続いてたから。

 

幸いにもスカイプ経由で連絡をするとママさんにも、岩手の伯母にも、仙台の駅前でバイト中のぴぃさん(妹)、それから山形にいる親友にも繋がった。

最初の大きな地震からは多分10分くらい経ってからだったと思う。

 

「そとにいたから体は大丈夫だけど家も何もかも全部めちゃくちゃ~」

「お店のもの全部だめになちゃった。食器も棚も全部倒れてこわれちゃったわ。」

といいながらも、多分声が聞けたことだけでママさんも伯母もほっとしたんだろうと思う。

 


その日は結局暗くて寒い中、7時間以上かけて歩いて家に帰った。その間、何も考えられなかった。

世田谷の田園調布から多摩川も歩いて渡って来た。

 

家に帰って何よりも先にニュース、電話。

日本に着いてすぐ仕事を始めたため、家にはまだテレビもなかった。

パソコンをつけてスカイプに接続しながらUSTREAMにアクセスする。

…電話がずっと繋がらない。スカイプならもしかしたらという思いだった。

必死でかけた。何十回も、何百回も。

 

ケータイには近くに住む親戚のオッパから伝言が入ってた。

心配してくれたみたいで、電話して会話したらなんか少し落ち着いた。

他にもひっきりなしで、友達から、知り合いからツイッターやカカオトークで連絡が来た。

みんなSNSを使っているのを見ると、こっちの電話もまだまだ通じにくいらしかった。

 

連絡が取れなかった間、気持ちが一喜一憂した。

(そうだよ、さっきは大丈夫っていってたし。家や店は駄目でもみんな大丈夫なら後は何とかなるし。)

と、自分に言い聞かせる反面、仙台市内でも200-300人の死亡者が出ているようだというニュースにキーボードの手まで凍りついた。結局、朝方までかけたけど繋がらなかった。 正直、何をはなしていいのかわからない。どうしていいかわからなかった。

家、ママさんのケータイ、伯母の店、伯母のケータイ、妹のケータイ。ずっと、ずっーと。

でも繋がらなかった。

  

…結局つながったのは3日後。

それでも家族みんなが無事で、住むところもあって、電気がついて、電話が通じる場所にいることは幸運だと思った。

 

 

 

あれから2ヶ月。

ゴールデンウィーク初日、ようやく新幹線が全線運転開始となった日に仙台に帰った。

学校は見る影もなく傾き、知り合いや昔お世話になった上司の家族は津波で流されてしまったと聞くと、やはり傷跡は深かったのだと実感する。仙台空港からよく通ってきていた名取の方は、戦争で爆弾が落ちたように家も建物も何もない。津波が全部さらって持っていってしまった。

仙台市内も日中開けてる店は多くても、8時頃になると人影もまばらで、しんと静かになってしまう商店街を目の当たりにすると、これからどうやって、何年かかったら元の仙台に戻れるんだろうとふと思ってしまう。

 一番町や駅前はようやく営業を再開したデパートや服屋から日常のにおいがした。

韓国から休みで仙台に帰ると必ずしていたように、妹やママさんと一緒にご飯を食べに行って、馴染みのお気に入りのコーヒーショップの中のどこに行くかを気分で決めて、何気ない近況話をしながらそこへ向かう。こんな状況でも、今まで「あって当たり前だった日常」の道のりしか歩けない自分にとまどっていたと思ったら、閉まっているお店のシャッターや映画の閉館案内掲示板をみると、ふとした瞬間に、その「なんでもないこと」が、本当に幸せな事だったんだということを今まで以上につくづく実感している自分がいる。

仙台では、それの繰り返しだった。

これから落ち着いてきたら、どんどんまた不便な事も出てくるかもしれない。

でも、やっぱりうちはみんなが明るく元気に、幸せを感じながら生きていけそうな気がする。

 

日本に5年ぶりに戻ってきたばかりで、まだ友達がいないからか、家族の大切さをまた実感した。

原発で子供に放射能なんか浴びせられないという一心から親友と1歳になる娘、親友の妹と今年生まれたばかりの赤ちゃんをとりあえず2番目の妹がいる愛知に送る手はずをとって自分も週末に向かった。

やはりこう素直に思えるのも、今までの自分が歩いてきて、出会ってきた人たちのおかげなんだと思う。

そんな事、何年か前の私にはできなかったと思う。思っても行動にまではできなかったと思う。

 

そう思うと、なんだかいろんな人に感謝の気持ちでいっぱいになった。

そうやって、ひととひとがつながっているんだと思う。

正直、この件については何をはなしていいのかわからなかった。どうしようもないくらい何もできないでひたすら祈る自分だった。

でも、こういった気持ちだけは、なんとなく書き留めておこうと思った。

そうして、多分みんなで前に進んでいくべきかなと思った。


最新の画像もっと見る

post a comment