雲一つない青い空の朝、おっちゃんが逝ってしまいました。
まだまだ話したいことがあったけれど、もうこれ以上引き止めるのも可哀想なので。
新年を自宅で迎え、2日のお昼に病院に戻るときに、玄関で車椅子に乗せられたおっちゃんは
大粒の涙をポロポロ落として泣いたそうです。
その夜、病院から近親者を集めるようにと連絡があり、私も車を飛ばして病院に向かいました。
叔母は私の母を含めて4人姉妹で、私が病院に着くと4人が主治医のあとに続いて
病状説明のための部屋へ通されるところでした。
私もうながされて入ると、すぐに扉が閉められ、それと同時に主治医が
「いよいよお別れのときが近づいてきました。ご本人さんは今相当しんどいと思われるので
今までの合成麻薬ではなく、天然由来のモルヒネを使う時かと思いますが
それを使うと楽にはなりますが、眠りにおちてお話はできなくなります。
使うかどうかはご家族でご相談していただけますか?僕は今夜は帰らずにお返事を待っていますので。」
苦しんでいるおっちゃんを見て、私や母たちは「投与してもらおうよ。もういっぱい頑張ったやん。」
でも、叔母は「もう話せないなんていややわ。」と泣き崩れました。
主治医には決断までに1時間くださいとお願いし、叔母たちは会わせたい人たちへの連絡やらで
私一人がおっちゃんの傍らへ付きました。
するとおっちゃんが、私の名を呼び、両の手で私の手を握り
「しんどいわ・・・なんとかならんかな。」と言うので、
「おっちゃん、先生が眠くなるけどしんどいのを取るお薬しますかって・・・どうする?してほしい?」と聞くと
「うん、すぐして。おばちゃんがあかん言うてもしてな。」と言うので
叔母を呼び、二人でもう一度確認した上で、叔母は主治医の元へと投与の依頼に行きました。
辛い辛い決断であり、忘れられない瞬間だったと思います。
薬の準備の間、おっちゃんが大好きなメロンの搾り汁をティスプーンで3さじ
口元へ運ぶといつものように「サンキュ、サンキュ」と。
これが私との最後の会話でした。
おっちゃんは、阪神間では名の知れた割烹料理の料理人でした。
若い頃はハワイやペルーで日本料理の腕を揮っていたときもありました。
叔母と結婚すると同時に自分の店を持ち、40年間のあいだ、多くのお客様に愛され
議員さんや女優さん、吉本の方も足繁く地の利の悪い店にもかかわらず通ってくださいました。
普段は優しい垂れ目のおっちゃんが、一旦仕事場へ入り、お客さまの前で包丁を握ると
それは真剣な面持ちで一心にまな板に向かい、子供の頃恐いと感じたこともありました。
たくさんのお弟子さんを育てたのに、自分は60になったらさっさと店をたたむと言い
みんなをりっぱに巣立たせて、それでもたくさんのお客様に請われて5年も長く暖簾を掲げ
老後の蓄えもほどほど出来て、廃業届けを出してすぐにがん発覚でした。
昨日叔母に初めて見せてもらったのが、当時の竹下登首相から贈られた料理人としての功績に対する「感謝状」でした。
「店に飾っておけばよかったのに・・・」と言うと「そんなことする人と違うのよね。」と。
そういえば、幾度となくやってきたグルメ本やら日本料理の雑誌やらの取材も一切受けず
有名人と一般のお客様との差も全くつけず、今、目の前で「美味しい」と言ってくださるお客さまを大切にしていました。
昨日、きれいに身支度されたおっちゃんの胸元には、屋号が刺繍されたいつも店で着ていた白衣と帽子が載せられ
顔は本当に仏さまのように、にっこりと笑っていました。
おっちゃんが育てたお弟子さんたちが集まり、手際よく葬儀の準備をしてくれているのが嬉しいのかな。
そうそう、私が何度かやり合った憎たらしかった主治医は、年末から本当に一生懸命に診てくださり
大晦日も自宅から点滴に通った元旦も、2日も3日も・・・そう一日も休むことなく主治医としての誠意をみせてくれました。
臨終後のおっちゃんの清拭では、おっちゃんの髭をうまく剃れない看護師さんに
「あかん、そんなんじゃ・・ちょっと待ってて。」と
自分のおそらく当直用のポーチから、使い捨て髭剃りとシェービングクリームを出して
先生自らきれいに丁寧におっちゃんの髭を剃ってくれたのでした。
私は人としての先生に心からのお礼が言えました。
このブログで自分のことをこんなにたくさんの方が知ってくださってるのをおっちゃんは知りません。
でも、私を一番の「がん友」と看護師さんに自慢したりするおっちゃんは
私を支えてくださるみなさんの「がん友」でもあるような気がします。
叶効果で笑ったことや、お正月帰れたこと、振り返れば8月に温泉にいけたこと。
「よかったね」とたくさんのコメントをいただき、本当に嬉しかったです。
みなさんがいなければ、私一人「がん友」から取り残されたようで寂しくて
耐えられなかったでしょうが、みなさんがいてくれるから大丈夫。
これまでおっちゃんを、私を応援してくださって本当にありがとうございました。
おっちゃんの分まで厚くお礼をもうしあげます。
ありがとうございました。
では、今夜はお通夜、明日12時に荼毘に付されるまで、おっちゃんのそばでみんなで笑ってきます。
まだまだ話したいことがあったけれど、もうこれ以上引き止めるのも可哀想なので。
新年を自宅で迎え、2日のお昼に病院に戻るときに、玄関で車椅子に乗せられたおっちゃんは
大粒の涙をポロポロ落として泣いたそうです。
その夜、病院から近親者を集めるようにと連絡があり、私も車を飛ばして病院に向かいました。
叔母は私の母を含めて4人姉妹で、私が病院に着くと4人が主治医のあとに続いて
病状説明のための部屋へ通されるところでした。
私もうながされて入ると、すぐに扉が閉められ、それと同時に主治医が
「いよいよお別れのときが近づいてきました。ご本人さんは今相当しんどいと思われるので
今までの合成麻薬ではなく、天然由来のモルヒネを使う時かと思いますが
それを使うと楽にはなりますが、眠りにおちてお話はできなくなります。
使うかどうかはご家族でご相談していただけますか?僕は今夜は帰らずにお返事を待っていますので。」
苦しんでいるおっちゃんを見て、私や母たちは「投与してもらおうよ。もういっぱい頑張ったやん。」
でも、叔母は「もう話せないなんていややわ。」と泣き崩れました。
主治医には決断までに1時間くださいとお願いし、叔母たちは会わせたい人たちへの連絡やらで
私一人がおっちゃんの傍らへ付きました。
するとおっちゃんが、私の名を呼び、両の手で私の手を握り
「しんどいわ・・・なんとかならんかな。」と言うので、
「おっちゃん、先生が眠くなるけどしんどいのを取るお薬しますかって・・・どうする?してほしい?」と聞くと
「うん、すぐして。おばちゃんがあかん言うてもしてな。」と言うので
叔母を呼び、二人でもう一度確認した上で、叔母は主治医の元へと投与の依頼に行きました。
辛い辛い決断であり、忘れられない瞬間だったと思います。
薬の準備の間、おっちゃんが大好きなメロンの搾り汁をティスプーンで3さじ
口元へ運ぶといつものように「サンキュ、サンキュ」と。
これが私との最後の会話でした。
おっちゃんは、阪神間では名の知れた割烹料理の料理人でした。
若い頃はハワイやペルーで日本料理の腕を揮っていたときもありました。
叔母と結婚すると同時に自分の店を持ち、40年間のあいだ、多くのお客様に愛され
議員さんや女優さん、吉本の方も足繁く地の利の悪い店にもかかわらず通ってくださいました。
普段は優しい垂れ目のおっちゃんが、一旦仕事場へ入り、お客さまの前で包丁を握ると
それは真剣な面持ちで一心にまな板に向かい、子供の頃恐いと感じたこともありました。
たくさんのお弟子さんを育てたのに、自分は60になったらさっさと店をたたむと言い
みんなをりっぱに巣立たせて、それでもたくさんのお客様に請われて5年も長く暖簾を掲げ
老後の蓄えもほどほど出来て、廃業届けを出してすぐにがん発覚でした。
昨日叔母に初めて見せてもらったのが、当時の竹下登首相から贈られた料理人としての功績に対する「感謝状」でした。
「店に飾っておけばよかったのに・・・」と言うと「そんなことする人と違うのよね。」と。
そういえば、幾度となくやってきたグルメ本やら日本料理の雑誌やらの取材も一切受けず
有名人と一般のお客様との差も全くつけず、今、目の前で「美味しい」と言ってくださるお客さまを大切にしていました。
昨日、きれいに身支度されたおっちゃんの胸元には、屋号が刺繍されたいつも店で着ていた白衣と帽子が載せられ
顔は本当に仏さまのように、にっこりと笑っていました。
おっちゃんが育てたお弟子さんたちが集まり、手際よく葬儀の準備をしてくれているのが嬉しいのかな。
そうそう、私が何度かやり合った憎たらしかった主治医は、年末から本当に一生懸命に診てくださり
大晦日も自宅から点滴に通った元旦も、2日も3日も・・・そう一日も休むことなく主治医としての誠意をみせてくれました。
臨終後のおっちゃんの清拭では、おっちゃんの髭をうまく剃れない看護師さんに
「あかん、そんなんじゃ・・ちょっと待ってて。」と
自分のおそらく当直用のポーチから、使い捨て髭剃りとシェービングクリームを出して
先生自らきれいに丁寧におっちゃんの髭を剃ってくれたのでした。
私は人としての先生に心からのお礼が言えました。
このブログで自分のことをこんなにたくさんの方が知ってくださってるのをおっちゃんは知りません。
でも、私を一番の「がん友」と看護師さんに自慢したりするおっちゃんは
私を支えてくださるみなさんの「がん友」でもあるような気がします。
叶効果で笑ったことや、お正月帰れたこと、振り返れば8月に温泉にいけたこと。
「よかったね」とたくさんのコメントをいただき、本当に嬉しかったです。
みなさんがいなければ、私一人「がん友」から取り残されたようで寂しくて
耐えられなかったでしょうが、みなさんがいてくれるから大丈夫。
これまでおっちゃんを、私を応援してくださって本当にありがとうございました。
おっちゃんの分まで厚くお礼をもうしあげます。
ありがとうございました。
では、今夜はお通夜、明日12時に荼毘に付されるまで、おっちゃんのそばでみんなで笑ってきます。
最期におうちでお雑煮が食べられて
眠る前にメロンジュースも飲んでもらえて
良かったね。
料理人として人間として、とっても濃くて真っ直ぐな人生を送られたのね。
仕事には厳しく、それ以外では優しくユーモアのあるおっちゃんだったんだろうな。
くりりんちゃんの誇りだよね。
記事を読んでいて涙が出て来ました。
私にとってもおっちゃんは「心のがん友」だったのでしょう。
おっちゃんの冥福を心からお祈りします。。。
そんな強く、チャーミングな叔父様が2日に病院に戻られる時、ポロポロと涙を流されたと・・
読みながら、私も涙が溢れてきました。
モルヒネの選択は、叔母様にとってもお辛いことだったでしょうに・・・
人って、儚く、でも強いなって、そんなことを感じました。
うまく書けませんが、一言、
叔父様のご冥福を心よりお祈り申しあげます。
悩んだ決断だったかもしれませんが、おっちゃんが楽になることを望んでいたのなら、きっと笑って旅立ったよね。
今は、楽になったおっちゃんが「ありがとう」ってくりりんさんに言ってるように思います。
おっちゃん、ありがとう!!
ゆっくり休んでね。
残念な結果ではありますが
夫婦愛、家族愛にあふれ
最後まで、おっちゃんらしさを失わなかったお人柄に、胸打たれました。合掌。
おじさまのご冥福をお祈りします。
くりりんさんもお疲れでませんように。
最後の時までおっちゃんはおっちゃんとして逝かれたのですね。
くりりんさんという「がん友」は私達がそうであるように大切な大切な宝物だったと思います。
ご冥福をお祈りいたしますとともにご家族の皆様にお疲れがでませんようご自愛下さいませ。
涙が流れました
ガンという病気になってから、病気の最後というものはとても辛いものがあります
叔父様は料理人としてもすばらしい人生を過ごされましたね
叔父様のご冥福を心よりお祈りします
くりりんさんもお疲れ出ませんように・・・
最後の言葉の「サンキュ、サンキュ」
一番のがん友であるくりりんさんへの
おっちゃんの思いの全てのような気がしました。
心よりおじさまのご冥福をお祈りいたします。
私も昨年の夏に叔父が亡くなりました。
ちょうど私の副作用がひどくて入院したその日に亡くなり、お通夜もお葬式にもいけませんでした。
なんだか、ダブってしまって、読みながら泣けてきました。
おじさまのご冥福をお祈りいたします。