slice of life

ヒト科 2人

イヌ科 2人 日々成長中!

母の成長記

2013-11-07 10:36:30 | Weblog
ン十歳にして、初のキャラ弁。

これを記録せず、何を記録する!?

怪我をしないかとか

迷子になるなょとか

ンなこたぁ どうでもいい! ←ダメ

お願いだから、リュックを ふらないで!

・・・・って、よく見たら 海苔切っただけとも
いうな(笑)

メリークリスマス☆

2012-12-25 01:03:31 | Weblog
今年も・・・

色々 イロイロ あったけど

おじいちゃんの手作りケーキで
乾杯ができた。


チビは毎日を力一杯楽しんで、
我が家の毛玉ーズも 元気。


上出来ということに
しておこうっと。
(⌒0⌒)/~~

帰還

2012-10-24 11:42:51 | Weblog
先生が、『お昼頃までは・・・』と言ってから六日目、母は血液検査で、信じられないくらいいい結果をだした。
さすがの主治医も、ここまで回復する方はあまりいませんよ、もう大丈夫だと思いますと、母の手を握り 笑顔で声をかけた。

先生が去った後、妹と二人 『聞こえたら、手、握って!』と声をかけると軽くではあったが、握りかえす。

どんなにこの瞬間を待ち望んだか!

それより、おはようと声をかけると
返事をしようとする。

二人で、歓喜の声をあげた。

午後には、呼吸器の専門家だという先生が訪れ、人工呼吸器を外す準備に入りましょうと言って、自発呼吸を促すように、設定値を変えていった。

訳が分からず劇的に悪くなった症状は、これまた信じられないくらいの早さで回復していった。

そこまでを見届けて、妹は帰っていった。列車を見送った後、『どうか、お母ちゃんをよろしくお願いします。』と他人行儀なメールが届く。

側を離れたことのない私には、到底 計り知れない思いがあるんだろう、『まかせて!』と返信しておいた。

次の日、血圧を上げる点滴が外れ、

次の日、自発呼吸を100%にし
その日のうちに、人工呼吸器から解放され

次の日、流動食が始まり

どんどん、母に繋がっていたあらゆるものが減っていく。

何と、第一声は 『アイスクリームが食べたい。晩御飯はまだかな?』だった。息子が予想した通り、アイスクリームが食べたいと言った。
母だ。母が帰ってきた。

人工呼吸器の機械的な音も、妹もいない病室は静かすぎて、寂しさを感じたが、やはり意識がある母は それだけで存在感があった。

意思の疎通・・・やはり介護のカギだと思う。意識がない、もしくは、お互いの常識が噛み合わない認知症等の症状がある家族をもつ方が、どれ程辛いだろうか、と考えた。
介護は、人と人だ。分かっていても難しいのだから、意思の疎通なくして、感情のコントロールは難しい。

意識が戻った母を見ながら、思いはあらゆる所へとんでゆく。

12日間何も口にしてない母は、例えは悪いが、
頭蓋骨ってこんな形ってくらい 痩せこけてしまっていた。

目が完全に見えなくなってからは
食べる事が楽しみだった。

あれが食べたい、これが食べたいと言えるまでは、まだまだ時間がかかるだろうけれど、きっとまた、そんな日が来るだろうと確信している。

意識が戻っても、目が覚めても暗闇の世界へ母は還ってきてくれた。

もう少し、側にいてほしい。

なんちゃって介護から、本格的な介護をするため退職し、準備を整える。

10月23日、救急車で搬送してから51日目、退院許可がおりた。

正直、恐い。
全くの寝たきり、オムツを使用するようになった母を、本当に自宅で介護してあげれるのか。
食事、床擦れ、稼働域の確保、挙げればきりがないほど不安材料を思いつく。
でも、無理とか無理じゃないとかの問題以前に、然るべき施設へ という考えは全くない。

やるしかないのだ。

不安とぶつかっても、母譲りのなにくそ!根性でのりきってやる。

そんな思いを巡らせながら、準備をしてる。

緊急入院してから、不安で不安で堪らなかった。家を空け、娘が情緒不安定になったり、自身の持病が悪化したり、勿論、気分が酷く落ち込んで何も手につかなかったり。

だけどね、これは 私だけに降りかかった試練ではない。

きっとどこの家庭でも一度や二度ならず訪れる試練なのだ。
親がいなければ、子は存在しないのだから。

いつの日か、本当に母を送り出す時
胸を張って、『ありがとう』と伝えたい。 去ってしまいそうな母を取り戻した時、心からそう思った。




とっても長くなってしまった記事を読んで頂いてありがとうございます。
どこかに、誰かに訴えないと、潰れそうでした。眠れない夜や、回復してから思い出しながら記したもので、内容もメチャクチャです。

さて、自分を奮い起たせて、頑張ります。
どんどん寒くなってきましたね。
どうか、ご自愛くださいね。

去る者と残る者

2012-10-18 01:01:16 | Weblog
そもそも、上の子が 12にもなって、
もう一人産んでおきたいと強く望んだきっかけは 祖母の葬儀の時だった。

祖母の旅立ちを、母達は 五人姉妹で
かなり賑やかに送り出した。

いつか、私や主人が旅立つ時に
息子一人で送り出させるのは、なんだか切ない気がしたから。

歳の差が どんな感情をもたらすのか
私には知る術もないけれど、血の繋がりを同じ世に感じながら暮らすのだから、心強いだろうと信じたい。

母は、人工呼吸器をつけて
三日目で 血圧が安定し、
解熱剤や血液をサラサラにする薬や
成分輸血等の点滴が増えた。

あぁでもない、こうでもないと
色んな話をしながら、交代で休息すればよいのに 妹と二人でずっと側にいた。
何かができる訳じゃないんだけれど、側にいたかった。
汗をふいたり、手を洗ったり、足をさすったり・・・。
主治医は、いわゆる敗血症の状態で、正直 数時間もたないっていう数値が、三日前から続いていると説明してくれた。
『でも、〇〇さんは命に縁があるのかもしれませんね』と言ってくれたが、相変わらず、まだ 安心はできませんよと釘をさす。

『お姉さんは、休まれた方がいいですよ』と言われたけれど、主治医だって数時間 病院を空けただけで、いつ何を聞いても、直ぐに来てくれる。
それは仕事かもしれないけれど、
『先生、それはお互い様ですよ』と
笑った。 笑えていた。

いい先生に担当してもらえたな。

そう思いながら、緊急入院から五日目、自宅に帰りベッドで横になった。

同じような症状の方が集まる病棟なのだろう、一日のうちには、必ず『B1』へ誰かが運ばれて行く。
目にする度に、胸が締め付けられるようだったが、母は どうやらまだここに残ることにしてくれたようだ。

次の日から、我が親ながらあっぱれの、母の快進撃が はじまった。

二人

2012-10-16 09:02:37 | Weblog
妹が到着するまで、容態はほとんど変わらなかった。
母なりに、待っていてくれたのかもしれない。

病室に入ってくるなり泣き出したらどうしようかと思ったが、予想以上に元気にやって来た。

やはり、触れると、体中に繋がるコードを揺らし、警告音が鳴る。
二人になっても、念じるしかない。

二人。

妹が来た事を知らせる電話の声を聞いた主人は、『全然違うよ。少し落ち着いたんじゃない?』と言った。
確かに、一人と二人では違う。違うよ。 もう心細くはない。念じるパワーも二人分。

叔父や叔母、そして従兄弟達も、来てくれた。70歳を迎えた母の姉は、理由こそ違えど弱視。
『たこはっちゃんになっとると?』と聞いた。人工呼吸器に心電図、点滴、尿管 ありとあらゆるコードが 母の体から伸びる。その様子を例えたのだろう。さすが、海千山千、言うことが違う。叔母は母の耳元で名前を呼び、先に逝くなよ!ね!と言って帰って行った。


人工呼吸器の音は、相変わらず機械的な冷たいリズムを刻む。
だけれどやっぱり、昨夜までとは違う。一人じゃないぶん、安心感が病室にあった。
私は昨夜思いついた母の夢の事を話し、妹は どこかで父も亡くなっていて もしかしたら迎えに来てるのかもしれないねと言った。

血圧が少し上がってきたけれど、
鼻血、吐血、血尿、下血とあらゆるところから出血する。

おとぎ話のような世界に
逃げ込むしかなかった。

でも、声をかけると何となく表情が動く気がする。そういえば、触れても警告音がしない。 設定の限界にちかかった数値が、少し落ち着いてきたからじゃないかな、と看護師さんは言った。『表情が別人ですもんね』と。

この時、ほらね!と思った。
母が、何の抵抗もせずに逝くはずがない。なにくそ!根性で ここまでやってきたはずだ。
先生は、まだ安心はできませんよと言ったが、もう命は奪われないんじゃないかなと思いだした。

安心はできませんよと言ったが、
肺の状態はいいらしい。
誤飲性肺炎ならば・・・と後悔した私に、違うよと伝えてくれているのかな と 都合よく解釈した。


眠れない夜に変わりはなかったけれど、一人で側にいた昨夜とは違う。
妹もいる。 妹がいる。

歳は離れたけど 二人産んどいて良かったなぁ と考えながら、交代で仮眠をとった。

祈り

2012-09-27 07:08:27 | Weblog
眠れない夜。
人工呼吸器の音は、しんとなるはずの病室に 規則的なリズムで鳴り響く。

泣いたり、堪えたり、念じたり。

そう時間をあけずに、点滴のブザーが鳴る。

堪えたり、溢れたり、呼びかけたり。

一人で側にいるというのは、
辛かった。
呼び掛けても返事があるはずもなく
触れれば、『体動を検出しました』と警告音が鳴る。本当に念じる事しか出来ない。

せわしなく動く看護師さんに
『この状況から、元気になったりする可能性ってあるんですか?』と尋ねると、言葉のかけようがないという感じで、そっと首を横にふった。

午前4時。
病棟ロビーがざわついてきた。
嗚咽をもらす若い男性、遺影を選ぶ段とりをしている男性、葬儀社へ電話をかける女性…。

血圧は上がらない。

病室はナースステーションの横にあり、病棟ロビーから近い。聞きたくなくても聞こえてくる。
堪らず、病院の外へ出た。
『B1』と『専用』の案内が点灯し、扉が開いたままのエレベーターを見て、あぁ、霊安室は地下なんだなと 思いながら。


待っても、待っても夜が明けない。
ふと、母は今、何かを感じているのかな?夢を見てるのかな?等と考える。
もしかしたら、目がみえて、きちんと歩けて、兄弟や娘達と ショッピングでも楽しんでる夢を見ているかもしれない。
稲刈りをしたり、泳いだり、トウモロコシ畑でかくれんぼしたり、私が幼い頃は、不自由はあっても元気だった。
その頃の夢を見てるかもしれない。

色んな思いが交錯するボーッとした頭で、目をさますよりそっちの方が幸せかなぁと思いだした。
まさか、夢の中まで盲目という事はないはずだ。目が覚めて暗闇よりも、楽しいかもしれない。

そんな事を考えながら、血圧を測りにきた看護師さんに
『人工呼吸器をつけてても、もしもの場合は気付いてあげれるんですか?』と聞いていた。
例えば心臓が止まってしまっても、
ついているのは呼吸器だ。
気付かずに、無駄に空気を送りこむのか、私には全く分からない。
看護師さんは、『わかりますよ。酸素飽和状態が悪くなりますし、直ぐにわかります』と言った。もう少し説明してくれたけど、覚えてない。
自発呼吸も20%位はされてます と教えてくれた。
そういえば、つけるときに、自発呼吸もありますからと言われた気もする。
『血圧は60ですね』と看護師さんが言った。

私は、何も答えることができず
ただうなずいた。

妹が到着するまで、9時間もある。

怠惰の代償

2012-09-25 23:31:45 | Weblog
母との思い出で、すぐにうかんでくるのがお好み焼きとたこ焼。

定期的に、食べに行っていた。

今なら、『定期的』の意味が分かる。偶数月の15日、いわゆる年金の日だ。母はお好み焼きが大好きだったようで、私達姉妹にも、好きなのを食べていいよと言い、自分も美味しそうに食べた。 覚えてる。


元気な頃は、よく買い物に行っていた。使ってもいい金額を言い渡されて、二人ばらばらに選びに走る。
おやつだったり、靴だったり、洋服だったり。母は、階段の踊り場でオロナミンCを飲みながら待っていた。 覚えてる。

買い物帰りバス停で迷子のマルチーズと出会った。母は、何軒も何軒も近くの家を、『お宅のわんちゃんじゃないですか?』と訊ね歩いた。
結局、おうちは見つからず、うちに連れて帰った。 覚えてる。

初めて自転車を買ってもらった時、自宅までの道程を、そのまま乗って帰った。心配した母は、8つくらいあるバス停ごとにバスから降りて待っていてくれた。
『もうちょいよ。こけんごとね。』
覚えてる。

祖母が老人ホームへ入った時、当時は弱視だったが、足は悪かったし、補聴器もつけていた。同じ立場なら、できそうもないけれど、母は、毎日通っていた。面会表のノートに何日も母の名前だけだった時もある。ポケットにヤクルトとお饅頭を忍ばせコッソリ食べさせていた。 覚えてる。

初めて、お給料を貰った日、
近所のレストランに招待した。
一番高いステーキを食べて欲しかったのに、私が選らんだのより安い、ハンバーグを注文した。美味しいね、美味しいねと食べてくれた。 覚えてる。

ハンバーグといえば、母の作るハンバーグは野菜がタップリと入り、形は丸くて、上にパイナップルとチェリーがのっていた。とんかつソースが合うハンバーグ。 また、食べたい。

記憶をたどれば、きりがない。
こんな時は、いい思い出しかうかばないんだろう。随分と厳しく怒られたものだったけど。

涙は次から次に溢れてくるけど、覚悟をしてくださいと言われるほどの状態、看護師さんは30分措きに病室へ来ていた。わんわん泣く訳にもいかない。溢れたり、止めたり、せわしない。

血圧を上げる薬を点滴で入れていた。これに体が反応できないと、他の治療は出来ないし、そもそも、何の薬にも反応できないのだそうだ。
血圧を測る度に、こちらの心拍数は上がるが、60、50、80、50となかなかうまく上がってこない。

先生は、原因は全く分からないと言ったけど、症状を自分なりに調べると、誤飲性肺炎というのがあった。鼻からの吐瀉物が気管に入ったのか?

だとしたら、元々の原因は
やはり便秘ということになる。

もはや、下からの逃げ道がないと、
上から嘔吐したのだろうから。

側にいた私の管理不足だ。
間違いない。

最近、長時間座っているのが辛くなり、よく横になっていた。
横になっている母を起こしてトイレに座らせる。この作業が、腰痛もちの私には結構辛い。元々、若い頃から下剤を常用していた母は、腸の動きが鈍く薬を飲まないと便意はない。自分一人でできる頃は、毎日下剤を飲んでいた。やはり、娘でも気を使うんだろう、横になる時間がふえてからは、二三日に一度になっていた。『今日は飲んでもいいかな?』と言われて用意する。 なんちゃって介護をし、仕事をし、子育てをし、いつでも寝不足。気にはなったりしたけれど、自分からは飲ませたりしなかった。クタクタだった。
どんなに後悔しても遅かった。

たぶん、二週間は飲んでない。


自分の怠惰のひきかえに、差し出すのは母の命。
あまりにも救いがない。
ごめんね、ごめんねと念じ続けた。

命の行方

2012-09-25 05:08:29 | Weblog
人工呼吸器をつけて、七時間が経った。
午後6時前。
あまりにも信じられない事態に
直面すると、人って何をすればいいのか分からなくなり、つい、いつもの日常に戻ろうとするんだと思う。


旦那にも、息子にも連絡をしていなかったし、私には今にもどうにかなりそうには見えなかった。
人工呼吸器の無機質な音と、汗のにおい…。
息がつまりそうになり、
シャワーを浴びたら直ぐに戻りますと伝えて、家に戻った。

ちょっち待って!!待って待って待って!!

という気分だった。
本当に、本当に訳が分からない。
お昼頃迄って、先生、脅さないでよ!という気分。
大丈夫だったじゃないの!と。
シャワーを浴びる前に、旦那と息子に連絡して、直ぐに帰って来てほしいと伝えた。


病院に戻ると、現実に引き戻される。呼吸器の音が、切ない。母の顔をのぞきこんでゾッとした。

祖母が旅立った時の顔にそっくりだった。

目も見えず、耳も悪く、足は痛いし、私が仕事を初めてからはいつも一人ぼっち、もう早くばあちゃん(祖母)が迎えに来てくれないかなぁと、よく言っていた。『ばあちゃん、遅かったやん』と普段聞かない甘えたような声で寝言を言った事もある。
そんな時は、息子と二人で『気持ちわるー』って笑ったりしていた。
ばあちゃん、まだ、連れていかないでね。と念じる。

『いやいや、ばあちゃんは大丈夫さ!絶対目覚めて、アイスクリーム頂戴って言うって!!』息子がそう言って、私は母の顔を見るのをやめた。

毎日、本当によく手伝ってくれる。
息子なりに不安でたまらなかったのかもしれない。

面会時間を過ぎて、旦那と息子は帰宅した。私は、何の役にもたたないけれど、泊まってそのまま付き添う事にした。


もちこたえているものの、血圧は上がらず、熱も出てきた。
血圧が上がらないことには、何の治療も出来ないらしい。
夜10時頃、『ご家族には連絡とれましたか?妹さんの到着まで、もたないかもしれません。覚悟だけはしていて下さいね』と言って、主治医が帰っていった。

少しして、
あぁ、家族ね、と 妹にしか連絡していない事に気付いて、ちょっと可笑しくなった。
慌てて叔父や叔母に連絡した。
昨日まで、なんとか元気にやってると思っていた兄弟の急変に、やっぱりお互い 話がかみ合わず、とりあえずまたねと訳が分からない挨拶をして電話を切る。
『うちの母がね』と言ってるのに、必ず、『え?誰が?』と聞くから何回も説明してるうちに事態が把握できてきたのか、涙が溢れてきた。

とまらない。とまらない。
人生で何度目かの、眠れない夜。

夏のおわり。

2012-09-24 05:04:21 | Weblog
夏のおわり。

今年は本当に暑い夏だった
初めての夏バテもした

毎日、規則的に過ぎる日常の中
心地よい風がふく季節を待った。

やっと朝晩が心地よく、愛犬との散歩の時間が長くなってきた頃だった


それは、本当に突然訪れた。
院内はまだ暑苦しく、前日の寝不足も手伝って、主治医の言葉を聞き間違えたのかと もう一度聞き直してしまった

だって もうお昼頃迄 もたないかもしれないと聞こえたから。

自宅からそう遠くない病院へ救急車で母を連れていったのは、前日の夜、まだ辺りは暗闇だった。トイレで用を足していた母が鼻から嘔吐したのだ。鼻から吐瀉物が流れ出るのを嘔吐というのか知らないけれど。

あまり具合が悪そうにもなく、母も『もう、病院は嫌よ。』と言っていたけど、数日前、内科へ母の薬を受け取りに行った時、『あんまり長く便秘していると、上から出たり、腸閉塞になったりするからね。気をつけてあげてね』と 雑談混じりに先生が言っていたのを覚えていた私は、自力でどうしようもないんだからと、病院に行った方が良いと判断し 夜間診療してくれる病院を探して受診する事にしたのだ。
何度か入院した事のあるその病院は
事情を知ってか知らずか 『遠慮せずに、救急車を呼んで下さいね』と言ってくれた。実際、起つことも出来ない母を一人、もしくは息子と二人でも、私が連れて行こうとすれば大袈裟でなく一時間近く要してしまう。
本当に、その言葉を有りがたく思い、直ぐに救急車を手配した。

隊員の方が到着して 声をかけてくださるまで、母は自分で返事をしていたのだ。やはり、『行きたくない』と言っていた。

ところが、救急車に乗り込んだとたん 隊員の方達が、慌てて色んな物を母に装着していった。呼び掛けに反応しない。酸素の飽和状態が悪く、血圧がふれないと言う。私は必要以上に大きな声で、『さっきまで、普通に話していたんです!』と何度も言った。
病院へ着いてからも、呼び掛けに反応しない。酷い便秘だと思うんです との説明を聞いていた先生は、私に何度も何かしらの兆候があったと思うんだけど・・と聞いたが、訳が分からないとしか言いようがなかった。

ついさっきまで、普通だったのだから。
少し時間がたつと、私の呼び掛けには反応するようになった。
この間にも色んな検査をしてくれていて、『酷い便秘』だと聞かされていた先生は、何がおこっているのか分からないと首をかしけながら、『お腹も確かにパンパンだけど、白血球の数値が異常だし、気胸してますね』と言ってCTの画像の黒く映る肺の片方を指差した。同じく、『酷い便秘』だと思って連れてきた私は『気胸って脳出血ですか?』とこれまた、何が何だかとんちんかんな質問をした。

肺の空気を抜いて数十分もすると、
楽になったのか、意識もはっきりしてきて血圧も安定。
『今日は、便を出して、とりあえず入院しましょう』となり、私は一人で病院をあとにした。
病院に着いて四時間経っていた。
午前2時。明日は仕事。
気胸は心配するほどでもないと言われ、落ち着きを取り戻し
妹に、『また、入院しちゃったよー。今度は便秘ー』と能天気なメールを送っておいた。

仕事中に、呼び出されて病院へ向かったのはその日の午前中。休憩の時に書類を持って来ます。と伝えておいたが、やはり血圧が低すぎて、今すぐに との事だった。
何が何だか分からない。
到着して数分後、数時間前に母をみてくれた先生は、とても暗い表情で、
眠気と戦う私に『僕も寝てないんだよ』と言った。


異常に高かった白血球が、今度は異常に低すぎて、血圧は50 血液ガスの酸素が57 酸素飽和度は73 とても危険な状態であることを告げられた。

酸素が足りないのか、まるで金魚のように息をする母に人工呼吸器をつけましょうと言われて、あまりの急展開についていけなかった。とりあえず、私はまた『人工呼吸器って人工の呼吸器ですよね?』と、今思えばアホみたいな事を聞いた。だって、映画やドラマでしか見た事がない。動揺する私の肩に看護師さんはずっと手を当ててくれていた。承諾書がないと人工呼吸器はつけられないんですとも言った。
承諾もなにも、母はとても苦しそうで、お願いします、としか言えなかったのだけど。
人工呼吸器をつけて数時間もすると、酸素飽和状態は随分よくなったが、
金魚のような呼吸の仕方はあまり変わらず、人工的な音がプラスされただけだった。

そして、こうなってもまだこの状況をうまくのみ込めない私に、先生は言ったのだ…家族の方を呼んで下さいと。お昼頃迄、もたないかもしれないと。
その時、私はまだ一人、涙は流れ出る場所を忘れたのか、不思議と溢れなかった。
妹に送ったはずの能天気なメールは未送信で残っていて、じゃ、病院にきたことも知らないんだよなーと思いながら、まず、妹に電話した。

私は、何か訳が分かんないとしか言えず、妹は、じゃ明日朝一でくるからと泣きじゃくる。いや、明日じゃだめなんだよ。だってお昼だよ。でもどうやったって半日はかかるし、午前中なのにもうこっちへ来る列車がないと言う。二人ともパニックのまんま電話を切った。

なんと!

2012-05-06 15:26:34 | Weblog
もう、蝉がないています・・