先生が、『お昼頃までは・・・』と言ってから六日目、母は血液検査で、信じられないくらいいい結果をだした。
さすがの主治医も、ここまで回復する方はあまりいませんよ、もう大丈夫だと思いますと、母の手を握り 笑顔で声をかけた。
先生が去った後、妹と二人 『聞こえたら、手、握って!』と声をかけると軽くではあったが、握りかえす。
どんなにこの瞬間を待ち望んだか!
それより、おはようと声をかけると
返事をしようとする。
二人で、歓喜の声をあげた。
午後には、呼吸器の専門家だという先生が訪れ、人工呼吸器を外す準備に入りましょうと言って、自発呼吸を促すように、設定値を変えていった。
訳が分からず劇的に悪くなった症状は、これまた信じられないくらいの早さで回復していった。
そこまでを見届けて、妹は帰っていった。列車を見送った後、『どうか、お母ちゃんをよろしくお願いします。』と他人行儀なメールが届く。
側を離れたことのない私には、到底 計り知れない思いがあるんだろう、『まかせて!』と返信しておいた。
次の日、血圧を上げる点滴が外れ、
次の日、自発呼吸を100%にし
その日のうちに、人工呼吸器から解放され
次の日、流動食が始まり
どんどん、母に繋がっていたあらゆるものが減っていく。
何と、第一声は 『アイスクリームが食べたい。晩御飯はまだかな?』だった。息子が予想した通り、アイスクリームが食べたいと言った。
母だ。母が帰ってきた。
人工呼吸器の機械的な音も、妹もいない病室は静かすぎて、寂しさを感じたが、やはり意識がある母は それだけで存在感があった。
意思の疎通・・・やはり介護のカギだと思う。意識がない、もしくは、お互いの常識が噛み合わない認知症等の症状がある家族をもつ方が、どれ程辛いだろうか、と考えた。
介護は、人と人だ。分かっていても難しいのだから、意思の疎通なくして、感情のコントロールは難しい。
意識が戻った母を見ながら、思いはあらゆる所へとんでゆく。
12日間何も口にしてない母は、例えは悪いが、
頭蓋骨ってこんな形ってくらい 痩せこけてしまっていた。
目が完全に見えなくなってからは
食べる事が楽しみだった。
あれが食べたい、これが食べたいと言えるまでは、まだまだ時間がかかるだろうけれど、きっとまた、そんな日が来るだろうと確信している。
意識が戻っても、目が覚めても暗闇の世界へ母は還ってきてくれた。
もう少し、側にいてほしい。
なんちゃって介護から、本格的な介護をするため退職し、準備を整える。
10月23日、救急車で搬送してから51日目、退院許可がおりた。
正直、恐い。
全くの寝たきり、オムツを使用するようになった母を、本当に自宅で介護してあげれるのか。
食事、床擦れ、稼働域の確保、挙げればきりがないほど不安材料を思いつく。
でも、無理とか無理じゃないとかの問題以前に、然るべき施設へ という考えは全くない。
やるしかないのだ。
不安とぶつかっても、母譲りのなにくそ!根性でのりきってやる。
そんな思いを巡らせながら、準備をしてる。
緊急入院してから、不安で不安で堪らなかった。家を空け、娘が情緒不安定になったり、自身の持病が悪化したり、勿論、気分が酷く落ち込んで何も手につかなかったり。
だけどね、これは 私だけに降りかかった試練ではない。
きっとどこの家庭でも一度や二度ならず訪れる試練なのだ。
親がいなければ、子は存在しないのだから。
いつの日か、本当に母を送り出す時
胸を張って、『ありがとう』と伝えたい。 去ってしまいそうな母を取り戻した時、心からそう思った。
とっても長くなってしまった記事を読んで頂いてありがとうございます。
どこかに、誰かに訴えないと、潰れそうでした。眠れない夜や、回復してから思い出しながら記したもので、内容もメチャクチャです。
さて、自分を奮い起たせて、頑張ります。
どんどん寒くなってきましたね。
どうか、ご自愛くださいね。