●元正天皇の日本紀観●
元正が天皇だった養老五年(721)一月、長屋王が右大臣となります。この直後に皇太子の首(おびと)皇子(おびとのみこ)の教育係を選任しています。選任のタイミングと構成メンバーが、日本書紀の歴史改ざんや記事書きかえに関連していることを示唆しています。メンバーのプロフィルはこのあとくわしく確認しますが、そのまえに書紀完成当時の朝廷の空気を再現します。
すでにみたように、前年の養老四年に舎人親王によって日本書紀が朝廷におさめられます。その時点の書紀は不比等がデザインした歴史観がえがかれています。改ざんされた歴史です。その改ざんされた歴史を修正するのが、長屋王による書紀の記事書きかえです。ここでは歴史改ざんと記事の書きかえを、この意味でつかいわけています。
それはともかく、養老四年の日本書紀完成と、不比等の死以前から、官製史書にかんして朝廷内にさまざまな憶測を呼んでいたと思われます。書紀の歴史の改ざん、ねつ造です。それを不比等が主導した、不比等に舎人親王が全面的に協力した、というものです。
養老三年(719)に元正がだした詔が、これを裏づけます。
日本書紀にまつわるうわさは元正天皇の耳にもはいっていたはずです。日本書紀が完成する前年の養老三年十月、元正天皇が詔をだして、舎人親王らに贈封しています。一見、元正が舎人親王の労をねぎらった内容です。これまでの研究者は、そうとっているようです。
しかし、じっさいは舎人にとって耳のいたいものでした。こうとるほうが、自然です。ひじょうにながい詔につぎの文言がはいっています。
[続日本紀]養老三年(719)十月の詔
「…略…遠祖の正典を稽(かんが)へ、列代の皇綱(くわ
うかう)を考ふるに、洪緒(こうしょ)を承纂するは、此
れ皇太子なり。然れども、年歯猶ほ稚(をさな)し。未だ
政道に閑(な)れず。但し以(おも)ふに、鳳暦を握りて
極に登り、竜図を御めて以て機に臨む者は、猶ほ輔佐の才
を資り、乃ち太平を致す。必ず翼賛の功に由り、始めて安
かなる運あり。況や舍人、新田部親王に及び、百世の松桂、
本と枝の昭穆(しょうぼく)に合ひて、万雉の城石(ばん
ちのせいせき)、維盤、国家に重し。理、須く清直を吐納し、
能く洪胤を輔け、仁義を資より扶けて、信に幼齡を翼く。
然るに則ち太平の治、期すべし。隆泰の運、応に致すべし。
慎まざるべきや。今、二親王は宗室の年長なり。朕れ在り
て既に重し。実に褒賞を加へ、深く須く旌異すべし。然る
に崇徳の道、既に旧貫にあり。貴親の理、豈に今なきか。
…略…ああ欽(つつし)めや。以て朕が意に副へ。凡そこ
こに在る卿ら、並びて宜しく聞き知るべし。…略…」
詔の内容です。
「朝廷の大事を引き継ぐのは皇太子(首皇子、聖武天皇)である。皇太子はまだわかく、政治になれていない。国をおさめるに、輔佐するものがささえて国の太平を実現せよ。皇太子につかえてはじめて自分にやすらかな運がひらけるのだ。とりわけ、舎人親王(とねりしんのう)、新田部親王(にったべしんのう)においては、百年をへた松や桂の本と枝のごとくに君臣の秩序をただすことがひじょうに重要であり、国にとって欠かせないものである。理にかなうようにものごとの算段をし、皇太子を支えよ。これによって、天下の太平が期待できるのだ。興隆、安泰へとむかわなければならない。そうであるのに、これらに十分な配慮をしないでいることができようか。親王二人は皇室の年長者である。私にとっても大事な存在である。そこで特別な褒賞をしようと思う。それゆえ、徳を尊ぶこと、昔と同様であるべきである。それにしても、親を貴ぶことはもはやなくなってしまったのだろうか。…略…ああ先祖を敬うように、私の思いにそうようにせよ。ここにいる諸卿たちよ、お前たちも同様である。心してききおけ」
舎人と新田部の両親王は天武天皇の皇子で、元正朝では重鎮といっていい存在でした。その二人に、元正が褒賞します。褒賞するにしては、前口上がながすぎます。褒賞はだれもが納得できるからするものです。それなのに、褒賞の理由を延々としています。しかしながら、ここにある褒賞の理由であるかのような文言は、褒賞とは直接に関係がありません。
これを何の偏見もなく読めば、政治になれていない皇太子を輔佐するのが、重臣のつとめだといっています。これほど当たり前のことを、元正はどうして詔までだして、舎人と新田部にいいきかせたのか。
この詔はどうみても、単純に舎人を評価して褒賞したという内容ではありません。評価よりも注文です。やるべきことをやってこなかったから、それをやれ、といっています。褒賞の「褒」は、すでにある行いを褒めることです。これからの期待にたいしてあたえるものではありません。元正のいっていることは、これからやるべきことをあげて取りくめといっているのです。これまでやってこないことへの不満です。
それなら、どうして褒賞などしたのか。養老三年(七一九)の段階で、日本書紀が完成しそうだという雰囲気になっていたのです。じっさい、日本書紀は翌年に元正に奏上されました。そうしたなか、日本書紀は本来の歴史を書きかえているという評判がたっていました。
舎人を叱責する詔の発令、日本書紀の完成、直後の皇太子の教育係の選任、これらのタイミング、時間的な流れを考えると、養老三年にだされた元正の詔は、日本書紀に関係あると考えざるをえません。元正は将来、皇太子の教科書となる日本書紀の内容に不安をもっていたのです。それで、ぎりぎりになって書紀の編集姿勢をあらためさせようとしたのです。ストレートに叱責したのでは角がたちます。それで、褒賞にからめて釘をさしたのです。
天皇が詔でここまで叱責めいたことをいうのですから、よくよくのことだったはずです。これにおどろいた舎人が書紀の中身について危機感をもったのかもしれません。このころは舎人のうしろ盾の不比等の体調も万全でなかったと思われます。日本書紀が不比等の亡くなる直前に奏上されたうらには、このような事情があったのです。不比等がいなければ、舎人が撰上する書紀はみとめられずに、朝廷からつきかえれたかもしれません。
舎人と新田部親王が元正と友好的でなかったことを裏づけるのが、長屋王の変です。この事件で、舎人と新田部は、先頭にたって長屋王を糾問しています。明確にアンチ元正ー長屋王です。(つづく)
●元正天皇の歴史観と不安●
藤原不比等が創作した歴史ストーリーが日本書紀に組みこまれます。これをあばこうとしたのが万葉史観です。長屋王が修正しようとした歴史改ざんとは何か。その粗筋をみます。
皇統の正統性はいうまでもなく倭王権(大和朝廷)にあります。しかし、天智天皇は倭王権の系譜にありません。天智の権力基盤は筑紫です。筑紫の天智が倭王権の系譜にあるかのように皇統をくみかえたのです。
その皇統の組みかえの根幹が万世一系です。日本書紀によれば、神武が筑紫から東征して倭を平定します。それ以来、一時的には宮殿が倭をはなれることもありますが、原則的には神武の血をひく王が倭に宮殿をおきつづけます。この系譜にのらないかぎり、倭王権の正式な継承者ではないのです。
しかし、天武朝で歴史書編纂がスタートした時点の資料には、皇統の万世一系などなかったと考えられます。皇統の万世一系はフィクションです。これこそが不比等がつくりあげた歴史なのです。歴史の改ざんです。
それならどうして、不比等は皇統の万世一系などを創りだそうとしたのか。理由はあきらかです。筑紫王権の天智の血統を万世一系の系譜にくみこむことによって、天智を倭王権の正統なる後継者に仕立てあげたのです。万世一系の皇統にはいっているということは、それがすなわち正統なる血統の証というわけです。
不比等の歴史改ざんを強くにおわせるのが、日本書紀編集の最高責任者である舎人親王(とねりしんのう)と藤原氏との親密な関係です。
舎人親王は藤原氏とひじょうに近い関係にありました。舎人の子どもの大炊王(おおいおう)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう)となっています。その大炊王は即位する前、不比等亡きあとの藤原氏の中心人物、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の子の真従(まより)の妻をめとっているのです。真従が早世したため、仲麻呂が真従の妻だった粟田 諸姉(あわたのもろね)と大炊王とを結婚させ、私邸である田村第にすまわせていたのです。
まるで実子でもあるかのような待遇です。大炊が天皇になれたのも、仲麻呂のバックアップがあったからです。大炊の世話をした仲麻呂は藤原氏の本流です。父親の武智麻呂(むちまろ)は不比等の長男です。藤原氏が舎人親王の子どもにたいしてこれほど手あつくもてなした理由、それこそが歴史改ざんだったと思われます。舎人親王は持統と不比等、持統が亡くなってからは不比等の意向にそって書紀の編集、歴史改ざんに手をそめたのです。当時の朝廷では、それはおそらく公然の秘密でした。
持統天皇以降、藤原不比等と良好な関係をたもっていた朝廷は、元正天皇になると関係が完全にくずれます。不比等が亡くなって、長屋王、橘諸兄が藤原氏を牽制しますが、藤原氏の力はあなどれません。元正天皇は藤原氏との対応に腐心します。
元正天皇は万葉集に七首の歌をのこしています。そのうちの五首は、長屋王と橘諸兄とのやりとりです。長屋王とのあいだが一首、諸兄とのあいだで四首です。七首中五首が反藤原を旗幟鮮明にしている橘諸兄と長屋王に関連し、そのすべてが皇位を聖武に譲ったあと、太上天皇として詠っています。権力を手ばなした元正の不安が詠わせたかのようです。
念のために、万葉集にのる元正歌のすべてを確認します。
天皇、酒を節度の卿等に賜へる御歌一首并に短歌
○食國の 遠の朝廷に 汝等が かく罷りなば 平らけく 吾れ
は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕れ うづの御手
もち 掻き撫でぞ 労たまふ うちなでぞ 労たまふ 還り
来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は (巻六 973)
・をすくにのとほのみかどにいましらが かくまかりなばた
ひらけく われはあそばむたむだきて われはいまさむ
すめらわれ うづのみてもちかきなでぞねぎたまふ うち
なでぞねぎたまふ かへりこむひあひのまむさけぞこの
とよみきは
「この国の、国中(くになか)から遠くはなれた都
に、汝らが出かけていって領土を平和にするなら、
わたしは楽しく遊ぶこともできよう。何もしない
でいることもできるだろう。天皇であるわたしは
高貴なる手をもって掻きなでるようにねぎらうだ
ろう、うちなでるようにねぎらうだろう。とその
とき、汝らが遠くはなれた都から帰りくる日に飲
む酒なのだ、この神酒は」
反歌一首
○ますらをの行くとふ道ぞ凡ろかに思ひて行くな丈夫の伴(巻六 974)
・ますらをのゆくとふみちぞおほろかに おもひてゆくな
ますらをのとも
「この道は立派なますらおだけが行く道だ。決し
ておろそかに思ってくれるな、ますらおのもの
たちよ」
右の御歌は、或は云はく、太上天皇の御製なりといへり。
冬十一月、左大辯葛城王(かつらぎおう)等に、姓橘氏
を賜ひし時、御製の歌一首
○橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹(巻六 1009)
・たちばなはみさへはなさへそのはさへ えだにしもふれど
いやとこはのき
「橘は、実も、花も、葉も、枝さえも、霜の寒さ
にも負けずに、青々としていることだ」
右は、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐為王
(さいおう)等、皇族の高名を辞して外家の橘の姓を
賜ふこと已に訖りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后
宮にましまして、肆宴きこしめし、即ち橘を賀く歌を
作り給ひ、并た御酒を宿祢等に賜ひき。或は云はく、
此の歌一首は、太上天皇の御歌なり。但、天皇皇后の
御歌各有一首ありといへれば、其の歌遺落して未だ探り
求むること得ず。今案内を検するに、八年十一月九日、
葛城王等、橘宿祢の姓を願ひて上表す。十七日を以ちて、
表の乞に依りて、橘宿祢を賜ひきといへり。
太上天皇御製歌一首
○はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は萬代までに(巻八 1637)
・はだすすきおばなさかふきくろきもち つくれるむろは
よろづよまでに
「薄の尾花を逆さに葺いて、樹皮のついたまま
の黒木でつくった家であるけれど、それでも万
代までつづくことだろう」
…1638番歌略…
右聞く、左大臣長屋王の佐保(さほ)宅に御在(いま)
して肆宴(しえん)する御製なり。
御製歌一首 和(こた)ふ
○玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き滿てて繼ぎて通はむ(巻一八 4057)
・たましかずきみがくいていふほりえには たましきみてて
つぎてかよはむ
「玉を敷かなかったことで、あなたが悔いて敷い
ておけばよかったという、その堀江が玉で満ち
るようになるまで、難波に通いつづけましょう」
右二首、件の歌は御船が江を泝りて遊宴する日に左大臣
の奏す、并びに御製
御製歌一首
○たちばなの遠のたちばな彌つ代にも吾れは忘れじこのたちばなを(巻一八 4058)
・たちばなのとおのたちばなやつよにも われはわすれじ
このたちばなを
「橘がはるか遠くの代になっても、実り豊かでいる
ことを、わたしは忘れない」
…4059ー4060番歌略…
右件の歌は、左大臣橘卿宅に在して肆宴する時の御製と奏す歌なり
973ー974番歌はその前後の題詞から、天平四年(731)につくられたことが確認できます。このときの天皇は聖武です。題詞どおりなら聖武作、左注にしたがえば元正作ということになります。いずれにしろ、特定の人物へ向けて詠ったものではありません。
1009番歌は、題詞から葛城王が臣籍降下で橘氏を賜ったときに、元正が詠ったことがわかります。葛(かつら)城(ぎ)王は、橘諸兄です。
1637ー1638番歌は、元正太上天皇が、長屋王宅を訪ねたときに詠っています。長屋王の邸宅新築をいわって、訪問したようです。
4057ー4058番歌は、元正が難波宮を訪れたときに詠まれた七首のうちの、元正作の二首です。歌群の七首は同時に詠われたのではないようですが、すくなくとも元正太上天皇が難波宮にいるときにつくられたことがわかります。その難波行きには、左大臣橘宿祢がしたがっていました。左大臣は橘諸兄です。歌群の太上天皇の二首目は、直接的には橘諸兄との関連性を確認できませんが、諸兄が同道の難波で詠っているのですから、歌にある橘が諸兄とまったく関係ないとはいえないでしょう。
これをみるかぎり、題詞が聖武作とするものを左注が元正作だとする973ー974番歌以外はすべて反藤原のリーダー、長屋王、橘諸兄と、元正とのあいだで交わした歌だったことが確定します。
譲位して権力を手ばなした元正がどれほど反藤原の長屋王と橘諸兄を頼りにしていたかが、うかがえます。(つづく)
●持統と不比等の執念●
書紀によって歴史が改ざんされていることは、万葉史観をとおして確認しますが、書紀の完成までを大ざっぱにたどります。
官製の歴史書の編集を発案したのは天武天皇です。日本書紀の記事です。
[日本書紀]天武紀天武十年(681)三月条
丙戌、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子、忍壁皇子、広
瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小
錦中忌部連首、小錦下阿曇連稲敷、難波連大形、大山上中
臣連大嶋、大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古諸事
を記し定めしむ。大嶋、子首、親ら筆を執りて以て録す。
天武十年三月、天武が天智天皇の皇子である川島皇子らに帝紀(ていき)、上古諸事(じょうこしょじ)を編集させたという記事です。ここにある帝紀、上古諸事が後の古事記、日本書紀に引き継がれたと考えられます。
編集メンバーの一人として名前があがる三野王(みののおおきみ)は、万葉史観にかかわったと考えられる橘諸兄、佐為王の父親です。
これだけみると、日本書紀は天武が主導して完成したようにみえますが、歴史書の完成は天武の発案から古事記が約三十年後、書紀になると四十年後です。天武の意向よりも、あとをついだ持統、さらには不比等の都合が大きく反映しているといえそうです。持統が歴史書に関心をもっていたことをうかがわせる記事が、同じ書紀にでてきます。
[日本書紀]持統紀持統五年(691)八月条
八月己亥朔辛亥、十八氏大三輪、雀部、石上、藤原、石
川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、
阿倍、佐伯、釆女、穂積、安曇に詔して、其の祖等の墓記
を上進せしむ。
これによると、持統は持統五年八月、歴史ある氏族の家史を朝廷に提出させています。ここの「墓記」はそれぞれの氏族の歴史書とされます。これら家史の情報は書紀にとりこまれたと考えられており、持統が歴史書編集にかかわったことはまちがいないようです。
それを裏づけるのが、万葉集が書紀の歴史改ざんの修正記事へと読者を誘導する万葉史観の案内です。この案内は、持統の父親の天智天皇と、天智の母親とされる斉明天皇に関連して集中的にでてきます。この二人にからむ歴史が書きかえられていることをうかがわせます。
もちろん、持統じしんが先頭にたって書紀編集をすすめたわけではありません。直接に書紀の編集をひっぱったのは藤原不比等と考えられます。不比等は天武朝ではほとんど活躍していません。天武に干されていた印象です。それが持統朝になると、にわかに元気になります。
持統が不比等を重用したのには、大きく二つの理由が考えられます。一つは、持統の後継者選びです。もう一つが天智の過去です。忌まわしい過去をぬぐいさるために、歴史の改ざんをすることです。
一つ目のポスト持統問題です。天武の後継者候補は草壁皇子と大津皇子、それに長屋王の父である高市皇子が有力でした。長男の高市は母の出自が低いというハンディがありました。大津はこの時点で母親が亡くなっていましたが、母親の太田皇女は持統と同母の天智の娘です。草壁にとっては、最大のライバルです。持統はこの大津を天武が亡くなるとただちに死においやります。
持統の願いどおり、草壁は持統朝で皇太子にたてられますが、草壁は即位する前に亡くなってしまいます。
持統の皇子は一人だけです。そこで、草壁の一人息子の軽(かる)皇子を即位させようとします。しかし、草壁の即位なら納得せざるをえない天武の皇子たちも、血統が自分たちよりも天武から遠い軽皇子の即位を受けいれるかどうか難しいところです。そこで、持統は不比等と手をくんだのです。
不比等が書紀に登場する最初は持統朝です。持統三年(689)、判事に任命されたという記事です。この年、草壁が亡くなりますが、不比等は軽皇子を即位させるために手のこんだ細工をしています。
不比等がどのように軽皇子を即位させたかは、続日本紀にはありませんが、東大寺献物帳に痕跡がのこっています。東大寺に献上された物品を記録したものです。そのなかに、草壁皇子の黒(くろ)作(つくり)懸(かけ)佩(はき)の刀(たち)(くろつくりかけはきのたち)がでてきます。その記事です。
[東大寺献物帳]
黒作懸佩刀一口 刃長一尺一寸九分 鋒者偏刃 木把 …以下略
右 日並皇子常所佩持賜太政大
臣 大行天皇即位之時便献
大行天皇崩時亦賜太政大臣薨
日更献 後太上天皇
内容はつぎのとおりです。
日並(草壁)は(死に臨んで、息子の軽皇子の将来を託す思いで)、身につけていた刀を太政大臣(不比等)に授けます。(不比等はその刀を)大行天皇(軽皇子、文武天皇)が即位するときに献じ、さらに大行天皇が亡くなるときに太政大臣へもどされます。太政大臣が薨じた日に後の太上天皇(元明天皇)に献上されます。
この黒作懸佩刀は、最終的には東大寺におさめられたのですが、あたかも黒作懸佩刀が三種の神器でもあるかのように、皇位継承のシンボルになっています。しかも、シンボルの媒(なかだち)をするのが不比等です。ひじょうに作為的な手順をふんでいますが、これにより、不比等が持統の意向をうけて軽皇子を即位させたことがうかがえます。
不比等は文武を皮切りに元明、元正をつぎつぎと即位させます。そのいっぽうで日本書紀の歴史ストーリーをデザインしていきます。狙いは、天智と中臣鎌足の系図の創作です。不比等は養老四年(720)に完成した書紀で天智と鎌足に都合のいいように歴史を改ざんしたのです。(つづき)
●歴史改ざんに駆り立てる過去●
前回までにみたように、長屋王は当時、長屋親王と称されていたのですから、続日本紀は長屋親王と表記しなければなりません。そうなっていないのは、肩書き表記をおとしめたのです。理由はいうまでもなく、聖武天皇の母親、宮子の称号問題です。
宮子にからむ肩書き問題は、不比等と県犬養 橘 三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の娘の光明子(こうみょうし)の皇后称号で蒸しかえされる恐れがありました。
神亀四年(727)九月に、光明子が聖武天皇の皇子を生みます。藤原氏にとっては待望の男の子です。ただちに皇太子にたてられます。しかし、皇太子は翌神亀五年九月に亡くなります。さらに悪いことに、これに前後して聖武夫人の県犬養 広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積皇子(あさかのみこ)を生んだのです。聖武の男子は安積皇子だけということになります。このままでいけば、安積が皇太子にたてられることになりかねません。藤原氏としては、これだけはうけいれられません。
藤原氏にとって不幸中の幸いだったのは、光明子に阿倍皇女(あべのひめみこ)が生まれていたことです。藤原氏は阿倍を即位させることをはかります。皇子の安積をさしおいて阿倍を即位させるために、光明子を皇后にしようというわけです。これが実現したのが天平一年(七二九)八月です。長屋王が自殺においこまれてからわずかに半年後のことです。長屋王をざん言で強引に死なせたのは、こうした事情があったのです。もし、長屋王が生きていたら、臣下からの妃は皇后になれない、と反対するのは目にみえています。
藤原氏は正史の続日本紀で、親王だった長屋を長屋王と一ランク下に表記します。さらにじっさいは太政大臣までのぼりつめていたのに、左大臣どまりにした可能性もあります。そのいっぽう、藤原氏出身の光明子を皇后と表記させて後世にのこします。宮子の称号問題の敵をとったのです。
◇不比等創作の歴史
ながながと長屋王の経歴をみましたが、このなかで画期となるのが養老五年(七二一)です。藤原不比等の死によって、長屋王は右大臣になります。一月五日のことです。一月二十三日に皇太子の首(おびと)皇子の教育係を選任しています。これはたんに皇太子の教育係を選んだのではありません。元正天皇と長屋王にとっては明確な狙いがありました。
不比等によって改ざんされた日本書紀の修正です。(つづき)
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Ⅰ 長屋王の敗北
2012-04-20 | 3 養老年間の元正朝 いずれにしろ、万葉集の編者が長屋王に同情しているのはあきらかです。世間も長屋王に同情的です。日本霊異記に、長屋王の骨がもちこまれた土佐で多くの人々が亡くなった記事がでてきますが、これは長屋王の祟りを暗示しています。この祟りはほんらい藤原氏へむけられるべきものです。霊異記が藤原氏に配慮したのでしょう。じっさい藤原氏は長屋王の祟りにおびえる事態をむかえます。
長屋王が亡くなって八年後の天平九年(739)に流行した天然痘で、権勢をほしいままにした不比等の息子四兄弟がすべて亡くなります。平城京の貴公子が怨霊となってたたったのです。
しかし、事件当時の当事者はそんなことまで気がまわりません。藤原氏とともに長屋王殺害にうごいたと考えられる聖武天皇は、王への同情など微塵もありません。そのぎゃくです。この事件で、聖武は長屋王にからんで勅をだしています。この内容が尋常でありません。これ以上ないくらい罵倒しています。恨み骨髄に徹す、です。自分の母親の宮子の称号問題がゆるせなかったのでしょう。
[続日本紀]巻十天平一年(729)二月十日条
二月丙子、(天皇が)勅して曰く、
「左大臣正二位長屋王、忍戻昏凶にして途(みち)に触れ
て則ち著(あらは)る。慝(とく)を尽くして姦を窮む。
頓(とみ)に疎網(そまう)に陥り、姦党(かんたう)を
苅り夷(たひら)ぐ。賊惡を除滅す。宜く国司は衆あらし
むること莫かれ」
難しい言葉がつづきますが、内容はつぎのようなものです。
「長屋王は残忍邪悪にして、折に触れてあらわれる。人知れず悪事を尽くし、邪なる悪行をきわめる。それがにわかに法の網にかかった。悪党をすっかり平らげて、悪しき賊は滅ぼしのぞくことだ。国司は悪党どもに徒党をくませるようなことがあってはならない」
主旨は、長屋王に連なる人々が反攻できないように事前に手をうっておけ、ということです。
当時、元正ー長屋王と、聖武ー藤原氏との間で暗闘が繰りひろげられていたのです。長屋王の変では、長屋王の妻と子どもも死にますが、死ぬのは元正の妹の吉備内親王とその子どもたちです。藤原不比等の娘も長屋王にとついでいますが、娘とその子どもは死罪をまぬがれているのです。露骨に差別しています。聖武と藤原氏が長屋王だけでなく、元正天皇をきらっていたことのあらわれです。元正はこのあとも太上天皇としていつづけますが、長屋王亡きあと元正は、反藤原の橘諸兄(たちばなのもろえ)を頼りにするようになります。
続日本紀は日本書紀につづく勅撰の歴史書です。日本書紀よりははるかに客観的に編集されているようですが、すべてがそうだとはかぎりません。長屋王にたいしては、正当な評価をしていません。その典型が、長屋王の肩書き表記です。続紀は長屋王と表記していますが、すでに指摘しているように、これがおかしい。
長屋王は天皇の孫です。だから皇子(親王)とならずに王となります。系図にあるとおりです。しかし、長屋王にかんしては正しい表記とはいえません。
長屋王は生前、親王と称されていたのです。親王は皇子と同じです。天皇の子どもにつくものです。
どうして長屋王が親王と呼ばれていたとわかるのかというと、すでにふれたように、平城京の長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡がでているからです。同時代の木簡は資料としては信憑性が高いとされています。文献的にも、長屋王の死をぼろくそに書いた日本霊異記が明確に長屋親王と表記しています。すでにみたとおりです。
系図をみるかぎり「王」表記でいいのに、どうして親王と称されたのか。長屋王に親王がついたのは、皇位継承権に関係があるようです。
この時代は女性天皇がつづきます。持統(じとう)から称徳天皇(しょうとくてんのう)まで八代の天皇のうち男性は三人だけです。そのうち淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は持統系ではありません。この時期、皇位の正統性は持統ー草壁皇子の系列にあったとされます。この流れでいえば、正当な皇位継承者として即位したのは文武と聖武しかいないことになります。しかも、元明朝から元正朝まで、聖武へつなぐ持統直系の有力な男性の皇位継承者がいません。それで、元正から聖武(首皇子=おびとのみこ)へつなぐ間に、首皇子に万が一のことがあった場合にそなえて、長屋王の系統に皇位継承権を認めたと考えられます。
これを裏づける記事です。
[続日本紀]霊亀一年(715)二月
丁丑、勅して三品吉備内親王の男女を以て皆な皇孫の例に入る。
霊亀一年(715)二月二十五日のことです。元明天皇は、自分の娘である吉備内親王の子どもは男女を問わずすべて皇孫にいれるという勅をだします。吉備内親王の夫は長屋王ですから、吉備内親王の子どもは天武天皇からみれば曾孫、元明天皇からすれば孫ということになります。本来なら「王」となるところですが、皇孫にはいるとなると親王、内親王と同等のあつかいとなります。吉備内親王の子ども、つまりは長屋王の子どもたちは皇位継承権をあたえられたのです。歴史的にみても、破格の待遇です。
霊亀一年は元明が娘の元正に譲位した年です。譲位は九月、その直前の勅です。長屋王は吉備内親王の婿養子的な存在だったわけで、妻の姉である元正が即位するタイミングで事実上の親王となった、こう考えていいようです。
長屋王一族は天皇家と同等だったのです。そうしてみると、長屋王の変で、長屋王の子どもたちへの対応が異なった理由がほのみえます。不比等の娘とのあいだにできた子どもたちは死なないですんだのに、吉備内親王の子どもが死においこまれた理由です。吉備内親王の嫡子膳(かしわで)王は、聖武に次ぐ皇位継承者だったのです。長屋王の変は、長屋王そのものよりも、皇位継承権のある吉備内親王の子どもすべてを抹殺するのが目的だったのです。(つづく)
元正が天皇だった養老五年(721)一月、長屋王が右大臣となります。この直後に皇太子の首(おびと)皇子(おびとのみこ)の教育係を選任しています。選任のタイミングと構成メンバーが、日本書紀の歴史改ざんや記事書きかえに関連していることを示唆しています。メンバーのプロフィルはこのあとくわしく確認しますが、そのまえに書紀完成当時の朝廷の空気を再現します。
すでにみたように、前年の養老四年に舎人親王によって日本書紀が朝廷におさめられます。その時点の書紀は不比等がデザインした歴史観がえがかれています。改ざんされた歴史です。その改ざんされた歴史を修正するのが、長屋王による書紀の記事書きかえです。ここでは歴史改ざんと記事の書きかえを、この意味でつかいわけています。
それはともかく、養老四年の日本書紀完成と、不比等の死以前から、官製史書にかんして朝廷内にさまざまな憶測を呼んでいたと思われます。書紀の歴史の改ざん、ねつ造です。それを不比等が主導した、不比等に舎人親王が全面的に協力した、というものです。
養老三年(719)に元正がだした詔が、これを裏づけます。
日本書紀にまつわるうわさは元正天皇の耳にもはいっていたはずです。日本書紀が完成する前年の養老三年十月、元正天皇が詔をだして、舎人親王らに贈封しています。一見、元正が舎人親王の労をねぎらった内容です。これまでの研究者は、そうとっているようです。
しかし、じっさいは舎人にとって耳のいたいものでした。こうとるほうが、自然です。ひじょうにながい詔につぎの文言がはいっています。
[続日本紀]養老三年(719)十月の詔
「…略…遠祖の正典を稽(かんが)へ、列代の皇綱(くわ
うかう)を考ふるに、洪緒(こうしょ)を承纂するは、此
れ皇太子なり。然れども、年歯猶ほ稚(をさな)し。未だ
政道に閑(な)れず。但し以(おも)ふに、鳳暦を握りて
極に登り、竜図を御めて以て機に臨む者は、猶ほ輔佐の才
を資り、乃ち太平を致す。必ず翼賛の功に由り、始めて安
かなる運あり。況や舍人、新田部親王に及び、百世の松桂、
本と枝の昭穆(しょうぼく)に合ひて、万雉の城石(ばん
ちのせいせき)、維盤、国家に重し。理、須く清直を吐納し、
能く洪胤を輔け、仁義を資より扶けて、信に幼齡を翼く。
然るに則ち太平の治、期すべし。隆泰の運、応に致すべし。
慎まざるべきや。今、二親王は宗室の年長なり。朕れ在り
て既に重し。実に褒賞を加へ、深く須く旌異すべし。然る
に崇徳の道、既に旧貫にあり。貴親の理、豈に今なきか。
…略…ああ欽(つつし)めや。以て朕が意に副へ。凡そこ
こに在る卿ら、並びて宜しく聞き知るべし。…略…」
詔の内容です。
「朝廷の大事を引き継ぐのは皇太子(首皇子、聖武天皇)である。皇太子はまだわかく、政治になれていない。国をおさめるに、輔佐するものがささえて国の太平を実現せよ。皇太子につかえてはじめて自分にやすらかな運がひらけるのだ。とりわけ、舎人親王(とねりしんのう)、新田部親王(にったべしんのう)においては、百年をへた松や桂の本と枝のごとくに君臣の秩序をただすことがひじょうに重要であり、国にとって欠かせないものである。理にかなうようにものごとの算段をし、皇太子を支えよ。これによって、天下の太平が期待できるのだ。興隆、安泰へとむかわなければならない。そうであるのに、これらに十分な配慮をしないでいることができようか。親王二人は皇室の年長者である。私にとっても大事な存在である。そこで特別な褒賞をしようと思う。それゆえ、徳を尊ぶこと、昔と同様であるべきである。それにしても、親を貴ぶことはもはやなくなってしまったのだろうか。…略…ああ先祖を敬うように、私の思いにそうようにせよ。ここにいる諸卿たちよ、お前たちも同様である。心してききおけ」
舎人と新田部の両親王は天武天皇の皇子で、元正朝では重鎮といっていい存在でした。その二人に、元正が褒賞します。褒賞するにしては、前口上がながすぎます。褒賞はだれもが納得できるからするものです。それなのに、褒賞の理由を延々としています。しかしながら、ここにある褒賞の理由であるかのような文言は、褒賞とは直接に関係がありません。
これを何の偏見もなく読めば、政治になれていない皇太子を輔佐するのが、重臣のつとめだといっています。これほど当たり前のことを、元正はどうして詔までだして、舎人と新田部にいいきかせたのか。
この詔はどうみても、単純に舎人を評価して褒賞したという内容ではありません。評価よりも注文です。やるべきことをやってこなかったから、それをやれ、といっています。褒賞の「褒」は、すでにある行いを褒めることです。これからの期待にたいしてあたえるものではありません。元正のいっていることは、これからやるべきことをあげて取りくめといっているのです。これまでやってこないことへの不満です。
それなら、どうして褒賞などしたのか。養老三年(七一九)の段階で、日本書紀が完成しそうだという雰囲気になっていたのです。じっさい、日本書紀は翌年に元正に奏上されました。そうしたなか、日本書紀は本来の歴史を書きかえているという評判がたっていました。
舎人を叱責する詔の発令、日本書紀の完成、直後の皇太子の教育係の選任、これらのタイミング、時間的な流れを考えると、養老三年にだされた元正の詔は、日本書紀に関係あると考えざるをえません。元正は将来、皇太子の教科書となる日本書紀の内容に不安をもっていたのです。それで、ぎりぎりになって書紀の編集姿勢をあらためさせようとしたのです。ストレートに叱責したのでは角がたちます。それで、褒賞にからめて釘をさしたのです。
天皇が詔でここまで叱責めいたことをいうのですから、よくよくのことだったはずです。これにおどろいた舎人が書紀の中身について危機感をもったのかもしれません。このころは舎人のうしろ盾の不比等の体調も万全でなかったと思われます。日本書紀が不比等の亡くなる直前に奏上されたうらには、このような事情があったのです。不比等がいなければ、舎人が撰上する書紀はみとめられずに、朝廷からつきかえれたかもしれません。
舎人と新田部親王が元正と友好的でなかったことを裏づけるのが、長屋王の変です。この事件で、舎人と新田部は、先頭にたって長屋王を糾問しています。明確にアンチ元正ー長屋王です。(つづく)
●元正天皇の歴史観と不安●
藤原不比等が創作した歴史ストーリーが日本書紀に組みこまれます。これをあばこうとしたのが万葉史観です。長屋王が修正しようとした歴史改ざんとは何か。その粗筋をみます。
皇統の正統性はいうまでもなく倭王権(大和朝廷)にあります。しかし、天智天皇は倭王権の系譜にありません。天智の権力基盤は筑紫です。筑紫の天智が倭王権の系譜にあるかのように皇統をくみかえたのです。
その皇統の組みかえの根幹が万世一系です。日本書紀によれば、神武が筑紫から東征して倭を平定します。それ以来、一時的には宮殿が倭をはなれることもありますが、原則的には神武の血をひく王が倭に宮殿をおきつづけます。この系譜にのらないかぎり、倭王権の正式な継承者ではないのです。
しかし、天武朝で歴史書編纂がスタートした時点の資料には、皇統の万世一系などなかったと考えられます。皇統の万世一系はフィクションです。これこそが不比等がつくりあげた歴史なのです。歴史の改ざんです。
それならどうして、不比等は皇統の万世一系などを創りだそうとしたのか。理由はあきらかです。筑紫王権の天智の血統を万世一系の系譜にくみこむことによって、天智を倭王権の正統なる後継者に仕立てあげたのです。万世一系の皇統にはいっているということは、それがすなわち正統なる血統の証というわけです。
不比等の歴史改ざんを強くにおわせるのが、日本書紀編集の最高責任者である舎人親王(とねりしんのう)と藤原氏との親密な関係です。
舎人親王は藤原氏とひじょうに近い関係にありました。舎人の子どもの大炊王(おおいおう)が即位して淳仁天皇(じゅんにんてんのう)となっています。その大炊王は即位する前、不比等亡きあとの藤原氏の中心人物、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の子の真従(まより)の妻をめとっているのです。真従が早世したため、仲麻呂が真従の妻だった粟田 諸姉(あわたのもろね)と大炊王とを結婚させ、私邸である田村第にすまわせていたのです。
まるで実子でもあるかのような待遇です。大炊が天皇になれたのも、仲麻呂のバックアップがあったからです。大炊の世話をした仲麻呂は藤原氏の本流です。父親の武智麻呂(むちまろ)は不比等の長男です。藤原氏が舎人親王の子どもにたいしてこれほど手あつくもてなした理由、それこそが歴史改ざんだったと思われます。舎人親王は持統と不比等、持統が亡くなってからは不比等の意向にそって書紀の編集、歴史改ざんに手をそめたのです。当時の朝廷では、それはおそらく公然の秘密でした。
持統天皇以降、藤原不比等と良好な関係をたもっていた朝廷は、元正天皇になると関係が完全にくずれます。不比等が亡くなって、長屋王、橘諸兄が藤原氏を牽制しますが、藤原氏の力はあなどれません。元正天皇は藤原氏との対応に腐心します。
元正天皇は万葉集に七首の歌をのこしています。そのうちの五首は、長屋王と橘諸兄とのやりとりです。長屋王とのあいだが一首、諸兄とのあいだで四首です。七首中五首が反藤原を旗幟鮮明にしている橘諸兄と長屋王に関連し、そのすべてが皇位を聖武に譲ったあと、太上天皇として詠っています。権力を手ばなした元正の不安が詠わせたかのようです。
念のために、万葉集にのる元正歌のすべてを確認します。
天皇、酒を節度の卿等に賜へる御歌一首并に短歌
○食國の 遠の朝廷に 汝等が かく罷りなば 平らけく 吾れ
は遊ばむ 手抱きて 我はいまさむ 天皇朕れ うづの御手
もち 掻き撫でぞ 労たまふ うちなでぞ 労たまふ 還り
来む日 相飲まむ酒ぞ この豊御酒は (巻六 973)
・をすくにのとほのみかどにいましらが かくまかりなばた
ひらけく われはあそばむたむだきて われはいまさむ
すめらわれ うづのみてもちかきなでぞねぎたまふ うち
なでぞねぎたまふ かへりこむひあひのまむさけぞこの
とよみきは
「この国の、国中(くになか)から遠くはなれた都
に、汝らが出かけていって領土を平和にするなら、
わたしは楽しく遊ぶこともできよう。何もしない
でいることもできるだろう。天皇であるわたしは
高貴なる手をもって掻きなでるようにねぎらうだ
ろう、うちなでるようにねぎらうだろう。とその
とき、汝らが遠くはなれた都から帰りくる日に飲
む酒なのだ、この神酒は」
反歌一首
○ますらをの行くとふ道ぞ凡ろかに思ひて行くな丈夫の伴(巻六 974)
・ますらをのゆくとふみちぞおほろかに おもひてゆくな
ますらをのとも
「この道は立派なますらおだけが行く道だ。決し
ておろそかに思ってくれるな、ますらおのもの
たちよ」
右の御歌は、或は云はく、太上天皇の御製なりといへり。
冬十一月、左大辯葛城王(かつらぎおう)等に、姓橘氏
を賜ひし時、御製の歌一首
○橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の樹(巻六 1009)
・たちばなはみさへはなさへそのはさへ えだにしもふれど
いやとこはのき
「橘は、実も、花も、葉も、枝さえも、霜の寒さ
にも負けずに、青々としていることだ」
右は、冬十一月九日、從三位葛城王、從四位上佐為王
(さいおう)等、皇族の高名を辞して外家の橘の姓を
賜ふこと已に訖りぬ。時に太上天皇、皇后、共に皇后
宮にましまして、肆宴きこしめし、即ち橘を賀く歌を
作り給ひ、并た御酒を宿祢等に賜ひき。或は云はく、
此の歌一首は、太上天皇の御歌なり。但、天皇皇后の
御歌各有一首ありといへれば、其の歌遺落して未だ探り
求むること得ず。今案内を検するに、八年十一月九日、
葛城王等、橘宿祢の姓を願ひて上表す。十七日を以ちて、
表の乞に依りて、橘宿祢を賜ひきといへり。
太上天皇御製歌一首
○はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は萬代までに(巻八 1637)
・はだすすきおばなさかふきくろきもち つくれるむろは
よろづよまでに
「薄の尾花を逆さに葺いて、樹皮のついたまま
の黒木でつくった家であるけれど、それでも万
代までつづくことだろう」
…1638番歌略…
右聞く、左大臣長屋王の佐保(さほ)宅に御在(いま)
して肆宴(しえん)する御製なり。
御製歌一首 和(こた)ふ
○玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き滿てて繼ぎて通はむ(巻一八 4057)
・たましかずきみがくいていふほりえには たましきみてて
つぎてかよはむ
「玉を敷かなかったことで、あなたが悔いて敷い
ておけばよかったという、その堀江が玉で満ち
るようになるまで、難波に通いつづけましょう」
右二首、件の歌は御船が江を泝りて遊宴する日に左大臣
の奏す、并びに御製
御製歌一首
○たちばなの遠のたちばな彌つ代にも吾れは忘れじこのたちばなを(巻一八 4058)
・たちばなのとおのたちばなやつよにも われはわすれじ
このたちばなを
「橘がはるか遠くの代になっても、実り豊かでいる
ことを、わたしは忘れない」
…4059ー4060番歌略…
右件の歌は、左大臣橘卿宅に在して肆宴する時の御製と奏す歌なり
973ー974番歌はその前後の題詞から、天平四年(731)につくられたことが確認できます。このときの天皇は聖武です。題詞どおりなら聖武作、左注にしたがえば元正作ということになります。いずれにしろ、特定の人物へ向けて詠ったものではありません。
1009番歌は、題詞から葛城王が臣籍降下で橘氏を賜ったときに、元正が詠ったことがわかります。葛(かつら)城(ぎ)王は、橘諸兄です。
1637ー1638番歌は、元正太上天皇が、長屋王宅を訪ねたときに詠っています。長屋王の邸宅新築をいわって、訪問したようです。
4057ー4058番歌は、元正が難波宮を訪れたときに詠まれた七首のうちの、元正作の二首です。歌群の七首は同時に詠われたのではないようですが、すくなくとも元正太上天皇が難波宮にいるときにつくられたことがわかります。その難波行きには、左大臣橘宿祢がしたがっていました。左大臣は橘諸兄です。歌群の太上天皇の二首目は、直接的には橘諸兄との関連性を確認できませんが、諸兄が同道の難波で詠っているのですから、歌にある橘が諸兄とまったく関係ないとはいえないでしょう。
これをみるかぎり、題詞が聖武作とするものを左注が元正作だとする973ー974番歌以外はすべて反藤原のリーダー、長屋王、橘諸兄と、元正とのあいだで交わした歌だったことが確定します。
譲位して権力を手ばなした元正がどれほど反藤原の長屋王と橘諸兄を頼りにしていたかが、うかがえます。(つづく)
●持統と不比等の執念●
書紀によって歴史が改ざんされていることは、万葉史観をとおして確認しますが、書紀の完成までを大ざっぱにたどります。
官製の歴史書の編集を発案したのは天武天皇です。日本書紀の記事です。
[日本書紀]天武紀天武十年(681)三月条
丙戌、天皇、大極殿に御して、川嶋皇子、忍壁皇子、広
瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小
錦中忌部連首、小錦下阿曇連稲敷、難波連大形、大山上中
臣連大嶋、大山下平群臣子首に詔して、帝紀及び上古諸事
を記し定めしむ。大嶋、子首、親ら筆を執りて以て録す。
天武十年三月、天武が天智天皇の皇子である川島皇子らに帝紀(ていき)、上古諸事(じょうこしょじ)を編集させたという記事です。ここにある帝紀、上古諸事が後の古事記、日本書紀に引き継がれたと考えられます。
編集メンバーの一人として名前があがる三野王(みののおおきみ)は、万葉史観にかかわったと考えられる橘諸兄、佐為王の父親です。
これだけみると、日本書紀は天武が主導して完成したようにみえますが、歴史書の完成は天武の発案から古事記が約三十年後、書紀になると四十年後です。天武の意向よりも、あとをついだ持統、さらには不比等の都合が大きく反映しているといえそうです。持統が歴史書に関心をもっていたことをうかがわせる記事が、同じ書紀にでてきます。
[日本書紀]持統紀持統五年(691)八月条
八月己亥朔辛亥、十八氏大三輪、雀部、石上、藤原、石
川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、
阿倍、佐伯、釆女、穂積、安曇に詔して、其の祖等の墓記
を上進せしむ。
これによると、持統は持統五年八月、歴史ある氏族の家史を朝廷に提出させています。ここの「墓記」はそれぞれの氏族の歴史書とされます。これら家史の情報は書紀にとりこまれたと考えられており、持統が歴史書編集にかかわったことはまちがいないようです。
それを裏づけるのが、万葉集が書紀の歴史改ざんの修正記事へと読者を誘導する万葉史観の案内です。この案内は、持統の父親の天智天皇と、天智の母親とされる斉明天皇に関連して集中的にでてきます。この二人にからむ歴史が書きかえられていることをうかがわせます。
もちろん、持統じしんが先頭にたって書紀編集をすすめたわけではありません。直接に書紀の編集をひっぱったのは藤原不比等と考えられます。不比等は天武朝ではほとんど活躍していません。天武に干されていた印象です。それが持統朝になると、にわかに元気になります。
持統が不比等を重用したのには、大きく二つの理由が考えられます。一つは、持統の後継者選びです。もう一つが天智の過去です。忌まわしい過去をぬぐいさるために、歴史の改ざんをすることです。
一つ目のポスト持統問題です。天武の後継者候補は草壁皇子と大津皇子、それに長屋王の父である高市皇子が有力でした。長男の高市は母の出自が低いというハンディがありました。大津はこの時点で母親が亡くなっていましたが、母親の太田皇女は持統と同母の天智の娘です。草壁にとっては、最大のライバルです。持統はこの大津を天武が亡くなるとただちに死においやります。
持統の願いどおり、草壁は持統朝で皇太子にたてられますが、草壁は即位する前に亡くなってしまいます。
持統の皇子は一人だけです。そこで、草壁の一人息子の軽(かる)皇子を即位させようとします。しかし、草壁の即位なら納得せざるをえない天武の皇子たちも、血統が自分たちよりも天武から遠い軽皇子の即位を受けいれるかどうか難しいところです。そこで、持統は不比等と手をくんだのです。
不比等が書紀に登場する最初は持統朝です。持統三年(689)、判事に任命されたという記事です。この年、草壁が亡くなりますが、不比等は軽皇子を即位させるために手のこんだ細工をしています。
不比等がどのように軽皇子を即位させたかは、続日本紀にはありませんが、東大寺献物帳に痕跡がのこっています。東大寺に献上された物品を記録したものです。そのなかに、草壁皇子の黒(くろ)作(つくり)懸(かけ)佩(はき)の刀(たち)(くろつくりかけはきのたち)がでてきます。その記事です。
[東大寺献物帳]
黒作懸佩刀一口 刃長一尺一寸九分 鋒者偏刃 木把 …以下略
右 日並皇子常所佩持賜太政大
臣 大行天皇即位之時便献
大行天皇崩時亦賜太政大臣薨
日更献 後太上天皇
内容はつぎのとおりです。
日並(草壁)は(死に臨んで、息子の軽皇子の将来を託す思いで)、身につけていた刀を太政大臣(不比等)に授けます。(不比等はその刀を)大行天皇(軽皇子、文武天皇)が即位するときに献じ、さらに大行天皇が亡くなるときに太政大臣へもどされます。太政大臣が薨じた日に後の太上天皇(元明天皇)に献上されます。
この黒作懸佩刀は、最終的には東大寺におさめられたのですが、あたかも黒作懸佩刀が三種の神器でもあるかのように、皇位継承のシンボルになっています。しかも、シンボルの媒(なかだち)をするのが不比等です。ひじょうに作為的な手順をふんでいますが、これにより、不比等が持統の意向をうけて軽皇子を即位させたことがうかがえます。
不比等は文武を皮切りに元明、元正をつぎつぎと即位させます。そのいっぽうで日本書紀の歴史ストーリーをデザインしていきます。狙いは、天智と中臣鎌足の系図の創作です。不比等は養老四年(720)に完成した書紀で天智と鎌足に都合のいいように歴史を改ざんしたのです。(つづき)
●歴史改ざんに駆り立てる過去●
前回までにみたように、長屋王は当時、長屋親王と称されていたのですから、続日本紀は長屋親王と表記しなければなりません。そうなっていないのは、肩書き表記をおとしめたのです。理由はいうまでもなく、聖武天皇の母親、宮子の称号問題です。
宮子にからむ肩書き問題は、不比等と県犬養 橘 三千代(あがたいぬかいたちばなのみちよ)の娘の光明子(こうみょうし)の皇后称号で蒸しかえされる恐れがありました。
神亀四年(727)九月に、光明子が聖武天皇の皇子を生みます。藤原氏にとっては待望の男の子です。ただちに皇太子にたてられます。しかし、皇太子は翌神亀五年九月に亡くなります。さらに悪いことに、これに前後して聖武夫人の県犬養 広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)が安積皇子(あさかのみこ)を生んだのです。聖武の男子は安積皇子だけということになります。このままでいけば、安積が皇太子にたてられることになりかねません。藤原氏としては、これだけはうけいれられません。
藤原氏にとって不幸中の幸いだったのは、光明子に阿倍皇女(あべのひめみこ)が生まれていたことです。藤原氏は阿倍を即位させることをはかります。皇子の安積をさしおいて阿倍を即位させるために、光明子を皇后にしようというわけです。これが実現したのが天平一年(七二九)八月です。長屋王が自殺においこまれてからわずかに半年後のことです。長屋王をざん言で強引に死なせたのは、こうした事情があったのです。もし、長屋王が生きていたら、臣下からの妃は皇后になれない、と反対するのは目にみえています。
藤原氏は正史の続日本紀で、親王だった長屋を長屋王と一ランク下に表記します。さらにじっさいは太政大臣までのぼりつめていたのに、左大臣どまりにした可能性もあります。そのいっぽう、藤原氏出身の光明子を皇后と表記させて後世にのこします。宮子の称号問題の敵をとったのです。
◇不比等創作の歴史
ながながと長屋王の経歴をみましたが、このなかで画期となるのが養老五年(七二一)です。藤原不比等の死によって、長屋王は右大臣になります。一月五日のことです。一月二十三日に皇太子の首(おびと)皇子の教育係を選任しています。これはたんに皇太子の教育係を選んだのではありません。元正天皇と長屋王にとっては明確な狙いがありました。
不比等によって改ざんされた日本書紀の修正です。(つづき)
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Ⅰ 長屋王の敗北
2012-04-20 | 3 養老年間の元正朝 いずれにしろ、万葉集の編者が長屋王に同情しているのはあきらかです。世間も長屋王に同情的です。日本霊異記に、長屋王の骨がもちこまれた土佐で多くの人々が亡くなった記事がでてきますが、これは長屋王の祟りを暗示しています。この祟りはほんらい藤原氏へむけられるべきものです。霊異記が藤原氏に配慮したのでしょう。じっさい藤原氏は長屋王の祟りにおびえる事態をむかえます。
長屋王が亡くなって八年後の天平九年(739)に流行した天然痘で、権勢をほしいままにした不比等の息子四兄弟がすべて亡くなります。平城京の貴公子が怨霊となってたたったのです。
しかし、事件当時の当事者はそんなことまで気がまわりません。藤原氏とともに長屋王殺害にうごいたと考えられる聖武天皇は、王への同情など微塵もありません。そのぎゃくです。この事件で、聖武は長屋王にからんで勅をだしています。この内容が尋常でありません。これ以上ないくらい罵倒しています。恨み骨髄に徹す、です。自分の母親の宮子の称号問題がゆるせなかったのでしょう。
[続日本紀]巻十天平一年(729)二月十日条
二月丙子、(天皇が)勅して曰く、
「左大臣正二位長屋王、忍戻昏凶にして途(みち)に触れ
て則ち著(あらは)る。慝(とく)を尽くして姦を窮む。
頓(とみ)に疎網(そまう)に陥り、姦党(かんたう)を
苅り夷(たひら)ぐ。賊惡を除滅す。宜く国司は衆あらし
むること莫かれ」
難しい言葉がつづきますが、内容はつぎのようなものです。
「長屋王は残忍邪悪にして、折に触れてあらわれる。人知れず悪事を尽くし、邪なる悪行をきわめる。それがにわかに法の網にかかった。悪党をすっかり平らげて、悪しき賊は滅ぼしのぞくことだ。国司は悪党どもに徒党をくませるようなことがあってはならない」
主旨は、長屋王に連なる人々が反攻できないように事前に手をうっておけ、ということです。
当時、元正ー長屋王と、聖武ー藤原氏との間で暗闘が繰りひろげられていたのです。長屋王の変では、長屋王の妻と子どもも死にますが、死ぬのは元正の妹の吉備内親王とその子どもたちです。藤原不比等の娘も長屋王にとついでいますが、娘とその子どもは死罪をまぬがれているのです。露骨に差別しています。聖武と藤原氏が長屋王だけでなく、元正天皇をきらっていたことのあらわれです。元正はこのあとも太上天皇としていつづけますが、長屋王亡きあと元正は、反藤原の橘諸兄(たちばなのもろえ)を頼りにするようになります。
続日本紀は日本書紀につづく勅撰の歴史書です。日本書紀よりははるかに客観的に編集されているようですが、すべてがそうだとはかぎりません。長屋王にたいしては、正当な評価をしていません。その典型が、長屋王の肩書き表記です。続紀は長屋王と表記していますが、すでに指摘しているように、これがおかしい。
長屋王は天皇の孫です。だから皇子(親王)とならずに王となります。系図にあるとおりです。しかし、長屋王にかんしては正しい表記とはいえません。
長屋王は生前、親王と称されていたのです。親王は皇子と同じです。天皇の子どもにつくものです。
どうして長屋王が親王と呼ばれていたとわかるのかというと、すでにふれたように、平城京の長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と書かれた木簡がでているからです。同時代の木簡は資料としては信憑性が高いとされています。文献的にも、長屋王の死をぼろくそに書いた日本霊異記が明確に長屋親王と表記しています。すでにみたとおりです。
系図をみるかぎり「王」表記でいいのに、どうして親王と称されたのか。長屋王に親王がついたのは、皇位継承権に関係があるようです。
この時代は女性天皇がつづきます。持統(じとう)から称徳天皇(しょうとくてんのう)まで八代の天皇のうち男性は三人だけです。そのうち淳仁天皇(じゅんにんてんのう)は持統系ではありません。この時期、皇位の正統性は持統ー草壁皇子の系列にあったとされます。この流れでいえば、正当な皇位継承者として即位したのは文武と聖武しかいないことになります。しかも、元明朝から元正朝まで、聖武へつなぐ持統直系の有力な男性の皇位継承者がいません。それで、元正から聖武(首皇子=おびとのみこ)へつなぐ間に、首皇子に万が一のことがあった場合にそなえて、長屋王の系統に皇位継承権を認めたと考えられます。
これを裏づける記事です。
[続日本紀]霊亀一年(715)二月
丁丑、勅して三品吉備内親王の男女を以て皆な皇孫の例に入る。
霊亀一年(715)二月二十五日のことです。元明天皇は、自分の娘である吉備内親王の子どもは男女を問わずすべて皇孫にいれるという勅をだします。吉備内親王の夫は長屋王ですから、吉備内親王の子どもは天武天皇からみれば曾孫、元明天皇からすれば孫ということになります。本来なら「王」となるところですが、皇孫にはいるとなると親王、内親王と同等のあつかいとなります。吉備内親王の子ども、つまりは長屋王の子どもたちは皇位継承権をあたえられたのです。歴史的にみても、破格の待遇です。
霊亀一年は元明が娘の元正に譲位した年です。譲位は九月、その直前の勅です。長屋王は吉備内親王の婿養子的な存在だったわけで、妻の姉である元正が即位するタイミングで事実上の親王となった、こう考えていいようです。
長屋王一族は天皇家と同等だったのです。そうしてみると、長屋王の変で、長屋王の子どもたちへの対応が異なった理由がほのみえます。不比等の娘とのあいだにできた子どもたちは死なないですんだのに、吉備内親王の子どもが死においこまれた理由です。吉備内親王の嫡子膳(かしわで)王は、聖武に次ぐ皇位継承者だったのです。長屋王の変は、長屋王そのものよりも、皇位継承権のある吉備内親王の子どもすべてを抹殺するのが目的だったのです。(つづく)