A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

科学と哲学

2007年02月28日 12時15分00秒 | 哲学
 まず、哲学と言う言葉を聴いて、普通の人が思い浮かべるのは難しいや時代錯誤などである。しかしこの見解は、当を得ていない。哲学と言うものは、全ての学問を統治するものである。これはこれから先も変わらないであろう。現在において、それを逸脱するものであるならば、彼は他の場所に移った事になる。その意味は簡単である。哲学と自然科学の才能を備えた人は何人かいる。セネカやアリストテレスは科学を作り出した有能な人物である。むろん、その根底には哲学的なものが流れていた。最終的にはもっと有能な人材がそろうであろう
 後述べることは、一つである。それは科学の限界である。昨今、ブラックホールの中身を探ろうと物理学者たちは血なまこになっている。だがその行為自体、無意味であるし、ブラックホールなどの特殊な形態を持った星を観察するときに我々は歩みを止めなければならない。この理由は、ほんの数ページで決着がつく。その理由は時間と空間に対する哲学的思索である。もし思索をしなければ、現象からはなれて、途方にくれるであろう。だから、今の物理学者たちは絶対に不可能な事を可能にしようと努めているのである。そして雑多な論文、観察から導きだせるのは、つまらない事や意味もないことに執着する精神である。
 もし私が科学者の立場にいるならば、最初に理論的な事を考える。そしてその後に、実験や観察によってそれを証明するであろう。何事をするにしても、目標をしっかりととらえなくてはならない。闇雲に動き回って、結果が出ることほど、世の中の馬鹿げた習慣は無い。私は理論、すなわち的の位置を把握し、その後に分析、その矢の刺さった箇所を検証するであろう。そして理論的に物事を把握する人と分析的に物事を判断する事は、同じほどの重要な位置を占めているのである。

二匹のねずみ

2007年02月23日 00時01分49秒 | 小説
 二匹のねずみ

 あるところに二匹のねずみがいました。この二匹のねずみが一緒に歩いていると、それはもう大変です。なんたって彼らは顔も同じ、性格もそっくり、おまけに顔のひげを時々「ぴん」とさせるしぐさまで同じですから、見分けがつかないのです。
しかし彼らはいざ顔を付き合わせると喧嘩ばかりしています。何故でしょう?性格も、しぐさも同じ、二匹の馬が合わないはずがありません。けれど実際彼らは喧嘩ばかりしています。ほら、ほら、見てくださいよ、今もやっているでしょ。
「一体僕のどこが気に入らないって言うんだい?」
「俺のまねをするところさ。」
「ふん、そんなこと知ったことか。僕は自分の性格どおりに生きているだけさ。君のまねをしているつもりはないね。」
「ヘイ、ヘイ、分かりましたよ。ドブネズミ君、君のとりえは真似だけさ。もう、言うことはないね。」
 こんな喧嘩が何度も起こりました。そしたら彼らはまったく口をきかなくなりました。これは当たり前ですよ。同じ性格で同じ顔して、はたまた同じ口をきく。これでもか、というぐらいに似ている二匹が喧嘩ばかりしていたら、そりゃいやになるのは当たり前ですよ。
たまたま二人が往来で会っても、話もしません。もちろん相手の顔すら見ようとしません。仕舞いにはそっぽをつんと向くしまつです。実を言って、彼らのその行動も他人から見れば、そっくりなんです。けれど彼らはお互いに「僕らは、違う、違う、違う生き物だ。僕と君とは違う生き物だ。」と言い張っています。
 そんなこんなで二人はすれ違い、何年もの月日がたちました。
 いい加減にその二匹も飽きたのでしょうか、二匹のどちらかが仲直りすることを決意しました。そしてお日様が真っ赤なレンガに照りつける日、その二匹はたまたまその塀の下で出会いました。彼らは、笑顔を作りながら歩み寄ります。すると、そのときです。塀の上にいた猫のひげがぴくっと、動きました。そうです、猫は下にいる二匹のおいしい餌に気が付いたのです。猫は背を丸め、飛びかかる姿勢を整えます。その間も二匹のねずみは前の通りのやり取りをしています。
「いい加減にお前のその癖は直らんのか。人のまねばっかりして、恥ずかしくないのか。」
「いや、僕はそんな大それた事をしているつもりはないよ。ただ自分の本性にしたがって生きているんだ。」
「だけど、それじゃあ仲直りはできんぞ。」
そんな会話の中でふと、一匹のねずみが天を仰ぎ、まぶしすぎる太陽に挨拶をしました。すると突然彼の視線は真っ黒な闇に包まれました。そうです、猫が襲いかかってきたのです。二匹は大慌てです。顔中のひげをピンと逆立てて、奔走します。「逃げる、逃げる。猫から逃げる。」
彼らは一体どこに行ったのでしょうか?
 彼らは表面上、相手を嫌っていました。しかし有無も言わさぬこの状況、二匹は同じ方向にそろって、逃げ出しました。「たったったたた。」二匹は目をつぶり、汗をかきながら一生懸命に走りました。息も絶え絶え、汗も乾ききって、やっと歩を止めると、なんと二匹の目の前には大きな塀が立ちはだかっていました。そう、彼らは袋小路に逃げ込んでしまったのです。猫はその鋭いつめを舌でなめながら、彼らににじり寄ってきます。二匹ともそれはもうびくびくして、今にも心臓が止まりそうでした。
 そんな喧騒の中どちらかのねずみが隣にある、横穴に気付きました。彼は一言もはっせずそこに飛び込むと、外の光景を震えながら見ていました。もう一匹のねずみが猫に頭からむしゃ、むしゃと食べられる様子を。
 次の瞬間、もう一匹のねずみは急いでその場を離れようとしました。なんといっても自分と似ているねずみが食べられてしまったので、もう一匹のねずみは戦々恐々としていました。外の光景を見るのをねずみは怖がりました。自分が食べられている訳ではないのにそのねずみの心臓は激しく痙攣していました。
 猫が立ち去った後も、悪寒は消えません。ねずみはじっとしていて、動こうとはしませんでした。それもそのはず。てっきり、自分が食べられたかのような観をねずみが抱いていたのです。それから、ねずみはすくっと立ち上がり、あたりの様子をうかがいました。その時には猫はもういなくなっていました。しかしねずみにははっきりと自分の成れの果てが見えていました。それは道路に転がっているねずみだったのです。
 この時、初めてねずみは同情を知りました。仲間の死骸を見て、彼は初めてその死骸が自分のそのものであることを知りました。ついに彼は困苦のあげく道を疾走し始めました。彼はその現場にいるのが怖くてたまらなかったのです。もう一人の自分がそこに転がっている。その幻影に彼はおびえていました。だからねずみは走ったのです。一生懸命にその場から逃れようと彼は走ったのです。しかしその行動を見て取った猫はそろりそろりとねずみのところに移動し始めます。ところがねずみはそのことには気づきませんでした。彼の眼中には走る事しかありませんでした。長い袋小路を出た直後に、ねずみはその疲れたきった体を休ませようとしました。そしてそれは成功しました。一時の安堵が彼を幸福の境地に導いたのです。それから、ねずみは起き上がりました。すると、影にいた猫がそろそろと出てきて、頭から彼を食べてしまいました。その後、猫はこう言いました。
「欲望が私の食事だ」と。

勉強とは

2007年02月19日 21時49分59秒 | 思想、警句
まず人々が勉強という言葉を耳にしたときに、喚起するもの、それは種々雑多である。受験勉強、政治の勉強、医学の勉強などなど、あらゆるものに対して勉強という言葉は用いられる。有名な大学に進学したいと強く望む学生は、夜を徹して受験勉強に励むことであろう。
さて、そろそろ本題に入りたいと思うのであるが、その前にいくつかの注意点を明記しておきたい。

 第一、 私が最初に述べた勉強の亜種は本来の勉強の意味とはかけ離れている。それは勉強本来の観点から見ての洞察である。この勉強本来の意味は次項で分かる。

 第二、 まず勉強とは自己を知ることである。「汝自身を知れ」という言葉が示すとおりに本当の勉強とは自分を知る事にある。

 第三、 自己を知るという事は自己の特徴を把握する、という事である。そこに慢心があってはならない。積極的に自分の悪い部分を見つめ、それを是正する。また良い部分はすなおに良いと認め、その良い部分を伸ばしていくこと。順序から言えば、前者が先で後者が後の方が望ましい。

 第四、「いうは易(やす)し、やるは難(がた)し」と、この言葉を最初に肝に銘じておく事。実際、いくら頭が良くとも私の提唱している本当の勉強を実行できるものは少ない。なぜなら人とは本能的に自分の弱い部分を見るのを嫌がるし、それに良いところばかりを見たがる傾向がある。そのため、私の提唱した勉強を実行できる人は少ないのである。

楽観主義と厭世主義

2007年02月17日 21時20分48秒 | 思想、警句
 世の中の人は、とかく物事を安易に考えすぎる。確かに楽観的に物事を解釈するのも大事だが、そうすると他の大事なものがどこかへ行ってしまう。その大事なものとは簡単だ。それは未来への憂慮である。おおかた楽観主義とは物事をなおざりにしてしまう。計画性が無く、口から出るのは単純な事ばかりである。まず頭の良い人に楽観主義はいない。彼らの見る全ての事象は厭世観に覆われている。したがって頭の良い人は考えすぎや、雑念にいつも追われている事になる。これが厭世主義の正体である。未来への憂慮が激しいために、いつも悩む。それこそが彼らを厭世的と呼ばせる根拠なのである。しかしそれでも世から楽観主義が消え去る事はないであろう。ほとんどの人々は人生を怠惰に過ごしている。まるで機械のように仕事をし、自宅に帰る。これが楽観主義者の生活である。怠惰で自分自身をはっきりと認識していない愚か者たち、それが楽観主義者である。大抵の人々は享楽を追い求めて生きている。彼らは知らないのだ。自分たちのいる場所を。いや、彼らは迷っているのだ。その暗闇の中を手探りで確かめながら、慎重に進んでいるのである。
 

病人の扱い方1

2007年02月15日 09時50分06秒 | 精神医学
 まず、率直に病人の扱い方を説明したいと思う。病気には大きく分けて、身体疾患と精神疾患がある。前者はすでに外科医の領分であるために私は口を出さない事にする。私がおもに述べたいのは、後者である。精神疾患とはほとんどの場合、本人の自覚症状が無いままに進行する。これは癌と同じであるが、精神疾患の場合、その処遇がより厄介である。いきなり患者に精神疾患であると、告げてはいけない。そんな事をすれば、患者は困惑してしまう。ほとんどの患者が精神疾患である事を受け入れられない。これはまがう事ない事実である。私もそのような現場にいたことがある。患者はヒステリーに似た症状を示し、必死に自己弁護を行おうとする。しかしこれをおかしい事だと思ってはいけない。もともと人間は利己的で自分中心に物事を考える生き物である。その利己心は激しい葛藤の中で、現れてくる。ともあれ、この利己心は誰しもがもつものである。例えば、戦時における強迫神経症がある。彼はいやいやながら、戦場に向かう。だが戦争となると、意識下にあった現象が明白になる。彼は弾丸や大砲の音に過敏に反応するようになる。そして最後は狂ったようになってしまうのである。これが戦時における強迫神経症である。しかしこの病に関しては、すでに有効な精神療法が成り立っているため、そんなに悩む事はない。特殊な状況下においてのみ、発症する強迫神経症は環境による影響が大きいため、適切な治療をすれば、解消される。
次に改善できない精神異常を述べよう。精神疾患のその多くは遺伝によるものである。そして私はこれから、それらの患者の適切な治療方法を模索したいと思う。話はそれるが、ヒポクラテスの時代にも同様の精神疾患をゆうするものがいたのは彼の著述からも明らかである。その時の精神疾患は神聖病と呼ばれていた。神が天空から舞い降りた気分に対してもこの言葉は使われた。したがって精神疾患が最近のできごとではないのが分かる。そして魔女狩りの起源もそこから容易に汲み取れるのである。精神異常者を処刑し、彼らを人とみなさない。この現象は中世のヨーロッパに見られた。健全な精神、それはすばらしいものである。しかし非凡なるもの脆弱性、それを完全に取り除く事はできないのである。じかし健康とはすばらしい。ある時には精神異常者を牢獄に縛りつけ、また他の時には彼を英雄扱いをする。前者はヘルダーリンらが経験した事である。その牢獄はヘルダーリンの塔と呼ばれていた。そしてクレッチュマーこう叫んだのである。
 「聖者の述べた言葉、それは、狂気の言葉ではないだろうか?」と。