A collection of epigrams by 君塚正太

 君塚正太と申します。小説家、哲学者をしています。昨秋に刊行されました。本の題名は、「竜の小太郎 第一話」です。

哲学の道のり

2007年01月31日 21時54分28秒 | 思想、警句
 人々に哲学という言葉を聞かせると、彼らは一歩退いてしまう。もちろん、私にはこの理由が分かる。「哲学」という表題が面倒な印象を与え、人々をそこから遠ざけてしまうのである。そして私がここで行う試みはそれを少しでも緩和しようというものである。
 まず誤解されるのが、哲学は難しいという事である。その結果、哲学の入り口で立ち往生してしまう人がほとんどである。しかしその人々の先入観は当を得ていない。哲学とは人間に必須のものである。本当は知らないうちに哲学をしているのに、唯、それを意識的に解しないという理由だけで人々は哲学を難しい学問だと思っているのである。ショーペンハウアーは述べた。「我々は音楽を聴いているときに、知らず知らず、哲学をしている。」と。この言葉にある通りに我々はさまざまな環境下において、哲学をしているのである。
 人が危機に襲われた時に、とっさに行動を起こすのも一応哲学の分類に入るであろう。ほとんどの場合、危機的状況において、人は硬直してしまう。これは本能的なもので、これを克服するには訓練を行うしかない。したがって、私が最初に触れた危機的状況においてとっさに行動を起こす人間は少なからずとも日ごろからイメージトレーニングや頭の中でシミュレーションを行っていたのであろう。実際、特殊部隊員のやつらは普段はいい加減でやる時はやる人間がほとんどである。それに彼らは気晴らしや頭脳ゲームを欠かさない。それに普通の人が思うのとは違い、特殊部隊にはほとんどと言っていいほど規律がない。そしてそれはまた反対に大変な事である。なんと言っても規律が無い以上、自分で規律を作らなければならない。もうそこから彼らは処世哲学を始めている訳である。一般的な概念から見ると規律が多いのが安心なのである。しかしその安心は本当は慢心であるというのが私の説明で分かって頂けたと思う。
 次に本当の哲学者がどのような道のりを経て、複雑な理論体系を構築するかを簡潔に述べてみよう。むろん、最初は自分を処する処世哲学を彼らは習得する必要がある。思考方法、弁論術、勉強の仕方、人の観察及び心理学的見解などを彼らは小さい頃からひたすら磨き上げるのである。その結果、稀有な人物が出来上がる、という訳である。順序を最初からもう一度述べると、まず処世術、次に行動、最後に理論を構築という具合になる。
 最後に述べておくが、哲学など本を読んでも読まずともできるものである。いくら本を読んでも哲学者の資質が無いものは、その行為自体に意味が無い。そして哲学者の資質が備わっているものが見識を広げようとして、初めて本を手に取る時こそ前世の哲学者たちの見解が生きてくるのである。
 

宮沢賢治のすばらしさ

2007年01月31日 04時26分18秒 | 思想、警句
 私は宮沢賢治の作品が大好きである。特にすきなのが、その文体である。人間の悪い面を巧みに表現する。ここまでくると宮沢賢治に敬服するしかない。そして彼の作品のほとんどがインスピレーションによって書かれているために読みやすい。
ショーペン・ハウアーの言葉を借りれば、「書物とは一気に書かれるのが望ましい。長い年月をかけて書かれた本はあまり良くない。」とある。私はこの意見が正鵠を得ていると確信している。本を書いていて、それ以外の事を始めると気が散って、文章の脈絡がうまい具合に調節できなくなるのである。
 ニーチェは「ツァトゥストラ」を三週間前後で書き終わっている。これは一般論を持ち出しても解決しない。確かに、ニーチェは天才であった。詩人、哲学者であったニーチェはこの作品でたくみに倫理観や心理学的なものを顕現している。
 そしてこれは宮沢賢治についても言える。彼の作品の場合、深い洞察を基に作品を制作している。それも一気に思想を爆発させているのである。これがいわゆるインスピレーションの所産である。
 そして何より宮沢賢治の作品を眺めていてすばらしいのは背後に隠された。背徳行為や差別などを風刺している事である。
 これらが宮沢賢治への見解である。ぜひ文学者になろうとするものは、この本を読むべきである。









夏目漱石の気持ち

2007年01月30日 23時22分07秒 | 思想、警句
 いくら優れた作家にも全作品を網羅し、読むといくつかのあまり良くない作品が混じっている事がしばしばある。そしてそれは夏目漱石の場合も例外ではなかった。彼の「坊ちゃん」は確かにすばらしい作品である。その本の中から情熱が伝わってくる。それに表現もさることながら、漱石の「坊ちゃん」は私の文学観に大きな影響を与えたのである。その巧みな表現技法。私はこの本に夢中になって、およそ一日で読み終わってしまった。
 さて、次に目を転じて他の漱石の作品を見ていくことにしよう。代表作であると一般的に思われている「吾輩は猫である」は実際読んでみると、非常に冗長でつまらない観を覚える。また「三四郎」を読んでみても、同じ印象を受ける。冗漫で退屈な印象を受けるのである。
 作者とはいやいや文章を書くと、それが作品にも反映されてしまう。嫌な気分で書いた小説は、その色調を帯びるであろうし、また快い気分で書かれた作品は、陽気で軽やかな小説を生み出すのである。もはやそこに冗長さはない。もちろん読みにくさもない。むろん、これは哲学や科学の論文を除外しての話だが。
 そして忘れてはいけないのが、当時、漱石がおかれていた場所である。彼は自分の寿命がいくばくもないと悟り、多少あせっていたのかもしれない。しかし文学の倫理観からみて、漱石の行った事は暴挙に近い。だがそれでも当時の時代情勢や漱石の資財を考慮すれば、漱石の行為はいたし方ないものかもしれない。この事については「私の個人主義」に書かれていているので、割合するが、それでも彼の行った事は暴挙なのである。彼の鋭い嗅覚は自分の余命を見抜く力を持っていた。その結果、彼は家族に残しておく金を用意する必要があった。そのため、彼はいやいやながら小説を書いた時期があったのであろう。
 しかしそれでも彼の行為は文学的観点から許されないのである。そして私は最後に、ショーペン・ハウアーの箴言を述べておこう。
「天才にとって一番不幸な事は金がないことである。そのような状況におかれた天才たちはとんどの場合、右往左往する事がせいっぱいである

考え方1

2007年01月29日 22時45分14秒 | 思想、警句
 ロダンの「考える人」という彫像は実によくできている。しかし実際の考える人はあのような方法を用いない。ソクラテスもロダンと同様に立ち止まって、考える事がしばしばあったらしいが、それも悪い例である。
 まず考えやすくするには気分転換に限る。これは散歩が最も良い。散歩しながら思索すると円滑に考えられる。これは医学的な見地からして、足の血流が活発に脳におくられるようになる事に原因がある。そのため、ルソーやショーペンハウアーらはこの考え方を推奨したのである。
 しばしば人は立ち往生をする。「人は何かをする時に、立ち止まらなければならない。」この言葉にあるとおりに上記の方法を用いてもうまくいかない場合が時々ある。そういう時は本当の休養が必要である。脳も生物に付随する物体である以上、そこに何らかの弛緩がなければならない。要するに研究に没頭して、解決できない場合は思い切って、煙草でも吸ってみればいいのである。すると、脳がゆるみ、思考が活発に働くようになるのである。
 これらの思考方法が科学者や哲学者が行う方法である。次項で一般的な考え方を述べる事にしよう。
 

眠れない日々について

2007年01月29日 04時23分14秒 | 思想、警句
 この話は私事に関わる話である。まあ、気長に聞いてもらいたいと思う。私は不眠症だ。この病気は十九歳の終わりに発病し、今なお完治のめどはたっていない。私の場合、この病気は遺伝性のものである。医者が決めたのではない。私が自己を深く洞察して、そう結論付けたのである。もちろん、この見解に私の主治医たちも納得してくれた。さてはて、でも困ったものである。眠れない日々が続くと精神に不調をきたす。そのため、創作活動にも影響が出てしまう。しかし精神科医のクレッチュマーの言葉を借りれば、私の病は宿命的なものらしい。頭の良さと引き換えに病弱な体に生まれついてしまったのである。よくさほど頭の良くない人は頭の良い人にあこがれるが、それは間違っている。よっぽど、のんべりくらりと阿呆な人間で人生を送りたいと私は思っている。だがそれは私の遺伝子が許してはくれない。突発的に起こる急激な才気は抑えようがない。また私の病を完全に撲滅するのもできない。この両バサミの状態で私は右往左往している。
 話しはずれるが、ゲーテやヘルマン・ヘッセ、ルソーも不眠症にかかっていた時期があった。やはりこれも宿命的なものであろう。彼らはその著作の中で不眠の苦しみと効用を訴えている。一般的に考えて、不眠には苦しみしかないと思われがちである。しかしそれは違うのである。夜中、目がさえて一人たたずんでいると色んなものに敏感になる。音やにおいなどには特に敏感になる。そのおかげで色々良い事もあるが、やはり悪い事の方が多い。眠れないのはつらいのである。その苦しみはまさしく煉獄である。この煉獄とは地獄と現世の間に位置する場所のことをさす。たいした罪を犯していない人はそこで重労働を課せられ、働かされ、刑期が終われば無罪放免になる。どうやら私もその境遇にいるらしい。その境遇とは、「原罪」である。キリスト教の根本概念である、「原罪」を私は身にしみて感じている。頭の良い人は精神的に原罪を感じ、さほど良くない人は物質的な、金銭などの事で原罪を感じるといえる。もっとも本人たちにはその認識がないであろうが。
 なにはあれ、眠れない事はつらいという事だ。今の私の脳裏にはそれしかないようである。