恐怖への忍耐

2011年11月28日 | 勇気について

3-2.恐怖への忍耐
 勇気は、恐怖を制御しこれに耐えて平然と振る舞い、危険なものの排除・撃破にと果敢な対処をする。この二方面の振る舞いのうち勇気の中心をなすのは、前者、恐怖する感性の動きを自律的理性が制御する、恐怖への忍耐であろう。
 恐怖への忍耐・制御は、勇気に不可欠のものだが、果敢な攻撃的対処は、かならずしもそうではない。恐怖をもたらす危険なものについて、勇気は、これを攻撃しない場合があり(怖い大蛇を観察する場合とか、胃ガンと分かって恐怖する場合)、その恐怖にじっと耐えることは、攻撃的果敢さのない勇気となる。他方、攻撃的対処は、それが勇気の果敢さとなるには、恐怖していることが前提になる。恐怖していないのであれば、単に元気で気力が充実した攻撃になるだけである。ゴキブリの怖くない人がこれを追い回して捕まえて処分したとしても、勇気あるとは見なされないし、本人もまさか勇気を発揮したとは思わない。だが、これの怖いひとがそうしたとすると、当人は、果敢に勇気を振るったのだと興奮するだろうし、周囲も、恐怖していたと知ればそう評価することであろう。果敢な行為は、恐怖が前提にあれば、勇気となるが、恐怖がない場合は、勇気とはならない。恐怖を忍耐する勇気と、果敢な攻撃の勇気のうち、勇気の中心になるのは、恐怖の制御・忍耐の方になる。
 内心の恐怖と外の危険との二方面での勇気の戦いの区別は、日本語の表現でも、なされている。恐怖を制御する勇気は、「肝が太い」「動じない」「気丈夫」等で表現される。一般的には、これらは、攻撃的な姿勢を示すものではなく、恐怖を忍耐する勇気を示すものであろう。他方、危険の排除・撃破の勇気は、「猛々しい」「勇ましい」「大胆」「果敢」といったもので語られる。恐怖に耐えることを「猛々しい」とか「果敢」とは言わないであろう。これらは、闘志を燃やして危険の撃破に関わる戦闘的な勇気にふさわしいことばとなる。
 恐怖への忍耐が勇気の中心になるといっても、そとの危険と戦うべきものの場合、恐怖に忍耐しているだけでは、当然、勇気には欠ける。恐怖に耐えているだけでは、危険は排除できない。大胆・果敢に危険と戦い、これを撃破していく必要がある。ここでは、勇気の闘志が向かう先は、危険なものであり、これの排除である。それに意識が向くと、恐怖の意識は、背後にひきさがる。恐怖心が消えかかると、当然、それへの忍耐も不要となる。勇気は、(恐怖の)忍耐にではなく、その奮い立つ闘志を、果敢に大胆に危険な対象にと振り向けることになる。ただし、はじめの恐怖は消えても、戦いをはじめると、危険なものは、さらに、対抗的にそれに見合う危険をもたらしてくるから、新規の恐怖を呼び起こす。この新規の恐怖も克服することがないと、「ひるみ」「たじろぐ」ことになるから、大胆な攻撃の勇気は、この恐怖を忍耐し克服していくことになる。が、これも、その新規の危険に対抗し一層の攻撃にと集中すれば、消失するから、果敢の勇気では、恐怖への忍耐は一時的なものに留まる。


勇気は、無謀な暴勇・蛮勇ではない。

2011年11月24日 | 勇気について

3-1-8.勇気は、無謀な暴勇・蛮勇ではない。
 勇気では、猪突猛進はいいが、盲進は、厳禁である。盲目的反理性的な攻撃では、危険なものを正確にたたくことはできない。突進しても、的をはずしていたのでは、攻撃は失敗となる。勇み立つのはいいが、めくらめっぽうに刀を振り回すだけでは、味方を傷つけることともなる。
 勇気は、無謀と見えるぐらいに大胆になる必要はあるが、無謀であってはならない。無謀は、理性的な謀(はかりごと)を欠いた、合理的な計算をしない、危険に関する単細胞的な対応である。勇気は、危険なものを排撃しようというのであり、自他の状況を的確に把握し、攻防のあり方、その帰結をしっかりと見据えていなくてはならない。だが、無謀は、それらの謀を持たないで、がむしゃらに危険と対決する。無茶をする。猛獣ですら、無謀・無鉄砲ではない。かれらは、勝てると思えば攻撃し、負けることが自明なら、百獣の王も尻尾をまいて恐怖にしたがって逃走する。だが、無謀な人間は、敗北が必至で、恐怖していても、これを無視して、つっかかっていき、自爆自沈することになる。がむしゃらに攻撃していく構えをとると、危険・恐怖から気が攻撃にうつって、恐怖は、消えることになりやすいから、恐怖に耐える勇気もそこでは不要となる。無謀は、安易で気楽に自沈する愚かしい対応である。勇気は、危険の排除をめざす醒めた闘志をもつ。恐怖の動転を抑え危険なものに適正な対応をとって生の防衛に奮迅する。だが、無謀は、生の防衛に最適な対応など巧むことなく、無鉄砲に突進するだけである。
 勇気は、危険に適正な対応をとり、逃走するのが正解なら、逃げる。恐怖して我慢すべきなら、それに耐える。戦うべきところであれば戦う。死すべきところであれば、勇気を出して死を選ぶ。だが、無駄に死ぬような自殺行為は回避する。爆撃機の爆弾が真上から落ちてくるのが見えて、これが避けられるのなら、恐怖を抑えて、その回避にと逃走するのが勇気である。これを見つめたまま、「さあ落ちて来い、受けてやる」と無茶な態度をとるのは、おろかで無謀である。暴勇・蛮勇である。
 『葉隠』は、「武士道と云は、死ぬ事と見付たり」、「分別」など無用、「犬死」で結構、「気違に成て死狂ひする迄なり」(聞書1-2、113)と、謀をきらい直情を尊んで「死」を賛美する。「勇は・・前後に心付ず、歯噛して踏破る迄也」(聞書2-7)と、勇気には、前後の思慮分別など無用で、恐怖を噛み殺し、敵に牙をむき出して撃破するのみと断じる。武士は、つねに死を覚悟しておくべきだというのは、勇敢な戦士としてのあるべき心得であったろう。だが、『葉隠』の勇気は、死を恐れないだけではなく、戦いの勝利を大目的にしての深慮遠謀など無用とする。戦うべきと決したら(吉良邸討ち入りの赤穂の浪人のようにぐずぐずしていたのでは駄目で)、謀などせず、即座に、がむしゃらに突進して潔く散れという。だが、それでは、優れたリーダーを欠いていた場合は、御者を失ったあばれ馬になるだけである。その無謀の死狂いの勇は、尊い命を粗末にし、忠誠を誓う国家などに無用の(戦力の)損害を与え、自己満足に終わるだけとなろう。


勇気における未来の想定

2011年11月21日 | 勇気について

3-1-7.勇気における未来の想定
 勇気は、自律的理性のもと、禍いの未来を想像しつつ、その危険の回避にと能動的に関与していく。禍いの回避がかなうようにと巧み、リードしていく。恐怖については、これを甘受しつつ制御し、よりましな結果となる状態を想定して、逃走等の恐怖反応のあり方を導く。勇気は、危険を前に、可能ならば、これを撃破していこうとの闘志をもつ。危険なものと自身のあり方をふまえて、危険なものが自分の攻撃にどう対抗してくるかを想定しつつ、攻撃する方法を自在に描き出し、未来の結果を想像して、最適な方法を選択する。自他の攻撃・防御の対応の変わるに応じて未来のあり方が変わるから、そのたびに、結果がどうなるかを想定し直していかねばならない。
 弱いから勇気が必要となるのだが、勇気を出せば、勝てる可能性がある。恐怖が想像する危険の未来は禍いの襲来のみだが、勇気は、危険なものの撃破の態勢をとり、その未来には、覇者・勝者となった自分を描き出すことができる。そこへと自分を方向付けていく。覇者となる可能性において、未来は、明るく描け、楽天的に構えることができる。危険なものの排除・撃破が目的として未来に想像され、そのための現在のあるべき自身を思い、士気を高め闘志を奮い立たせる。その未来には、単に期待されたものを予期しているのではない。傍観者として未来を想像するのではなく、自身の勇気が作り上げていくものを、勇気が実現する未来を想像する。「こうなるであろう」ではなく、「こうあるべきだ」「こうすべきだ」という未来を想像して、これの実現へと主体的に取り組んでいく。もちろん、「こうなるであろう」という客観的な未来の予期も踏まえたものである。理性的な勇気の描くものは、独りよがりの妄想ではない。
 将来的には覇者・強者となる思いが勇気の闘志のうちにあるが、現実には、弱者だから、勇気が求められるのである。したがって、その現実にもとづいた未来も他方では承知しておかねばならない。闘志を燃やしても、覇者となることは、観念に、願望にとどまり、現実的には、敗者となり、禍いを被ることになる面ももっている。パニックになって敗走するのでは被害は大きくなるだけである。撤退にも勇気は発揮される。恐怖を抑制しつつ、最小限の被害で済む道を見出し想定しておく必要がある。将来のことを考え、捲土重来の可能性をもった敗北にとどめる。
 明るい未来を描き、大きな目的を目指してその障害を排除していく点で、勇気は、希望と並び立つ。「希望と勇気」は、未来に羽ばたく者に不可欠の心構えになる。希望は、文字通り、未来に大きな希有の望みをいだき、その関心を、はるかな未来にいだく。勇気は、未来の覇者となることを想定しているが、肝要なことは、現在の自身の構え方にかかる。未来の覇者となることが中心になるのではなく、そういう未来をもって、現在を鼓舞し、現在において危険と恐怖に対決して、覇気をもって、弱小のおのれを「今ここで」奮い立たせることである。


勇気は、危険(恐怖)をチャンスとも捉える。

2011年11月17日 | 勇気について

3-1-6.勇気は、危険(恐怖)をチャンスとも捉える。
 ひとは、危険には自然的に恐怖し、危険回避の反応を自動的にとり、逃走したり動けなくなってしまう。だが、自律理性のもと、勇気を発揮して、これを制御することができ、そのための適切な判断を下すことができる。理性は、そのおかれた状況を踏まえて、危険(恐怖)を避けて逃げる自然的なあり方でいいと見なすこともあれば、恐怖を甘受しつつ危険と戦い、これを撃破すべきだと判断することもある。
 まずは、勇気は、冷静に構えて、なにより正確に危険の状況を判断する。びくびくさせられるような暗闇の夜道などでは、真に危険かどうかを見極めるところから始めるべき場合もあろう。危険については、生の存亡に直結することも少なくない。希望的観測でも、脅えての妄想でもなく、自己と危険なものの力関係などの冷静な評価をもっての、正確で客観的な判断、危険度の判定が求められる。危険と見なしても、即恐怖にしたがって短絡的に動物的本能のままに逃走するようなことはしない。自然感性に距離をもてる自律的な理性は、恐怖と危険を制御することを試みる。その状況が「虎穴にいらずんば虎児を得ず」なのであれば、恐怖に耐え危険を冒し、これをチャンスととらえ挑戦する道を選択する。
 恐怖にしたがって逃走するのが正解と判断したら、勇気ある理性も、その自然感性にしたがい逃走する。が、自然的衝動のままにではなく、危険回避が一番かなう方法を選択していく。狂犬の前からは、走って逃げたくなろうが、それでは、犬の習性からは追いかけることを誘うので、それを誘わない程度の遁走にと恐怖を制御しなくてはならない。勇気は、恐怖に挑戦するとしても、単細胞的にどんな恐怖にも挑戦する無謀をすすめるものではない。猛毒のへびを前にしたときは、恐怖にしたがって逃走するのが適切な対応との判断を下すことであろう。勇気は、危険の排除、生の安寧を目指して的確な認識と合理的な判断をしなくてはならない。命を無駄にするようなことは避けるべきで、まずは、多くの場合、三十六計、逃げるが勝ち(「走為上」(走げるを上と為す))である。
 恐怖の自然に反する形で、逃走衝動を抑えて恐怖に耐え、これを甘受すべきならば(それは自律理性をもつひとのみにできることだが)、そうするのが勇気である。逃げてはならないと決意をする。自制・克己の勇気の出番である。危険が回避可能で撃破すべきと判断できれば、勇気は、当然、果敢に危険排撃に闘志を燃やしていく。適正な形での攻撃方法を見出して、危険の排除を試みることになる。がむしゃらに攻撃する単細胞的なものではなく、猛獣ではないのだから、もてる英知を総動員しての展開となる。戦いは、短期決戦で終えるのが基本であるが、短絡的では勝てない。自身と敵の能力を客観的に評価しつつ、理性を最大限に働かせての、深慮遠謀をめぐらしての攻撃となる。勇気は、暴勇・無謀を押さえ、戦いで生じてくる新規の危険への恐怖を抑えつつ、危機を好機に変える狡知を働かせ、危険の排撃にと挑んでいく。
   


勇気は、弱者の覇気・闘志である。

2011年11月14日 | 勇気について

3-1-5.勇気は、弱者の覇気・闘志である。
 勇気は、強者がもつかのように思えるが、それは、勇気を出した後で強者になるからである。その出発点では、勇気を出す者は、明らかに弱者である。6階の非常階段で「勇気を出す」者は、高所に弱いひとだけであって、ふつうの者は、勇気を出す必要がない。勇気は、恐怖を抑制し、危険に挑戦しこれを撃破する勢いをもつことである。恐怖は危険にいだき、危険は、禍いを被る可能性をもつことで、つまりは、弱者がもつものである。弱いから、危険になるのであり、危険だから恐怖反応をもつ。弱いから勇気が必要となるのである。ゴキブリが平気な者には、勇気はいらない。ゴキブリに弱いひとだけがこれに勇気を出すのである。
 強者は勇気が不要なのだが、弱者は、弱いからといって、勇気がある訳ではない。勇気が必要となる存在だということである。弱者が弱いままだと、当然、弱虫である。危険回避に精力を使い果たすだけの、恐れ臆する消極的な存在にとどまる。自分の弱さの投影されたその危険を乗越えて、これに勝利する意志をもつことで勇気あるものとなる。自分の弱さ(したがって危険・恐怖)を乗越えて、これを克服して勝者となる。勇気をもった者の結果は、弱者ではなく、自己の自然に打ち勝ち、そとの自然にひるむことなく毅然と対応して強者にと変身する。覇気をもち強者になることができるのは、いうまでもなく、ひとのみが自然を超越して自律的な理性をもつからである。
 勇気をもった時点で、弱者は、未来の自己を勝者・強者として描く。その振る舞いは、勝者・強者に向かっての積極的な行動となり、戦いとなる。覇者となる勢いをもって闘志をふるうのであり、すでに、勇気をもつことにおいて、その精神においては、ことの覇者となっているのである。自然的には弱者であるけれども、勇気をもつことにおいて、自然を支配する理性の自律を実現する過程に入っているのである。
 勇気を出すとき、ひとは、おのれの理性的尊厳を自覚することになる。動物は、どんなに強い猛獣であっても、おのれの恐怖には勝てない。自然に埋没していて、そこに生じる自然的恐怖のもとで遁走するのみである(逃走を躊躇するとしても、それは、また別の感性が、例えば、食欲とか、性欲などの自然が対抗するからである)。ひとだけが、自然から超越して、自然に抵抗し、理性のもとにこれを支配・制御していくことができる。自然的には弱者であるけれども、自然を超越した自律の理性をもった存在として、おのれのあるべき覇者の姿を勇気において見出し、ひとは、おのれの高貴な使命、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)をそこに感じることになる。勇気をもつとき、覇者としての気負いをもって恐怖を自制し危険と戦い、闘志を燃やし奮い立つ存在となるのである。