勇気は、危険(恐怖)をチャンスとも捉える。

2011年11月17日 | 勇気について

3-1-6.勇気は、危険(恐怖)をチャンスとも捉える。
 ひとは、危険には自然的に恐怖し、危険回避の反応を自動的にとり、逃走したり動けなくなってしまう。だが、自律理性のもと、勇気を発揮して、これを制御することができ、そのための適切な判断を下すことができる。理性は、そのおかれた状況を踏まえて、危険(恐怖)を避けて逃げる自然的なあり方でいいと見なすこともあれば、恐怖を甘受しつつ危険と戦い、これを撃破すべきだと判断することもある。
 まずは、勇気は、冷静に構えて、なにより正確に危険の状況を判断する。びくびくさせられるような暗闇の夜道などでは、真に危険かどうかを見極めるところから始めるべき場合もあろう。危険については、生の存亡に直結することも少なくない。希望的観測でも、脅えての妄想でもなく、自己と危険なものの力関係などの冷静な評価をもっての、正確で客観的な判断、危険度の判定が求められる。危険と見なしても、即恐怖にしたがって短絡的に動物的本能のままに逃走するようなことはしない。自然感性に距離をもてる自律的な理性は、恐怖と危険を制御することを試みる。その状況が「虎穴にいらずんば虎児を得ず」なのであれば、恐怖に耐え危険を冒し、これをチャンスととらえ挑戦する道を選択する。
 恐怖にしたがって逃走するのが正解と判断したら、勇気ある理性も、その自然感性にしたがい逃走する。が、自然的衝動のままにではなく、危険回避が一番かなう方法を選択していく。狂犬の前からは、走って逃げたくなろうが、それでは、犬の習性からは追いかけることを誘うので、それを誘わない程度の遁走にと恐怖を制御しなくてはならない。勇気は、恐怖に挑戦するとしても、単細胞的にどんな恐怖にも挑戦する無謀をすすめるものではない。猛毒のへびを前にしたときは、恐怖にしたがって逃走するのが適切な対応との判断を下すことであろう。勇気は、危険の排除、生の安寧を目指して的確な認識と合理的な判断をしなくてはならない。命を無駄にするようなことは避けるべきで、まずは、多くの場合、三十六計、逃げるが勝ち(「走為上」(走げるを上と為す))である。
 恐怖の自然に反する形で、逃走衝動を抑えて恐怖に耐え、これを甘受すべきならば(それは自律理性をもつひとのみにできることだが)、そうするのが勇気である。逃げてはならないと決意をする。自制・克己の勇気の出番である。危険が回避可能で撃破すべきと判断できれば、勇気は、当然、果敢に危険排撃に闘志を燃やしていく。適正な形での攻撃方法を見出して、危険の排除を試みることになる。がむしゃらに攻撃する単細胞的なものではなく、猛獣ではないのだから、もてる英知を総動員しての展開となる。戦いは、短期決戦で終えるのが基本であるが、短絡的では勝てない。自身と敵の能力を客観的に評価しつつ、理性を最大限に働かせての、深慮遠謀をめぐらしての攻撃となる。勇気は、暴勇・無謀を押さえ、戦いで生じてくる新規の危険への恐怖を抑えつつ、危機を好機に変える狡知を働かせ、危険の排撃にと挑んでいく。