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「老いて死なぬは、悪なり」といいますから、そろそろ逝かねばならないのですが・・・

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快い物事を得て(価値判定)、心地よくリラックス(心身反応)

2010年06月12日 | 節制の対象は、快楽か?(節制論2)
2-1. 快い物事を得て(価値判定)、心地よくリラックス(心身反応)
 感情は、関与するものへの主体の価値判定とそれへの心身の反応の二面からなる。例えば、怒りは、その対象に対して、気障りとの価値判定をし、懲罰を加えようという心身の反応・態度をつくる。喜びの感情は、自己が新規に価値あるものを獲得したとの価値判定をし、有頂天になって勝利確定の態度をとり、あまったエネルギーを放出する等の反応をもつ。気障りだとか、新規の価値獲得だと冷静に思うだけでは、感情にはならない。それらへの心身の反応(特に身体の反応)が不可欠で、攻撃的に構えて怒りの感情となり、勝利の構えを作って喜びの感情となる。
 快の感情は、価値判定としては、自分に具合がよい、生を促進するような好ましいプラスの物事が生起し、あるいはマイナスの事態の除去がなっていると見なしているのである。そして、態度・心身の反応としては、この生促進の好都合な状況に緊張解除して安らぎ充足して、これにのめりこみ、これと距離をなくし一体的になろうとしているものであろう。快は、生に有益と判じて、これに一体化し安らぐのであり、不快は、有害なものを感じて、これを排除しようと反応する。すべての感情は快不快の二系列のどちらかに分けられる。その生にとって価値があり生促進の好都合なもの(快)か、反価値で不都合なもの(不快)かになる。
 食欲の場合、快は「おいしい」となり、不快は、「まずい」ものとなる。いずれも大切な反応である。栄養物として取り入れたいのが「おいしい」ものであり、有害・有毒で受け入れ拒否したいのが「まずい」ものである。
 性欲の場合、快楽は、生といっても個体にとってではなく種のレベルでの生の促進に好都合ということになる。異性生殖のはじまった初期には、快をもたない個体もあっただろうが、そういう個体は当然子孫を作ることがなかった。快をいだく個体のみの子孫が残るという淘汰が何億年とつづいてわれわれに到っているのである。ここでは、反対の「不快」は、顕著ではない。異性生殖なので、別々の異なる存在となっていて、もともとが分離し排除的な状態にあるからである。仮にひとがアメーバのように自己分裂で増殖するようになっているのだとしたら(異性生殖での母体からの出産も、遡れば、始原はこれであろう)、食欲の不快と同じように、生殖にともなう不快感情も強烈なことであろう。自己内に生じた不快な異物の排除が生殖となり、分裂を達成しての解放感が快楽となる。
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