忍耐させる者の目的と、する者の目的・無目的

2017年08月18日 | 忍耐論1(忍耐の倫理的な位置)

1-4-4-3-1. 忍耐させる者の目的と、する者の目的・無目的 
 強制としての忍耐では、当然、強要する者の描く忍耐の目的があり、忍耐する者にこれを強制する。それが教育的なものであれば、忍耐させられる者も、させる者の目的に参加することである。だが、させる者のみの利益のための忍耐だと、奴隷労働がそうであるが、忍耐する者は、させる者の利益・目的のそとにおかれ、その目的とは疎遠な状態になる。自分のつらい苦痛甘受の忍耐において、自己疎外を感じることとなる。それでも、辛抱しようというのは、「拒否して殺害されるよりは、生きる方がまし」等と、強制労働への、消極的な後づけの目的が描けるからであろう。
 嫌いなニンジンをこどもが我慢して食べるのは、親が強制するからである。それが滋養になり、強い体を作るからだと、親は、目的を描くとしても、子供の多くは、目的を描いて食べるのではない。親が強制することに抵抗せず諦念して、(食べないで、怒られたり遊びに出ることを禁止されたりするよりは)より不快の小さい方をと忍耐するのである。それでも、賢い子は、親の描く目的に納得してこれを自分の目的としていくことである。
 苦痛・苦労が現にあっても、それを耐えることで何かがなるという目処(目的)がたたないでする忍耐もある。食べるものがないので食べないで我慢しているというようなとき、未来になにかを描いてではなく、無為に、やむを得ず我慢しているだけのことがあろう。昨今であれば、若干の恥を忍べば、あるいは汗水を流せば、食べ物にありつけそうだが、「面倒くさい、空腹の方が苦痛は小さい」という、快不快の自然感性のもとにあってのことかもしれない。ときには、「武士は食わねど高楊枝」と、尊厳ある生の堅持を描き(そう目的を後づけし)、空腹の我慢を目的意識下の忍耐とすることもあろう。